短くも鉄分濃い思い出 | あさかぜ1号 博多行

短くも鉄分濃い思い出

先日は、千葉市内の大学へ遠距離通学をしていた時代の思い出を書きましたが、今日はそれより前の幼稚園時代に、短期間ながら電車通園をした時の思い出をつづってみることにします。

私と家族は、私が幼稚園に入る少し前頃に東京都大田区から同じ都内の清瀬市に引っ越しました。
私の通っていた幼稚園は、当時の家の目と鼻の先といえるほど近くにあり、年長組に上がった頃は両親に園までの送迎をしてもらわずに自力で園へ行くこともあったようです。
ところが、幼稚園の年長組の年の秋に、私たち一家は現在も住んでいる埼玉県某市に再度引っ越すことになりました。
ここで問題になったのが、私の幼稚園の事。
その時私はすでに年長になっていたので、幼稚園での生活もあと半年を残すだけになった段階での引っ越しということで、両親も引っ越し先の幼稚園に残り半年だけ入れるか、それとも引っ越しと同時に幼稚園に行くこと自体を辞めてしまうか、その選択に迷っていたようです。
幼稚園では基本的に徒歩か家族の自転車で送迎できる範囲からの通園しか認めていなかったようですが、たまたま同じ年長で別の組の子の中からもほぼ同時期に引っ越しで通園が難しくなるかも、という子がいたらしく、結局あと半年で卒園だからという事情もあって私ももう一人の子もそろって引っ越し後の電車通園の特例が認められました。

清瀬市から某市への引っ越しはその年の10月中旬にあり、それから約5か月間の電車通園が始まりました。
まだまだ一人で電車に乗れるようにはなっていないので、園のある日は毎日母親に幼稚園まで送り迎えをしてもらっていました。
自宅から最寄りの駅まで母親の自転車の後ろに乗り、そこから西武新宿線、さらに所沢駅から池袋線で隣の秋津駅へ。さらにここから10分弱歩いて幼稚園へ、という約50分ほどのコースでした。
母親はほぼ毎日このコースを朝と午後に2往復するわけで(幼稚園が午前中だけで終わる水曜日と土曜日は家に帰らず、引っ越す前から仲のよかったママ友の家で待っていたそうですが)、しかも当時まだ1歳半ほどの妹を背負って自転車や電車に乗るのも大変だったと後に聞きました。季節的にも寒い時期で、雪が降った日などは、いつも以上に苦労したとも話していました。
そのことを思うと、母親には感謝しかありません。

一方の私といえば、母親の苦労をよそに、すでに電車が大好きになっていたこともあり、毎日電車に乗れるのが楽しくて仕方がないという感じでした。
まだ電車の細かい型式の違いなど分からない頃でしたが、それでもいつも乗る電車なのにいつもとは違う見た目の車両が来たことに気付いて何だか興奮したり、母親に抱っこしてもらって運転室の後ろから前方の眺めを楽しんだり、6歳にして早くも立派に鉄ちゃん」ライフを楽しんでいました。
今思うと、当時の西武線は5000系の特急「レッドアロー」をはじめ黄色い車体の101系から赤とベージュ塗装の旧型車各形式、さらには貨物輸送用の電気機関車や貨車まで、現在とはまた違った意味で車両のバラエティーが豊かで、趣味的にも面白い時期でした。
もしこれが今だったら、スマホでいろいろ写真や動画に撮って残したのかも…なんて妄想もふくらみます。
また、幼稚園からの帰り途中に母親が所沢駅前などで買い物をすることが時折あり、その時たまにスーパーのドリンクコーナーでソフトクリームを食べさせてくれたり、たい焼きの屋台でたい焼きを買ってくれたりといった、電車以外での楽しみもありました。

こんな電車通園の日々も、私の卒園とともに無事終わりました。母親にとっては毎日の幼稚園までの往復がなくなり、さぞホッとしたことでしょう。
今は私立などの、家から遠い幼稚園に電車で通っているという子供も結構いるのかもしれません。
私が電車通園をしていた40数年前とは様々な状況が違いますが、この年齢から公共の電車やバスなどで通園や通学をするというのも、これはこれでよい経験になるのかもしれませんね。