みなさんこんにちは。前回からの続きです。1970(昭和45)年開催の「大阪万博」で活躍した、万博を巡る千里の鉄道を中心にした交通機関についての企画展「振り返ろう懐かしの千里万博の時代」訪問記をお送りしています。



今回の企画展展示の主題、千里丘陵で開催された先の「大阪万博」会場に直結していた「北大阪急行電鉄(北急)〜地下鉄(現在のOsakaMetro)御堂筋線」ルートについて、会場の南千里をいったん離れて項を進めています。


会期中に約2000万人以上を運んだという、このメインルート。企画展での写真展示とともに、新大阪駅から実際にこの万博会場へのルートを辿り、引き続きあれこれと掘り下げてみようと思います。出典①。



わずか半年あまりしか存在しなかった、大阪万博会場へ直通する「北急会場線」。

地下駅の「千里中央駅(大阪府豊中市)」の手前から地下線で、現在駅に至る本線路から分岐していたという、なかなか興味深いことがわかりました。ヤフー地図アプリより。


南千里会場の企画展のショットは、まさにその切り替え地点から撮影されたもの。

日付は1970(昭和45)年9月12日と、万博閉幕の前日のこと。冷房がついていないためにあまねく開け放たれた窓の向こうには、たくさんの乗客が乗り込んでいる姿が視認出来ます。



閉幕直前になって、念願の初訪問だったのか、果たして、幾度か目だったのか。

恋人同士、夫婦でだったのか、遠方から来阪した家族連れだったのか…想像が膨らみます。


なにせ、約6420万人という、日本総人口の半分が訪れたという、我が国史上はじめての巨大国家イベントだった訳ですから。

もう、このようなことはないのでしょうね。


それはさておき、本題に戻ります。
「現・千里中央駅」の手前から、地下線(地図中白線)で右手に分岐していた「万国博中央口駅」へ至る「会場線」。そのまま地下線で北東に進み、東へ転向し現在の「中国自動車道(中国道)」に合流する線形が採られていました。


その合流部分から「万国博中央口駅」までの間は、完成直前だった中国道の下り線(池田・宝塚・吉川方面)の敷地を借用して線路が敷かれていました。出典①。



中国道は万博開幕に合わせ、会場付近の区間が開業していたものの、北急に線路敷地を提供するために、本来の下り線(池田・宝塚・吉川方面)を一時的に上り線(中国吹田インターチェンジ〜名神高速道路・近畿自動車道連絡)との対面通行扱いとし、運用していたといいます。


企画展の展示で見つけたのは、このショット。

上り線の敷地借用は、万博閉幕後から3ヶ月あまり後の年内には鉄道施設をすべて撤去した上で返還するという決まりがあったそうで、廃線の日つまり、万博閉幕の日から、その撤去にかかる作業ははじまっていたようでした。




会場線を走る列車の様子は、これまでも見たことはありましたが、これが万博閉幕後廃線になり、レールやバラスト、枕木が撤去されて行くという光景は見たことなどありませんでした。



これも、地元でつぶさに記録を残されていたがゆえの、本当に貴重な記録です。拝見することが出来て、胸が熱くなる思いでした。




さて、地下線内分岐を経て5、600メートル進んだところから、急勾配で一気に地上へと駆け上がるのは「万国博中央口ゆき」の試運転列車。


ここにあったのが、万博会期中のみ設けられていた「千里中央駅」でした。現在の立派な設えの駅とは、まるで違う簡素な駅です。出典①。

次回に続きます。
今日はこんなところです。

(出典①「鉄道伝説 大阪万博波動輸送〜2200万人の輸送を成功させよ〜」BSフジ 2014年2月2日放送)