第24章 平成6年 常磐高速バス東京-東海原研線・笠間線で薔薇色の未来と人類の夢を思う | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
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【主な乗り物:高速バス「勝田・東海」号、高速バス東京-笠間線】

 

 

東京と笠間を結ぶ高速バスの開業を知ったのは、平成11年1月のことであった。

常磐線の水戸駅と東北本線小山駅を東西に繋ぐ水戸線に、笠間という駅が存在することは知っていたから、常磐線から少しだけ外れた未訪の町への高速路線が更に加わったのか、と乗りに行くのが楽しみになった。


水戸線は、乗り通したことがある。

平成3年の真冬だったと記憶しているが、池袋と新潟を結ぶ「関越高速バス」夜行便に乗り、青春18切符を懐に忍ばせて、越後線、上越線、只見線、磐越西線、水郡線と普通列車を乗り継ぎながら本州を横断し、とっぷりと日が暮れた水戸駅にたどり着いた。

 

越後線120M:新潟5時23分-柏崎7時18分

信越本線1237M:柏崎7時28分-長岡8時20分

上越線1724M:長岡8時40分-小出9時13分

只見線430D:小出9時20分-只見10時44分

只見線432D:只見10時50分-会津若松13時20分

磐越西線快速「ばんだい」:会津若松14時01分-郡山15時01分

水郡線330D:郡山15時35分-水戸19時11分

 

越後線、只見線、磐越西線、水郡線と未乗の線区にたっぷり乗ることが出来たし、雪景色も存分に堪能したので、当初はこれで終わりにするつもりだった。

ところが、14時間も普通列車に揺られたと言うのに、何やら乗り足りない気分になってしまい、もうひと踏ん張りして、こちらも未乗だった水戸線で小山駅まで行こうではないかと、水戸を19時31分発、小山に21時03分着の776Mに飛び乗ったのである。

 

つまり、水戸駅から5駅目の笠間駅を通ったことはある。

しかし、ただでさえ日が短い真冬の午後7時過ぎであるから、車窓は漆黒の闇に塗り潰されて何も見えなかったので、未訪と変わらない。

 

 

登山家にクライマーズ・ハイという生理状態がある。

登山中に興奮状態が極限まで達し、恐怖感が麻痺してしまう状態のことを指す。

同様に、継続的な運動によってもたらされる一時的な多幸感として、長距離走におけるランナーズ・ハイや、ボート競技におけるローワーズ・ハイがある。

 

長時間に渡って身体を動かし続けていると、次第に苦しさが増してくるものの、我慢して続けると、ある時点から逆に快感・恍惚感が生じる現象は、延々十数時間も各駅停車の硬い座席に座り続けて、お尻は若干痛かったけれど、なおも乗り続けたくなった水戸駅での僕に通じるものがある。

座席に座ってぼんやり過ごしているだけの車中とスポーツを一緒にするなと、怒られるかもしれないけれど。

 

 

僕は、横山道夫が、昭和60年8月12日に起きた日本航空123便墜落事故を地元の新聞社を舞台に描いた小説の題名として、クライマーズ・ハイという言葉を知った。

映画化やテレビドラマ化もされ、僕は未見であるけれど、小説には深い感銘を受けた。

我が国における戦後有数の悲劇を思い出し、かつ、その舞台裏で繰り広げられる人間模様、とりわけ主人公が身を賭して信念を貫く姿勢に、強く共感した。

 

ただし、東京と笠間を結ぶ高速バスは、運行距離113.8km、所要2時間07分であるから、クライマーズ・ハイになるはずもない。

水戸線の思い出が蘇り、呆気なくて乗り足りないと感じるかもしれない、と考えたのか、僕はもう1路線を加えることにした。

同じく「常磐高速バス」の一員として、東京と、水戸の北にあるひたちなか市、東海村を結ぶ高速バス「勝田・東海」号である。

 

 

この路線は平成8年から運行されていたが、僕がこの路線に乗ろうと思い立ったのは、だいぶ月日が経ってからであった。

ひたちなか市は、平成6年に勝田市と那珂湊市が合併して発足している。

常磐線の下り列車に乗って水戸駅を過ぎると、那珂川駅、勝田駅、佐和駅、東海駅と駅が並んでいる。

水戸駅と勝田駅の間は僅かに6km弱、東海駅でも15km程度であるから、東京-水戸線「みと」号に何度か乗車したことのある僕としては、似たような路線なのだろうな、と何となく食指が動かなかった。

当時は津々浦々に新しい高速バス路線が開業していた時代で、他に乗ってみたい高速バスがたくさん存在したことも一因である。

 

勝田駅には大きな操車場があって、上野発の特急「ひたち」も勝田を起終点とする列車が運転されているから、水戸の郊外のようなイメージで、名前だけは知っていた。

操車場だけでなく、勝田市は日立製作所の企業城下町として発展した工業都市であり、市民の多くが日立製作所と関連企業に勤めていると聞いているので、首都と直通する高速バスの需要が高いのだろう。

那珂湊市は、勝田市とは対照的に水産業で発展し、平磯、姥の懐、阿字ヶ浦などの高名な海水浴場で知られ、僕も、国営ひたち海浜公園は1度訪ねてみたいと思っていた。

 

両市が合併して、ひたちなか市と平仮名の市名を名乗った詳しい経過は知らないけれども、その2年後に登場した高速バスならば、「勝田・東海」号ではなく「ひたちなか・東海」号でなければならないはずである。

別に地名ではありませんよ、経由する駅の名前を付けただけです、と運行会社が涼しい顔をしているような気がしないでもない。

 

 

平成11年の晩秋の日曜日に、7時30分発の「勝田・東海」号の始発に乗るべく、早朝の東京駅八重洲南口バスターミナルにやって来た。

日中は多少気温が上がる日も残っていたものの、午前7時頃という早い時間帯であれば、思わず襟元を掻き合わせたくなる肌寒さであった。

冬が間近なのだな、と思う。

 

比較的近距離の路線が多い「常磐高速バス」の乗車にしては、久々の早起きであった。

往路で利用する「勝田・東海」号は、那珂町役場、佐和工場前、水戸工場北、勝田駅前、ひたちなか市役所、本郷台団地入口、動燃正門前と停車してから、終点が東海原研前になっていて、走行距離142.2km、所要2時間半に過ぎない。

帰路に乗る予定の笠間からの高速バスは、上りの発車時刻が5時30分、7時00分、8時35分と16時00分の4本で、僕は16時の便に乗るつもりであったから、それほど早起きをする必要はない。

そのために、僕は、原研前から東海駅に出て、常磐線の上り列車で水戸駅、水戸線に乗り換えて笠間駅まで行かねばならぬ。

距離も所要時間も大したことはないのだが、原研前から東海駅に向かう路線バスの運行時刻が判らず、余裕を見て早く行くに越したことはないと考えたのである。

乗り物に乗るための早起きならば、一向に苦にならない。

 

 

定時に乗り場に現れたのは、JRバス関東の見上げるように背が高いスーパーハイデッカーで、これまで「常磐高速バス」ではハイデッカー車両ばかりに当たっていた僕は、ツイてるぞ、と小躍りした。

おそらくは夜行高速バスに用いられている車両の間合い運用なのであろうが、どの便もスーパーハイデッカーが投入されているとは限らず、早起きして初便を選んで良かったと思う。

 

日曜日の早朝の地方へ向かう下り便であるから、用務客らしき乗客は少ない。

2人連れのおばさんが、乗降口のステップをよっこらしょ、と昇りながら、段数が多いことに気づいたらしく、

 

「あらまあ、いつものバスよりも階段が高くない?」

「そうねえ、私、膝が痛いから大変だわ」

 

などと言い合っている。

 

 

十数人の客を乗せた「勝田・東海」号は、東京駅を後にして車の少ない八重洲通りを東へ進み、首都高速都心環状線の宝町ランプから高速道路へ進入する。

隅田川に沿う下町を見下ろす首都高速6号向島線、三郷線、そして常磐道へと歩を進める道筋はお馴染みであるけれど、この景観をスーパーハイデッカーの高い窓から眺めるのは、昭和63年に開業した東京駅といわき駅を結ぶ「いわき」号以来の経験で、なかなか新鮮に感じられる。

 

スーパーハイデッカーが投入されるのは大半が夜行高速バス路線であるが、常磐道を使う夜行高速バスは、平成元年に開業した成田空港から西船橋、松戸を経由して仙台を行き来する「ポーラスター」号くらいしか思い浮かばないし、僕が知る限りでは、我が国で初めて夜行高速バスにハイデッカーを投入した路線である。

大阪と水戸を結ぶ「よかっぺ」号や、大阪と日立・いわきを結ぶ「シーガル」号も常磐道の夜行高速バスと言えるが、前者は平成13年、後者は平成14年の開業であるから、この旅よりも後のことになる。

 

 

鉄道では、上野と青森を結ぶ寝台特急「ゆうづる」や、上野と仙台を直通する昼行特急「ひたち」など、常磐線を経由する列車も多く、東北本線のバイパスとして機能していた。

 

常磐道は長い間いわき中央IC止まりで、仙台方面に向かうためには、いわきJCTで西に折れて磐越自動車道で東北道に合流する必要があった。

常磐道のいわきと仙台の間の整備計画が決定したのは昭和62年のことであるけれど、いわき以北の区間として初めてお目見えしたのは、いわき中央IC-いわき四倉ICの間が開通した平成11年3月のことで、この旅の年のことである。

平成14年3月にいわき四倉IC-広野IC間が、平成16年4月に広野IC-富岡IC間が、そして平成21年9月に仙台寄りの山元IC-亘理IC間が部分開通した状態で、平成23年3月11日の東日本大震災と、福島第一原子力発電所の事故が発生する。

那珂ICと水戸ICの間の上り線が崩壊するなどといった被害が生じ、常磐道は全線で通行止めとなったが、同年4月に、広野IC-富岡IC間を除く既存の開通区間は全て復旧した。

 

ところが、福島第一原発事故の影響により、残りの建設区間への立ち入りが厳しく制限を受け、平成23年に開通を予定していた富岡IC-南相馬IC間などは工程の大幅な見直しを余儀なくされてしまう。

常磐道の復旧と残存区間の建設は、常磐線の復旧と共に被災地復興のシンボルとして政府から強く後押しを受け、震災から約3か月後に建設及び復旧工事が再開されたものの、福島第一原発から半径20km以内の警戒区域内では、浪江IC-南相馬IC間の18.4kmが1年後、富岡IC-浪江IC間14.3kmが2年後まで、それぞれ工事を再開することが出来なかった。

工事途上であった箇所の盛土や構造物は、地震の揺れによる損傷に加えて、長期間放置されたことによる雨水の浸食や鉄筋の錆といった被害が拡大し、加えて、被災地における復旧工事が本格化したために、慢性的な人員不足や資材不足に陥り、原発事故による放射能の影響で作業時間の制限や作業員の離脱、業者による資材搬入の拒否などという事態も相次いだと聞く。


 

合わせて常磐道の除染作業も、環境省直轄の事業として平成24年3月から開始され、平成26年10月の測定では、浪江IC-南相馬IC間で平均0.6~0.7µSv/時、広野IC-富岡IC間で1.3~1.5µSv/時、富岡IC-浪江IC間で0.5~2.4µSv/時という結果になり、除染の目標値である3.8µSv/時を下回ったのである。

「概ね当初の方針どおり線量を低減」「一部で線量の高い区間があるものの一定程度低減」と環境省が結論づけたことを受けて、平成24年4月の南相馬IC-相馬IC間の開通を皮切りに、通行止めとなってい広野IC-富岡IC間が平成26年2月に再開通する。

同年12月には浪江IC-南相馬IC間と相馬IC-山元IC間が、平成27年3月には富岡IC-浪江IC間が完成し、常磐道は三郷JCT-亘理JCT間の全線が開通、前後の首都高速道路と仙台東道路を通じて、東京と仙台の間が、東北道と合わせて2本の高速道路で結ばれることになったのである。

 

本来ならば、常磐道は首都圏と仙台の間における東北道の交通量を分散させ、渋滞を緩和させる役割が期待されていた。

東北道には、那須高原や国見峠といった積雪の多い山岳地帯を通過する区間があるけれども、太平洋沿岸を通る常磐道は、全線に渡って降雪量が少ない。

山間部の勾配や曲線が緩やかであるのも常磐道の特徴で、鉄道における東北本線と常磐線の関係と似ている。

何よりも、東北道経由より常磐道経由の方が約20km短く、首都圏と仙台を結ぶ高速道路として最短経路なのである。

 

ただし、東京駅から仙台駅まで東北道経由で370km、無停車で4時間30分程度であるのに対し、常磐道経由では349km、4時間50分と、距離と所要時間が逆転しているのは、未だに暫定2車線の区間が多いためであろう。

いわき中央IC-亘理IC間は、開通当初、全て暫定2車線であったが、いわき中央IC-広野IC間と山元IC-亘理IC間が令和2年度中に4車線化工事を完了する予定であり、浪江IC-山元IC間の4車線化も優先する方針が国土交通省から打ち出されている。

 

 

常磐道を使って東京以西から仙台以北へ行き来する高速バス路線が、所要時間の長さゆえに登場していないと言うならば、東京と南相馬を結んでいた「いわき」号の1系統が、震災から現在に至るまで運行休止を継続している理由が説明できない。

福島第一原発事故の影響は、決して無視できないのだと僕は思う。

福島県の人口は、予想されていた少子高齢化等による自然減を差し引いても、震災以降で2万人も減少している。

福島第一原発周辺は一時無人地帯となり、今でも避難者の多くが戻って来ていない。

僕らは、間違いなく、国土の一部を失ったのである。

 

除染されたとは言え、NEXCO東日本が発表している広野IC-南相馬IC間約50kmを時速70kmで片道1回走行した場合の車内における被曝線量は、0.28μSvである。

胸部単純レントゲン撮影の被曝線量60μSv(0.06mSv)の210分の1、東京-ニューヨーク間を航空機で往復した場合の被曝線量0.11~0.16mSvの390~570分の1程度であるから、科学的には、常磐道の走行による被曝により、問題視されるような人体への影響は生じない量とされている。

 

 

僕が、「いわき」号とは別の事業者が開設した東京と相馬を結ぶ高速バスの上り便に乗車した平成27年には、外気を遮断する内気循環方式で運行し、車内での被曝線量は0.13μSvと発表されていた。

3~5kmごとの道端に、10分間当たりの平均放射線量を示すモニタリングポストが置かれ、僕が東京-相馬線に乗車した日は、南相馬IC付近の243.1kmポストで0.2μSv/時、237.9kmポストで0.3μSv/時、233.9kmポストで0.9μSv/時、そして福島第一原発に最も近い浪江ICと富岡ICの間に置かれた226.8kmポストは、4.3μSv/時まで上昇した。

 

ここのモニタリングポストは、平成27年の開通時に「5.5μSv/時」を示している写真が新聞の一面を飾り、度肝を抜かれた。

単純計算で1年間の積算が48mSvと、「帰宅困難地域」に相当する放射線量である。

 

浪江、富岡を過ぎると線量は減少傾向になり、222.6kmポストでは2.14μSv/時、富岡IC付近の214.4kmポストで1.87μSv/時、そして広野IC付近にある203.7km地点で0.14μSv/時であった。

 

 

現在、東京-相馬線を運行する事業者のHPを開くと、『外気導入固定運転にて車内換気を行いながらの運行です』と書かれている。

「外気導入固定運転」とは、約5分で室内の空気を入れ替えて客室内の密閉を防止するという、新型コロナウィルス感染対策を主眼に置いた換気方式であり、要は、外の空気を存分に取り込みながら走行しているのだろう。

 

全線開通しているにも関わらず、福島第一原発に近い大熊ICの供用開始は平成31年3月、双葉ICの供用開始は令和2年3月までずれ込んだ。

 

現在もなお、苛烈な放射能災害との闘いを続けている地域を、何の抵抗感もなく通過出来るものなのかどうかを想像することは難しい。

通過するだけの乗客ならばともかく、毎日通り抜ける運転手さんや車体の汚染はどうなのか、もしも事故や故障などが発生し、長時間を車外で過ごすことになった場合の被曝量は如何ほどになるのか。

 

令和2年3月には、常磐線が全線復旧して東京と仙台を結ぶ特急列車が走り始めている。

常磐道いわき以北における4車線化工事が進捗した暁には、是非とも、高速バスも迷わず利用できる被曝線量になってほしいと心から祈っている。

 

 

12年後に、常磐道がこのような悲劇に見舞われることなど想像することも出来なかったけれど、僕が乗る「勝田・東海」号は、水戸ICの次の那珂ICで高速道路を降りた。

 

那珂町の名を、僕は、国立量子科学技術研究開発機構の那珂核融合研究所で知った。

重い原子であるウランやプルトニウムの原子核分裂反応に対して、軽い原子である水素やヘリウムによる核融合反応を利用してエネルギーを発生させる装置が核融合炉である。

例えば、恒星が産する膨大なエネルギーは、全て核融合反応によるもので、核融合炉が地上の太陽と呼ばれる由縁である。

 

恒星は自身の巨大な重力によって反応が維持されるが、地球上で核融合反応を発生させるためには、極めて高温もしくは高圧の環境を作り出す必要がある。

実際に核融合反応で発電するためには、水素の原子核が秒速1000km以上の速度で衝突し合う必要があり、重水素と三重水素(トリチウム)が反応するD-T反応では、炉内でプラズマ温度が1億℃以上、密度が1立方cmあたり100兆個の水素原子を1秒以上閉じ込めることが、発電を起こす「臨界プラズマ条件」とされている。

数字だけでは何が何やらさっぱりであるが、空気1立方cmあたりに含まれる分子数は3×10の19乗個、つまり3000京個で、そのうち水素は0.00005%に過ぎないこと、20℃の条件下における水素の速度が秒速1754mに過ぎず、水素原子の1s軌道における電子の速度が光速の137分の1、つまり秒速2200kmであることから、水素原子を電子の2分の1という熱運動速度で飛び回らせるために太陽の表面温度6000℃の2倍近い高温を要すると聞けば、気の遠くなるような革新的な技術を要することが、僕のような素人でも窺える。

令和7年の実用化を目指して、日本を含む各国が協力して国際熱核融合実験炉をフランスに建設する計画が進み、核融合反応の過程で生じる高速中性子など様々な高エネルギー粒子の影響を最小限に留めるなど、様々な関連技術の研究が行われている。

 

核融合反応は、核分裂反応と異なり、反応の維持が技術的に大変困難で、装置の不具合や調整ミスが自動的に反応を停止させてしまい、再開も容易ではないと言う。

安全性の観点からは悪くない特性であり、核分裂のような連鎖反応を起こさず、暴走が生じない原理であるため、現在の原子力発電所のような危険性とは無縁であると言われている。

しかし、核融合反応で発生する中性子は、核融合炉壁や建造物など、元々放射能が無い物質を放射性同位体にする放射化現象を起こし、また燃料化の過程で使用する三重水素も、放射性物質として取り扱いに細心の注意が必要になる。

フランスに建造予定の核融合炉では、東海発電所の廃炉と同程度の2万tにも及ぶ放射性廃棄物を発生させると推測されている。

 

SFでは、現在の核分裂による発電は、核融合発電が実用化するまでの過渡期に過ぎない、という設定を設けている話が多く、僕のようなSFファンにとって核融合と言えば、薔薇色の未来の象徴であった。

昭和45年に大阪で開催された万国博覧会では、国内電力9社によるパビリオンで、人類の科学の進歩によって地上に太陽を作り出そうという趣旨の原子力発電讃歌の短編映画「太陽の狩人」が放映された。

大阪万博では、1日に30万kWの電気量を要し、完成間近の美浜原子力発電所と敦賀原子力発電所から送電が行われたのである。

 

 

片山杜秀氏の著書「見果てぬ日本」によると、昭和40年代初頭に発行された子供向けの学習図鑑では、人工太陽が照らし出す未来都市が描かれ、

 

『人類はついに、夜を征服したのです』

『都市全体を明るくすることによって、人間の作業の能率も高められるようになりました。また、1日の作業を終えた人たちが、明るい町で、自分の時間を楽しめるようになりました』

『電力は、ほとんど全部が“核融合”の発電所でまかなわれています』

 

という説明文が添えられていたという。

 

『“核融合”というのは、水素の仲間である重水素が2つくっつくとき、つまり原子核が癒合するときに出てくるエネルギーを利用する発電のしかたです。原料の重水素は海水に5000分の1程度は含まれている重水から取り出せます。重水とは重水素と酸素の化合物です。それを分解すれば良いので、地球に海がある限り、その量は、人類が1億年から10億年くらいまでは使えるほどあると言われるのです』

『ウランが2つに割れるときに出てくるエネルギーを使う核分裂による原子力発電は、少し不利です。なぜならば、ウランの原料は数百年からせいぜい千年分くらいしかありません。また、分裂するときに、同時に放射能を帯びた灰が出てくることも欠点です。この放射能の灰を害にならないように捨てるための費用が、なかなか高価なものになるのです』

 

と、我が国初の原発が東海村に建設された時期でありながら、核分裂による発電方式は、核融合発電が実現するまでの一時的な技術であるとも説明している。

 

僕は、そのような無邪気で楽観的な夢が氾濫する時代に育ってきた世代である。

 

 

夢の実現を目指す研究が、この那珂町で、現在でも連綿と引き継がれているのか、と車窓に見入っても、何処とも変わり映えのしない、穏やかで鄙びた風景が映るだけである。

那珂ICのすぐ近くの那珂町役場バス停では、信号機には「那珂町役場前」と書かれている交差点が見えるものの、古びた家々が点々と並んでいるだけで、役場らしき建物は見当たらない。

 

往復2車線で緩やかなカーブが繰り返される国道6号線に入ると、昔ながらの道路だな、と心が和む。

国道を南下するにつれ、日立製作所の城下町らしく、佐和工場前と水戸工場前のバス停が案内される。

日曜日であるから用務客らしき人は降りなかったけれども、どちらの工場も余裕のある敷地と守衛所を設けた立派な門構えで、如何にも国家に関わる大事なものを作っているぞ、という雰囲気を醸し出している。

それぞれの交差点には「日製佐和工場前」「日製水戸工場前」と書かれ、地元では日立製作所を日製と呼んでいるらしい。

 

 

如何にも昭和の建築物といった外観を持つ三角屋根の勝田駅と、次のひたちなか市役所前で降りる客が最も多く、この辺りが中心街なのだろうが、意外と建物の密度が低く、郊外のような街並みである。

中央分離帯のあるあっけらかんと広い県道へ左折すると、大きな駐車場を備えた店舗や倉庫が並ぶ真っ直ぐな道路で、国道245号線に左折して鼻先を北に向けると、一段と道幅が広がって見通しが良くなった。

 

「勝田・東海」号の終点の東海村は那珂ICの北東にあるのだが、南に位置する勝田駅とひたちなか市役所まで大きく回り道をする経路であるため、那珂町役場から東海原研前まではおよそ50分かかる。

 

右手の奥に、防風林のような緑の林が延々と連なっているのは、国営ひたち海浜公園であろうか。

海が近いことが窺える風景であった。

 

 

道ばかりが広い坦々とした田園風景が続き、いつ東海村に入ったのか定かではないけれど、動燃正門前バス停の案内が流れると、いよいよ来たか、と僕は居住まいを正した。

 

日本原子力研究所が置かれ、昭和40年に原子炉が臨界に達することで、我が国で初めて原子力の火が灯ったこの村は、全国の村でも沖縄県の読谷村に次いで2番目に人口が多い。

動燃とは昭和42年に発足した動力炉・核燃料開発事業団の略で、高速増殖炉および新型転換炉を開発し、いわゆる核燃料サイクルにおける高レベル放射性廃棄物及び使用済み核燃料再処理工場を運営していた。

しかし、敦賀原発と美浜原発に接続する高速増殖原型炉「もんじゅ」が平成7年にナトリウム漏洩事故を起こし、平成9年に発生した東海村の再処理施設火災爆発事故などといった不手際のため、平成10年に核燃料サイクル開発機構として改組され、その後、平成17年に原子力研究所と統合されて、日本原子力研究開発機構となっている。

 

エネルギー資源の乏しい我が国が、発電しながら燃料を増やす原理の高速増殖炉に着目する発想は理解できるのだが、事故の隠蔽を図るなど、動燃という組織があまりに杜撰な体質であったと思わざるを得ない。

僕が訪れた時には、動燃の名は既に消えていたはずであるが、バス停の名前はそのままだった。

 

 

今回の旅は、平成11年9月30日に東海村の核燃料加工施設で発生したJCO臨界事故の直後であった。

我が国で初めて原子力産業が被曝による死亡者を出した事故であり、僕らは、広島・長崎での原爆投下で知っていたはずの急性放射線障害の恐ろしさを、医療が進歩しているにも関わらず、改めて目の当たりにすることになる。

 

JCOは原研や動燃とは離れた内陸部、現在の東海スマートインターの近くであるけれど、当時、半径350m以内の住民約40世帯への避難要請と、500m以内の住民への避難勧告、10km以内の住民10万世帯・約31万人への屋内退避及び換気装置停止の呼びかけ、そして現場周辺の県道、国道、常磐自動車道の閉鎖、JR東日本の常磐線水戸-日立間、水郡線水戸-常陸大子・常陸太田間の運転中止、自衛隊への災害派遣要請といった措置がとられた大事件であったを思い起こせば、あまりいい気持ちはしない。

 

 

次のバス停が、終点の東海原研前である。

動燃も原研も、鬱蒼と繁る木立ちに視界を阻まれて内部を窺うことは出来なかったが、ここが我が国の原子力発祥の地なのか、と思えば、心が引き締まる。

門構えが日立製作所の工場よりも厳めしいように感じたのは、僕の思い込みであろうか。

 

原子力研究所と言えば、僕は、SF作家クラブの面々が見学に訪れた時のエピソードを思い出す。

「3.11の未来」に掲載された豊田有恒氏の寄稿を読んでみたい。

 

『SF作家クラブで、東海村の原子力研究所を訪れたときのことを、思いだした。

当時、まだ商業用原子炉は1基もなく、JPR-3という実験炉を全員で見学したことがある。

当時は、管理もいい加減なもので、なんと原子炉建屋のなかに、簡単なビニールの上っ張りを着せられただけで、入れてもらえたのである。

SFでは、未来のエネルギーとして、核融合が重視されすぎているようなところがある。

アイザック・アジモフの「鋼鉄都市」でも、核融合の人工太陽が照らしだすドーム都市が描かれている。また、のちにアーサー・C・クラークと対談したときも、融合(fusion)は良いが、分裂(fission)は駄目だと力説していた。

だが、原子力のことを勉強すればするほど、核融合には膨大な中性子の制御法をはじめ、多くのブレークスルーが必要だと判ってきた。

核融合は、多くのSF作家によって、贔屓の引き倒しのような期待を寄せられてきたのである。

その前に、仮につなぎにもしろ、核分裂に頼らざるを得ないのだ。
東海村見学は、SF作家クラブ史に残る1ページで、あれこれ武勇伝も語られている。

当時、SF作家は、社会の白い目で見られていたためか、鬱積したものがあり、妙なところで吐き出された。

東海村も、その舞台のひとつで、星新一さんが、

 

「原子力(はらこつとむ)研究所とあるが、所長の原子力(はらこつとむ)さんに、お目にかかりたい」

 

と言ってみたところ、まじめな守衛さんが、からかわれているとも知らず、ご親切にも、

 

「これは、げんしりょくと読むんです」

 

と教えてくれたエピソードもある。

 

また、光瀬龍さんは、あれこれ平和利用の話を聞いたあと、

 

「何だ、面白くねえ。たかが、原爆の一つも、作れねえのか」

 

とうそぶいた。

真面目そうな若い研究員が、怒るの怒るまいの、ものすごい剣幕で云い立てた。

 

「なんですか、原爆なんて、そんなもの、その気になれば、すぐにでも作ってみせます」

 

まあ、こういった馬鹿話の披露は、このあたりで止めるとして、当時から原子力について、多くのSF作家が、関心を抱いていた。

特に、ぼくは、未来エネルギーとしての原子力に、すっかりのめり込んだ。

今、マスコミは、反原発に固まっているようだが、初めは、原子力とマスコミの蜜月時代もあった。

70年の大阪万博では、小松左京御大をはじめ、多くの第一世代のSF作家が、いろいろなパビリオンに噛んでいた。

ぼくも、手塚先生に誘われて、フジパンのロボット舘というパビリオンのアイデア・コンセプトに関わったので、万博会場へ通ったものである。

関西電力の美浜発電所から会場の電力が送られていたが、場内アナウンスは、科学の成果を誇らしげに、謳いあげていた。

 

「この会場の電力は、関電美浜発電所の原子の火によって、まかなわれています」

 

今から思えば、科学の夢が次々に現実になるという、いわば輝かしい過去の話である。

しかし、原子力とマスコミの蜜月時代は、長くは続かなかった。

小松御大も噛んでいたが、当時、未来学というものが流行っていた。

しかし、急速に風向きが変わっていった。

大阪万博の1970年は、日本の原子力の曙であると同時に、日本の高度成長が一段落し、1つの時代の転機でもあった。

折からの公害問題の浮上、高度成長の歪みが、社会問題となり、物議をかもしはじめていた』

 

 

「勝田・東海」号は、国道245号線を左に折れた路地に入り、原子力研究所に背を向ける形で停車した。

利用者専用の無料駐車場が備わっているものの、ここが、「常磐高速バス」にしては乗り応えがあったバス旅の終点なのか、と首を傾げたくなるような、何の変哲もない道端のバス停であった。

後続車が対向車の合間を縫って、降車扱いを始めたバスを何とか追い越そうと苦労している。

 

 

その後の「勝田・東海」号は、平成12年3月に北関東自動車道が開通したことで、東京駅を発着して水戸大洗ICを経由する東水戸・東海系統が1日8往復、新宿駅発着で那珂ICを経由する那珂・東海系統が4往復と増便された。

平成13年に那珂・東海経由系統は勝田止まりとなり、平成16年に大洗駅と那珂湊駅を経由する系統が2往復増設されるも、平成18年に廃止されてしまう。

平成19年には新宿発着那珂・勝田系統が廃止され、平成17年に市制を敷いた那珂市を経由する高速バスは、新宿・東京-常陸太田線「常陸太田」号に一任された。

現在でも、「勝田・東海」号は、東京と、水戸大洗IC・国営ひたち海浜公園・ひたちなか市役所・勝田駅・東海駅・原研前・原子力機構前を結んで1日7往復で運行を続けている。

 

 

原研前バス停では、案じる程のこともなく、すぐに東海駅行きの路線バスが姿を現した。

真崎東、真崎仲町、真崎十文字、荒谷台住宅前、東海中学校、なごみ入口と幾つかの停留所から乗車があり、10分足らずでバスは駅に着いた。

道路や街並み、麗々しい橋上駅舎は、村の規模にそぐわないほど立派に見え、種々の公共施設を示す標識が数多く目に入ってくる。

原子力村、という、あまり好ましい意味では使われていない言葉を想起してしまう。

 

鉄道の接続も良く、佐和、勝田、水戸と進んで水戸線の電車に乗り換え、赤塚、内原、友部、宍戸、笠間と丹念に各駅に停車しながらも、東海駅から30分と掛からなかった。

 

 

ここが市の中心駅なのか、と拍子抜けするほど小じんまりとした瓦葺の笠間駅舎を眺めながら、あり余っている時間をどのように過ごそうか、と思案に暮れたことは覚えているけれども、そこから先の記憶は朧ろである。

 

確かなのは、東京行きの高速バスが笠間駅より先に停車するショッピングセンターまで足を延ばし、定刻16時きっかりに、道端にぽつんと置かれたバス停で、派手な塗装の茨城交通のハイデッカーを迎えたことである。

ひんやりと風は冷たかったけれども、天候には恵まれて、暖かい日差しが嬉しい笠間の午後であった。

バスに乗り込んでみれば、1つ手前の始発地である笠間芸術の森公園から乗車して来た先客は皆無で、車内はがらんとして主のいない座席だけが整然と並んでいる。

 

 

次の停留所は、笠間稲荷神社入口である。

 

笠間市は、7世紀に創建された笠間稲荷神社の参拝客で栄えたという歴史を持つ。

日本三大稲荷にも数えられているけれど、その定義は必ずしも一致していないようで、総本宮である伏見稲荷大社と豊川稲荷は必ず含まれるものの、3社目は地域によって異なり、東北では竹駒神社、関東では笠間稲荷、中国では最上稲荷、中国では太皷谷稲荷、九州では祐徳稲荷が挙げられることが多いらしい。

 

 

僕が笠間稲荷神社の名を初めて耳にしたのは、日本航空123便墜落事故で亡くなった坂本九さんの身元を特定する決め手になったのが、笠間稲荷のペンダントであったと言う話であった。

 

戦時中の昭和18年10月26日に発生した常磐線土浦駅列車衝突事故で、川に転落して多数の犠牲者を出した車両に、疎開のために笠間に向かっていた幼い坂本九さんが母親と一緒に乗り合わせていたのである。

幸運にも、事故の直前に他の車両に移ったことで難を逃れた坂本九さんは、「笠間稲荷神社の神様が自分を救ってくれた」と厚く信仰するようになり、結婚式も笠間稲荷神社で挙げている。

 

昭和60年8月12日、大学生だった僕は、信州の実家に帰省していた。

2週間前には、善光寺平の縁にある地附山が大規模な崖崩れを起こして、斜面に広がる住宅団地を押し流し、老人ホームの二十数人が犠牲になるという災害があったばかりで、騒然とした雰囲気から抜け切れていなかった故郷に、「長野と群馬の県境付近に日航機が墜ちたらしい」というニュースが流れた時の驚愕と、徹夜でテレビに釘付けになったことは、今でもはっきりと覚えている。

単機の事故では世界最大の犠牲者となった520人という数字は、それほど衝撃的だった。

 

後々に報道された123便に搭乗した人々の人間模様にも、深く心を打たれた。

特に、残された家族に宛ててメモを遺した人々のことを思い浮かべると、今でも涙が溢れそうになる。

 

『本当に今迄は 幸せな人生だったと感謝している』

 

このような言葉を躊躇なく書き残せる人生を、僕は送っているだろうか、と思う。

 

心の瞳で 君を見つめれば

愛すること

それが どんなことだか分かりかけてきた

 

言葉で言えない 胸の暖かさ

遠まわりをしてた 人生だけど

君だけが 今では愛のすべて

 

時の歩み いつもそばで分かち合える

たとえ 明日が

少しずつ見えてきても

それは生きてきた人生が あるからさ

 

いつか 若さをなくしても

心だけは

決して変わらない絆で結ばれてる

 

夢のまた夢を 人は見てるけど

愛することだけは

いつの時代も 永遠のものだから

 

長い年月を 歩き疲れたら

微笑み投げかけて

手をさしのべていたわり合えたら

愛の深さ 時の重さ

何も言わず 分かり合える

 

たとえ 昨日を懐かしみ

ふり向いても

それは 歩いてた足跡があるだけさ

 

いつか 若さをなくしても

心だけは

決して変わらない 絆で結ばれてる

 

愛すること

それが どんなことだか分かりかけてきた

愛のすべて 時の歩み

いつも そばで分かち合える

心の瞳で 君を見つめれば

 

荒木とよひさ作詞・三木たかし作曲の「心の瞳」は、坂本九さんが亡くなる3ヶ月前に発表されたシングル「懐しきlove-song」のB面に収録され、遺作となった。

 

 

僕が、この曲を初めて聴いたのは、YouTubeである。

「心の瞳」を流しながら、海外のTV番組「Aircrash Investigation」の事故再現映像をダイジェストで繋ぎ合わせた投稿だった。

 

冒頭は、羽田空港で列をなしてタラップを登り、次々と日本航空123便に乗り込む乗客を映し出す。

事故が起きた昭和60年当時は、ビッグバードがまだ完成しておらず、羽田空港では駐機場で搭乗する便が少なくなかった。

僕が初めて飛行機を体験したのは、自己の前年の日本航空羽田-伊丹便で、心をときめかせながらジャンボ機の高いタラップを昇ったものだった。

客室で、案内のキャビンアテンダントにニッコリと微笑む男性客。

1組の老夫婦は、搭乗手続きがぎりぎりだったのか、通路を挟んで離れ離れの席になっている。

1人旅の子供が、キャビンアテンダントから飛行機の模型を貰っている。

夏休みの真っ最中、お盆が始まる多客期である。

 

白地に赤と紺のラインが入った旧塗装に、懐かしい鶴丸マークが尾翼に映える日123便は、陽炎に揺らめく滑走路から大空の彼方へ離陸していく。

巡航高度に達する前、1人の男性客がトイレに行きたいと申し出る。

キャビンアテンダントが操縦士の許可を得た上で、客がベルトを外して立ち上がりかけた時、突然、尾翼が吹き飛び、吹き荒れる減圧の突風に機内は騒然となる。

 

「何か爆発したぞ!」

 

と、コクピットに戦慄と緊張が走る。

 

 

不安定な飛行で123便は迷走を始める。

操縦席での、パイロットたちの必死の苦闘。

交信する管制官のもどかしさと焦燥感。

羽田空港管制塔でも、日航本社でも、そして米軍横田基地でも、123便に乗る524人を何とか救おうと、懸命にバックアップを続ける。

毅然と職務を遂行するキャビンアテンダント。

 

しかし、非情な最後の瞬間が訪れてしまう。

子供が握っていた模型飛行機が客室の通路を転がる映像と、尾根に激突してエンジンをもぎ取られ、裏返しになりながら、山腹に墜落していくジャンボ機の映像が重なる中で、じっと顔を見合わせながら、全てを覚悟し、穏やかな表情で通路越しに手を握り合う老夫婦のショットに、胸がつまった。

 

そして、投稿者が挿入したと思われる、手を合わせて祈る坂本九さんの静止画像で、映像は終わりを告げる。

 

 

音声はいっさいなく、「心の瞳」が流れるだけである。

全てを包み込む優しさと、静かな力強さを合わせ持った曲調、そして坂本九さんの誠実そのものの歌いっぷりが、見事に再現映像に溶けこみ、せつなく僕の胸を締めつけた。

犠牲者に送る鎮魂歌のように聞こえたものだった。

 

僕にとって、「心の瞳」は、日航123便事故とともに心に刻まれたのである。

 

 

「心の瞳」のレコーディングを終えた坂本九さんは、この曲を収録したカセットテープを自宅に持ち帰り、

 

「僕たちのことを歌ったような曲だよ。聴いたらきっと泣いちゃうよ」

 

と、とても嬉しそうだったと夫人は回想している。

「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」など世界的に知名度の高い歌手であるにも関わらず、持ち歌のヒットによる重圧についての葛藤を涙ながらに語っていた時期もあるらしく、「心の瞳」は、九さんがようやく手にした等身大の音楽だったのかもしれない。

 

「やっと、コンサートで最後に締められる曲ができたよ」

 

とも、夫人に語っていたという。

 

しかし、「心の瞳」をコンサートで歌うことなく、坂本九さんは、御巣鷹の尾根に散ってしまったのである。

坂本九さんは、事故の当日に広島のテレビ局での収録を行った後に東京に戻ってFM放送の歌謡番組の司会を務め、そこで「心の瞳」を披露している。

その後、所用のために大阪に向かう途上で事故に巻き込まれ、43歳という若さで命を落としたのである。

遺作となった「心の瞳」は、亡くなった乗客が家族に宛てたメモと同じく、九さんから家族への遺言、いや、贈り物であったように思えてならない。

 

坂本九さん最後の仕事となったラジオ番組を聴いた千葉県の中学校教師が、「歌に不思議な力がある。子供たちに歌わせたい」と、合唱曲に編曲した。

それが人づてに世間に広まり、数々の音楽家が編曲に携わったことで、「心の瞳」は中学校の音楽の教科書に合唱曲として掲載され、今でも歌い継がれている。

 

 

バスが、笠間稲荷神社の次に停まるバス停は、やきもの通りである。

 

当時の僕は、笠間の名産が笠間焼であることを全く知らず、やきもの通りの佇まいを全く気に留めようとしなかった。

東京と笠間を結ぶ高速バスは、利用客数の不振から平成19年にいったん運行を休止してしまうが、平成24年に登場した東京と笠間・益子を結ぶ高速バスに「関東やきものライナー」号と愛称がつけられたことを耳にして、笠間も焼き物の町だったのか、と蒙を啓かれた次第である。

 

 

笠間駅前から鄙びた風景の中を伸びる国道355号線を、松山団地、友部町役場、岩間駅前、岩間町役場前、岩間インターと停車しながら、ぽつり、ぽつりと乗客を拾ったバスは、岩間ICから常磐道に入ると、みるみる速度を上げた。

 

黄昏が野山に忍び寄る頃合いになっていた。

工場や核関連施設ばかりが目についた「勝田・東海」号に比べれば、笠間-東京間高速バスの車窓は穏やかで、心が和んだ。

 

僕は、我が国と、そして人類が進歩する力を信じている。

一方で、科学技術とは、ほんの僅かな疵瑕や過誤により、取り返しのつかない重大な結果を招く厳しさを併せ持っていることを知った。

安全神話を誇っていたジャンボジェット機が、隔壁の僅かな傷の修理ミスが原因で、500人の生命を奪う事故を起こすとは、誰が予想していただろう。

JCO臨界事故が起きる前に、作業員が核燃料をバケツで調合するなどと、誰が考えたであろうか。

そして、この旅の12年後の東日本大震災で、僕らは、先端技術が暴走を始めた場合に全くの無力であることを、再び思い知らされることになる。

進歩にはしっぺ返しが伴うことに気づいた、と言い換えて良いのかもしれない。

 

日立製作所は、国内における3つの原子炉製造メーカーの1つであり、「紳士の三菱重工、商人の東芝、野武士の日立」と呼ばれる中で、日立が最も積極的であると言われている。

米国ジェネラル・エレクトリック社と提携し、原子炉プラントの建設を行う日立GEニュークリア・エナジーを設立して、福島第一原発事故の後も、原子力発電を強力に推進している。

 

そのような揺るぎない信念こそが、人類を進歩させて来たという考え方はあるだろう。

僕も、我が国には、それを可能にする叡智があると思っている。

ところが、バスの車中で心地良い揺れとスピードに身を任せながら、暮れ行く風景をぼんやりと眺めているうちに、そのような世の中の進歩が、ふと疎ましく感じられてしまったことに、うろたえたような心持ちになった。

 

僕らは、いつの日か、核融合に象徴されるような薔薇色の未来を手に入れることが出来るのだろうか。

見果てぬ夢を徒らに追い続けている、という可能性はないのだろうか。

 

バスは、潤いのある田園風景に囲まれた晩秋の常磐道をひたすら走り続けていた。

秋の日は釣瓶落とし、18時01分に到着する予定の東京駅は、すっかり暗くなっていることだろう。

 

 

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