民営化から37年、ここに来てさしもの国鉄車両も草臥れたようで、次々に後進に道を譲って “卒業” していきます。寂しいことですが、「形あるものはいつかは壊れる」の例え通り、それはやむを得ないことです。このコーナーでは、そんな去りゆく車両や列車の “華やかりし頃” の姿をお届けして、「こんなんだったんだよ」というのを僭越ながら後生にお伝えする意味を含めています。

今回は提供していただいた画像の中でも私的に「こりゃすげぇ」と思った1枚になります。

 

 

103系フリークなら比較的有名な1枚。

朱色の103系ですが、 “山手線” のステッカーを前面と側面に貼っています。朱色というと、中央線快速用の車両だと誰もが思うでしょう。でも実はこれ、所属表記は何と「大モリ」。つまり大阪環状線用の車両になります。

 

写っている車両がそのものなのかは定かではありませんが、先頭のどっちかはクハ103-244だそうです。

確かにクハ103-244は新製配置が森ノ宮電車区で、落成日は昭和48年5月29日。同時にロールアウトしたのは

クハ103-244

モハ103-385

モハ102-541

サハ103-349

モハ103-386

モハ102-542

になります。

 

その他に

クハ103-245

モハ103-387

モハ102-543

モハ103-388

モハ102-544

クハ103-246

も同じ日の落成です。

これを一時期的に組み合わせて10両編成を組成したのではと思われます。因みに製造は日本車輌ですが、この時は埼玉県の蕨に工場があったので、豊川ではなく蕨での製造と思われます。

方向幕が白地ですが、さすがに森ノ宮の幕に「山手線」「池袋」「大崎」は収っていませんので、必然的に白地になります。

 

ところで、何で大阪環状線用の車両を山手線で走らせたのでしょう?

最後までその詳細が判らずじまいでしたが、丁度この頃、各線への転配や冷房改造などで車両需給が渇々の状態になり、丁度良い具合に落成した森ノ宮投入分を借り入れて急場を凌いだものと推察されます。また、ATC化に伴う車両需給という説も考えられます。

普通なら京浜東北線用や中央線快速用の車両を宛がうんでしょうけど、車両需給の兼ね合いとなると、首都圏用の車両は何処も彼処も手一杯だったのでしょう。大阪もそんなに余裕はないと思いますが、101系や72系で何とかなると判断したんでしょうか? また、いつまで山手線を走っていたのかも判りませんでした。ある媒体では昭和50年頃まで走っていたという記述されているし、この辺り、詳しい人がいたらご教示願いたいですね。

 

他にも山手線と大阪環状線の両方を走った経験のある103系はありますが(クハ103-1が一番有名かな?)、この車両はその中でも最もミステリアスであり特異。103系は知れば知るほど奥が深いですね。

今はJR東日本のE235系が大阪環状線を、JR西日本の323系が山手線を走るというのは不可能ですが、東京の車両を大阪に持って行ったり、逆に大阪の車両を東京に持って行ったり出来るのは国鉄ならではの柔軟性、そして103系ならではの標準性をフルに活用した例と言えますね。

 

 

【画像提供】

ヌ様

【参考文献・引用】

鉄道ファンNo.541、698 (いずれも交友社 刊)

鉄道ピクトリアルNo.447 (電気車研究会社 刊)