房総特急を語る際、必ず口にするのが「今や、高速路線バスに覇権を盗られて絶滅寸前」というキーワード。ツートップだった「さざなみ」と「わかしお」は「成田エクスプレス」の関係で京葉線に追いやられ、「さざなみ」に至っては、「通勤ライナー」的に朝夜しか運転されなくなってしまいました。

一方、総武本線系統も「しおさい」が何とか残っており、7往復が設定されていますが(国鉄時代から本数的には意外に不変)、それでも「成田エクスプレス」の陰に隠れており、「えっ!? いたの?」的に存在が薄い。でも、どっこい生きているのは「房総特急の火を消してはならない」というJR東日本千葉支社の意気込みが感じ・・・・・られないか。

高速路線バスの前ではひれ伏すしかないのが平成・令和における房総特急の立ち位置ですが、昭和国鉄時代は紛れもなく房総特急は総武本線系統のフラッグシップでした。

 

房総特急はまず、昭和47年7月に全線で電化が完成した外房線と内房線の「わかしお」と「さざなみ」でスタートし、遅れて昭和50年3月、総武本線と成田線、そして鹿島線の電化が完成したことによって、「しおさい」と「あやめ」が続きました。総武本線も成田線も鹿島線も実際は昭和49年に電化は完成しているんですが、特急の運転や急行の電車化については、山陽新幹線博多開業に関連する全国ダイヤ改正に合わせたものと思われます(同改正で廃止になる山陽急行の153系を転用させる計画もあったから)。

 

沿線に「東国三社」の一つで全国に存在する鹿島神社の総本山である鹿島神宮や水郷潮来などの観光地があり、国家プロジェクトとして開発が始められていた鹿島臨海工業地帯への輸送ルートを確保するためにという大義名分で建設された鹿島線ですが、悪名高き日本鉄道建設公団と政府による忖度によって半ば強引に建設された経緯があります。開業当初は沿線にそれほどの住宅地がなかったこともあって利用客はさっぱり。そのため、メインは鹿島神宮や香取神社への参拝客、あるいは小江戸と呼ばれる佐原への観光客、6月になれば潮来のアヤメ観賞など、観光需要で成り立っていた路線でした。

 

鹿島線開業当時は普通列車の他に急行「水郷」が設定されていましたが、鹿島線内は普通列車になるので、速達列車は無いに等しいです。ただまぁ、鹿島線は15km弱、4駅しかないので、速達でも普通でもそんなに変わらないですよね。

そんな鹿島線に転機が訪れるのは今から50年前の昭和49年10月。沿線住民悲願の電化が完成して電車が走るようになりました。そうなると、さらに気運が高まるのが「鹿島線にも “純” な優等列車を」という夢ですが、それは前述の50.3改正で、エル特急「あやめ」と急行「鹿島」が設定されることで結実します。同改正で「水郷」は成田線経由で銚子まで行く列車に特化されました。

 

 

こちらは昭和54年12月現在の「あやめ」の時刻表です。

運転開始当初から4往復運転は変わらず、運転本数は必ずしも多いというわけではないのですが、一応、下り列車も上り列車も決められた時分(カッキリ発車)に出発駅を発車し、自由席も設けられていることから、最初からエル特急に “推挙” されています。東北本線の「はつかり」と「やまびこ」、信越本線の「あさま」と「白山」の関係と同じく、「しおさい」と抱き合わせてグループ化、それで本数は多いよう(数自慢)に見えるようにする魂胆が見え見え。エル特急はブルートレインと並んで当時の鉄道界ではアイドルそのものだったので、それで乗客を取り込んでしまえという意図も見え隠れします。

 

ただ、「あやめ」は別の意味で注目を集めました。

それは「日本一短い特急」という有り難くない称号。

東京-鹿島神宮間113.1kmという運転区間は国鉄特急史上、最も短いものとしてその名を刻しています。もっとも、国鉄末期に登場した新特急なんかは「あやめ」よりも短い距離の列車もあったかもしれませんが(特に「新特急なすの」の宇都宮発着便)、この段階では調査が行き届きませんでした。JR化後の特急は運転区間、使用車両、編成、停車駅、そしてホスピタリティも、もっと酷くてヤバいのがあるので、それを考えたら、「あやめ」は全然イケてる特急だと思います。

 

この結果、昭和50年以降、東京駅には

「日本一長い距離を走る在来線特急列車(寝台特急「富士」)」

「日本一短い距離を走る在来線特急列車(エル特急「あやめ」)」

が走っていたことになります。

55.10改正以降、「日本一長い」称号は「富士」から「はやぶさ」に委譲しましたが、長短日本一が混在するのは変わりませんでした。

 

運転開始当初の使用車両は幕張電車区の183系。

「わかしお」「さざなみ」「しおさい」と共通の、グリーン車付きの9両編成でした。

昭和57年11月のダイヤ改正で1往復増えて5往復体制となりますが、1往復が両国発着となります。増発分は「鹿島」の格上げによるもの。なお、この改正では「鹿島」を始めとする房総急行が全廃されており、列車によっては特急に格上げされたり、そのまま廃止になったりと末路は様々。そんな中、急行「水郷」が格上げされて、特急「すいごう」となりました。東京駅を無視した両国駅発着、グリーン車を連結しないモノクラス6両編成、新潟から転配された183系1000番代を使用するなど、既存の房総特急とは趣を異にした列車でしたが、平成16年に「あやめ」に統合されてしまいます。

その「あやめ」は昭和60年3月のダイヤ改正で、「すいごう」同様、グリーン車が外されて6両編成で統一されて民営化を迎えるわけですが、この改正から、電化前の「水郷」に戻ったような、佐原-鹿島神宮間が普通列車扱いになってしまいました。

民営化後は冒頭お伝えした、高速路線バスの台頭によって利用客が減り、平成6年には一旦、1往復運転になって、エル特急の称号は剥奪。その後、前述の「すいごう」統合で3往復(厳密には2.5往復)に戻りますが、列車毎に行く先がバラバラと、もはや「どうにでもしてくれ」状態で、平成27年3月に廃止されました。

 

現在の鹿島線の終点は鹿島サッカースタジアム前駅で、「Jリーグの試合がある時だけ「あやめ」を運転して欲しい」旨の陳状を鹿嶋市がしたとかしなかったとかいう風の噂を聞いたことがありますが、JR東日本は首を縦に振っていません。また、「あやめ」を鹿島神宮から大洗経由で水戸まで延長するという噂も聞いたことがありますが、そうなれば、必然的に気動車特急が誕生することになったんですよね。まぁ・・でも、大洗鹿島線沿線に何があるのかと訪ねても「何も無い」と答えざるを得ず、「ひたち」の敵ではないなというのは明々白々。

 

「あやめ」が走っていた時代が鹿島線にとって一番「良い時代」だったのかもしれませんね。

 

 

【画像提供】

タ様

【参考文献・引用】

国鉄監修・交通公社の時刻表1979年12月号 (日本交通公社 刊)

JR時刻表2023年3月号 (交通新聞社 刊)

時刻表1973年4月号 (日本国有鉄道 刊)

日本鉄道旅行歴史地図帳第3号「関東」 (新潮社 刊)

エル特急大図鑑 (山と渓谷社 刊)

ウィキペディア(鹿島線、鹿島神宮駅、あやめなど)