第9章 昭和63年 リムジンバスと高速バスで憧れの湾岸線と九十九里浜をドライブ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
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いつも、このブログにお越しいただきありがとうございます。

今年も、よろしくお願い申し上げます。


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【主な乗り物:高速バス「フラワーライナー」、リムジンバス羽田空港-千葉線、東急バス「井03」系統、京急バス「蒲41」系統】

 

 

羽田空港と首都圏各地を結ぶリムジンバスは、今でこそ多数の路線があるけれど、昭和60年代には、ほんの僅かしかなかった。
羽田空港に、浜松町からのモノレールしか通じていなかった頃の話である。
京浜急行線にも羽田空港駅があったけれど、空港の敷地外だった。

 

羽田空港と、新宿、池袋、赤坂、成田空港をそれぞれ結ぶ、オレンジ色のラインの東京空港交通バスは、昭和29年発足の、日本初の空港リムジン専用会社だった。
成田空港を発着する路線が多い事業者であり、「Airport Limousine」というロゴを街で見かけるだけで、海外の匂いがして眩しく感じたものである。
都内の主要ホテルを発着することも、高級感を醸し出していた。
空港連絡としての「リムジンバス」の呼称は、東京空港交通が最初に使用したとされている。
使用した車両の内装が豪華であったことが由来で、各空港のバス会社が追随したらしい。

 

ただし、ホテルを発着するリムジンバスは、恐れ多くて敷居が高かった。
とても外国帰りとは思えないみすぼらしい格好をして、ホテルの玄関でバスから降ろされ、出迎えのポーターに最敬礼されて、

 

「ようこそおいで下さいました。御宿泊ですか?」

 

などと聞かれたら、いったいどうすれば良いのか。

 

 

もう1つ、忘れてはならないのが、羽田空港から横浜駅に向かう京浜急行バスであろう。
白地に赤いラインが入って「KEIKYU LIMOUSINE」と大書されたバスが、首都高速横羽線を走っていた。
羽田空港で新宿行きや横浜行きに乗れば、手軽に首都高速からの都市景観を楽しめたから、運転免許も持っていなかった学生時代を大井町で過ごした僕は、よく息抜きに利用した。


昭和63年7月に、羽田空港を発着するリムジンバスに、久しぶりの新路線が開業した。
千葉中央駅線である。

横浜に行き来しているのだから、リムジンバスが千葉に行っても何も不思議はないのだが、とても新鮮に感じられた。
バスファンとしては、電車が便利な東京から千葉まで、バスで行ける時代が来ようとは思ってもいなかった。
しかも、人気のデートコースと言われた首都高速湾岸線を体感できるではないか。

 

当時、大学生だった僕の友人が、

 

「好きな女の子を助手席に乗っけて湾岸を走れれば、こんないいことないよなあ」

 

と呟いたことがある。

僕が親しかった友人は誰も自家用車を保有しておらず、誰もが頷きながらも、先立つモノがないのだから見果てぬ夢だよなあ、と意気消沈したものだった。

リムジンバスだって、空港に何の用もないのに同乗してくれる女性などいないだろうけれど、少なくとも憧れの湾岸線の車窓を楽しめるのだから、勇んで乗りに行った。
 


 

まずは、大井町から蒲田行きの東急バス「井03」系統に乗車するところから始めてみた。

当時の僕は、大井町の隣り駅である大森や蒲田に電車で出掛けることは、滅多になかった。

何倍も時間が掛かるけれども、大森に行くならば、品川駅から大井町、大森を経て池上駅に向かう東急バス「品94」系統、もしくは大井町駅と大森駅を結ぶ京浜急行バス「井19系統」、蒲田ならば、大井町駅から蒲田駅へ行く東急バス「井03系統」にのんびりと揺られるのが常だった。

後に、「品94」系統は蒲田駅まで延伸され、品川から蒲田まで京浜東北線で3駅分、乗り通してみたかったけれども、その機会はなかった。

 

「井19」系統は、大井町駅から第一京浜国道に出て、途中で桜新道に逸れて大森駅に向かうという経路で、いつも空いていたからだろうか、後にチョロQのような小型バスに変わってしまった。

昔、このあたりは一面の水田で、真ん中を貫く一本道を造った時に、両側に桜の木を植えたことが、桜新道の名の由来だと言う。

春になると、必ず乗りたくなる路線バスだった。

 

 

僕のアパートは、大井町駅より、三ツ又交差点に置かれたバス停の方が近かったので、池上通りを走る東急バスが便利だったが、1つだけ物足りないことがあった。

路線バスに乗るならば、僕は、タイヤハウスの上に設けられた左側最前部の席に座りたい人間なのだが、東急バスは、そこに金属製の箱を置いているため、運転席の後ろに座るしかなかった。

右側最前部の席は、運転席と幕で仕切られているけれど、右隅に隙間があって、運転手の肩越しに、前方がよく見えた。

左側より運転手を気にする必要がないし、ハンドルさばきや速度計まで覗けるから、大いに楽しんだ。

 

 

映画「時代屋の女房」の舞台となった大井三ツ又のバス停が、僕のアパートの最寄りだった。

池上通りで鹿島神社、山王と、起伏の激しい山の手をのんびりと南下すると、大森駅西口の繁華街に出る。

今は東口に移転したイトーヨーカドーが、当時は西口にあり、大森駅付近の歩道に設けられたバス停には、各方面への路線バスがずらりと停車して、他の車は、バスの隙間を縫いながら障害物競走のような走り方を強いられた。

 

大森駅を過ぎると、路線バスが原因ではなく、渋滞が激しくなる箇所があった。

地元の人々は、それを「ダイシン渋滞」と呼んでいた。

 

 

池上通り沿いにあった「ダイシン百貨店」は、昭和39年に開店している。

創業者は信州リンゴの闇販売から身を起こした農家で、前身は信濃屋という八百屋であるから、僕の故郷に所縁があったことになる。

「ダイシン」の名は、大森の音読み、という説が流布したことがあるけれど、大きな信州、との意味を込めて付けられたと言う。

 

昭和40年代の地方百貨店の懐かしい雰囲気を、近年まで残していたことでも知られ、街歩きを扱うテレビ番組にも、よく取り上げられていた。

休日ともなると、「ダイシン百貨店」の前に駐車場待ちの渋滞が発生するほどの、人気店だったのである。

 

僕も、学生時代に、よく買い物したものだった。

6階建ての古びた店内には高齢の客が目立ち、カートに籠を2つ載せて大量に買い込んでいく。

値段は他の店舗と大して変わらない印象だったが、食品も日用品も衣料も家具も家電も文具も種類が豊富で、一般的なものから、専門店しか扱わないような希少品、高級品まで取り揃えられていた。

客が要望する品物は、たとえ1点、1人のためでも取り寄せるという姿勢を貫き、他の小売店では見かけることがなくなった柳屋のポマード、蠅取り紙、漬物樽、スモカ歯磨、タバコライオン、VALCANの整髪材、パオンの粉末毛染め、湯たんぽまでが店頭に並んでいた。

 

店内を歩けば、

 

「○○が置いてある!」

「まだ製造していたのか、この商品!」

 

と、驚かされてばかりで、見て回るだけでも時が経つのを忘れた。

カネヨのクレンザー、いつも実家の台所に置かれていたっけ、などと思い出すと、切ないくらいに胸が熱くなった。

 

「ダイシン百貨店」の品揃えは、我が国が、ひたすら坂の上の雲を目指していれば良かった古き良き昭和の時代、僕らが子供の頃の家族の思い出に結びついていた。

売場には幾つも椅子が置かれ、高齢の買い物客への配慮がされているかと思えば、書籍コーナーには、「文士村馬籠茶房」と看板を掲げたカフェが併設されていて、都心の書店に似た若者向けの一角だった。

4階にあるダイシンファミリーレストランで、子供の頃に家族で行ったデパートのレストランはこのような雰囲気だったよな、と懐かしさに浸り、大森の街並みを眺めながら食事をするひとときが好きだった。

 

 

「ダイシン」に行けば全て事足りる、という安心感と満足感を満たしてくれた一方で、在庫管理が難しくなり、不良在庫が膨張する結果を招いたという。

加えて、100円ショップなどの格安店や、他の大型店の出店が影響して、負債が嵩み、平成28年に閉店した。

「ダイシン」のような地域に密着した素朴な店舗が成り立たない、厳しい競争と時代の変化に曝されている僕らの国は、今後どのようになっていくのだろう。

 

僕が大井町で過ごしている時期は、「ダイシン百貨店」がまだ健在で、自転車やバイクが歩道に無造作に置かれ、人々が出入りしている店先を目にすれば、思わず下車して買い物をしたくなった。

 

 

その衝動を抑えながら環状7号線を横切り、池上本門寺の門前を過ぎれば、東急池上線の踏切の先は閑静な住宅街の一本道になる。

京浜東北線の電車ならば6分しか掛からない区間を、40分以上も費して、ようやく蒲田駅西口に到着である。

 

蒲田に出向けば、商店街を当てもなく散策し、締めは、大井町にない「ケンタッキー」で、幼少時から好きだったフィレサンドを買って帰るのが常だった。

 

 

僕は、蒲田駅ビルの雑踏を掻き分けて東口に渡り、羽田空港行きの京浜急行バスに乗り換えた。

京浜急行バスは、きちんと左側最前部が座席になっている。

 

蒲田駅からしばらくは、京急蒲田駅の近くで京急本線の踏切を越える狭い路地を走らねばならない。

電車が何本も通過するので、なかなか進まないけれども、軒を並べる中華料理店を眺めながら、長い待ち時間に餃子を買えればいいのに、と思う。

 

衣をカラリと揚げて、底を繋げてしまう蒲田の羽根つき餃子は、好物だった。

蒲田餃子の歴史は、「ニーハオ本店」の店主が、昭和58年代に我が国で初めて羽根付きの餃子を考案したことが始まりとされている。

今ではJR蒲田駅から半径500m以内に20軒の餃子の店が存在し、「ニーハオ本店」が最初につけた値段に習って、1皿300円の店舗が多いのだと言う。

 

 

第一京浜国道に出ると、もう1本、京急羽田線の踏切を渡らなければならないが、京急本線に比べれば電車の本数が少なく、引っ掛かる頻度は少なかった。

そこを過ぎ、環状8号線に左折すれば、バスの走りは幾分滑らかになる。

 

当時、蒲田駅と羽田空港を結ぶ路線バスは、2系統あった。

「蒲95」系統は環状8号線・日の出通りを経由し、本数も多く、羽田空港から蒲田駅に向かう人の大半はこちらを利用したのだろうが、僕が好きだったのは、萩中経由「蒲41」系統だった。

こちらは、路地裏のような狭隘な道を、民家の軒先に触れんばかりに走る。

どうやら僕は、細い道を走るバスに乗ると、胸がときめくようである。

 

 

萩中系統の車窓からは、七辻と呼ばれる交差点の入口を垣間見ることも出来た。

 

『七辻は、七本の道路が交差した地点という意味で名付けられたものである。

大正6年から10年の歳月をかけて行われた耕地整理によって完成したもので、その頃は、荏原郡六郷村子之神と呼ばれ、人家もまばらで水田と桃・梨・葡萄などの果樹を植えた畑が広がり、春には花見客でにぎわったという。

昭和の初期までは、農家の大八車が時折通るだけで七辻の道路も当時としては道幅が広すぎ、その両側には名もない草花が生い茂っていた。

時代が移り変わり、多くの人々が住むようになっても自然を愛し、優しさと思いやりのある心は受け継がれ、この地に事故はない』

 

と、交差点の立札に記されている地元の名所である。

七辻には、今でも信号機がない。

 

 

大鳥居交差点で、羽田空港行きの路線バスは産業道路に右折し、続けて、羽田の雑然とした街並みを貫く狭い路地に潜り込む。

 

首都の空港に向かう路線バスが、このような道を走るのか、と、最初は驚いた。

江戸時代の後期に水田開発を目的として干潟を干拓したことに始まり、幕末に江戸防衛の砲台が設置され、明治35年に干拓地に鎮座する穴守稲荷神社に向けて京浜電鉄穴守線が開通、羽田球場をはじめ遊園地や海水プールを併設した一大レジャー施設が設けられた、という歴史を彷彿とさせる古びた佇まいである。 

 

『羽田といえば、昔は漁師町と辨天とで聞こえたものだが、今では穴守ばかりが人口に膾炙してゐる。

そしてこの穴守稲荷が賑はふやうになつたのは、まだつい20年前で、一時、新聞で盛んに書き立てたことを私は覺えてゐる位である。

縁起といふやうなものも極く無雜作なものである。

それにも拘わらず、東京近郊の屈指の流行神になつたといふことは、不思議な現象である。

つまり、花柳界方面の信仰を先づ最初に得たといふことが、かう繁盛していつた第一の理由である』

 

と、田山花袋が著しているから、花街もあったのかもしれない。

 

 

路地が尽きると、いきなり眼前に羽田空港の敷地が広がる。

 

平成5年にビッグバードが完成する以前の、旧ターミナルビルの時代である。

ロータリーは狭く、空港の敷地内に入ってからも、激しい渋滞でターミナルビルまで何十分と費やすことも珍しくなかったと聞く。

「TOKYO INTERNATIONAL AIRPORT」の看板がなければ、地方の空港と大して変わらない外観だった。
ただし、行き交う人や車の数は桁違いに多く、大変な混雑であった。
 

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今回の最大のお目当てだったリムジンバス羽田空港-千葉中央駅線は、それまで都内数ヶ所と横浜駅だけにリムジンバスが運行されていた羽田空港に登場した新路線で、以後、首都圏各地に爆発的にリムジンバスが開業する先駆けとなった。

運行するのは、都心部にリムジンバスを展開していた東京空港交通と、横浜にリムジンバスを走らせていた京浜急行である。

 

この日、僕が乗車したのは後者であったが、リムジンバス羽田-横浜線に用いられていた赤と白のツートンカラーを、橙色のような黄土色のような、くすんだ色に塗り替えた車体だった。

初めて目にする塗装で、共同運行の東京空港交通に似せたのかとも思ったが、微妙に異なる色合いである。

いつしか目にすることはなくなってしまったが、羽田-千葉線と言えば、必ず思い浮かべる塗色である。

 

 

千葉行きのリムジンバスは、羽田西ランプから首都高速に乗り、だだっ広い空港の敷地を右手に遠望しながら、東海JCTで湾岸線へ合流する。
工場や倉庫、貨物ターミナルが建ち並ぶ城南島、平和島などを走り抜けて、大井本線料金所をくぐれば東京港トンネルだった。
ぎっしりと車の波に囲まれて走る、傾斜のきつい薄汚れた海底トンネルである。

トンネルの先に広がるお台場も、今の姿から想像もつかないほど、未開の埋め立て地だった。

レインボーブリッジが完成するのは平成5年、フジテレビが移転するのは平成9年、直径100m・高さ115mの観覧車が造られたのは平成11年とまだまだ先のことであるから、湾岸線から眺めるお台場は空地と工事現場ばかりだった。
深川線を分岐する辰巳、中央環状線を分岐する葛西と、高架道路が大蛇のように交錯する巨大ジャンクションを続け様にくぐれば、葛西臨海公園の、直径111m・地上高117mという、日本一の大観覧車が目に飛び込んでくる。
江戸川を渡ると、今度は、昭和58年に開園した、東京ディズニーランドに林立する円錐屋根の塔が見える。
まだディズニー・リゾートになっていない時代である。
リゾートに改名したのは平成12年、ディズニー・シー開業は同13年だった。

「ここより別料金」の標識を見上げながら市川JCTを通過し、そのまま東関東自動車道に入る。
習志野料金所の先、湾岸千葉インターで高速を降りたバスは、千葉市街へ入る前に、幕張と稲毛海岸を経由していく。
幕張も開発途上の時代だった。
昭和61年に京葉線が部分開通し、平成元年に幕張メッセが開業、東京モーターショーが晴海から移ってきたばかりだった。
複数のホテルが建設されてランドマークとなり、新都心として飛躍したのは、平成5年になってからのお話である。

僕が千葉行きリムジンバスで旅をしたのはバブルの真っ最中で、湾岸地域が劇的に様変わりする過渡期だったのだな、と今は懐かしく、少しばかりほろ苦く思い出す。

 

 

湾岸千葉ICで東関道を降りたリムジンバスは、京葉線の稲毛海岸駅に立ち寄った。

 

今回の旅の十数年後に、ひょんなことから、この駅のことを思い出すことになった。

僕が勤めていた都心部の病院に、1人の女子高生が入院したことがあった。

発熱と腹痛をおして登校したのだが、我慢できなくなるほど症状が悪化し、教師に連れられて受診したのである。

翌朝には症状が和らぎ、検査データも改善したので、退院が可能になったのだが、自宅の近くの病院で経過を診て貰うために、診療情報書を作成することになった。

その女子高生は、千葉県に住んでいた。

カルテを見ながら名前とID、性別、生年月日をパソコンの書式に打ち込もうとして、僕は思わず、

 

「へえ!」

 

と、素っ頓狂な声を上げてしまった。

 

「どうしたんです?」

 

と、隣りで仕事をしていた病棟事務員が驚いて振り返った。

 

「いやね、稲毛って、市だったんだ」

「はあ?」

「いや、この患者さんの住所なんだけど、カルテに『千葉県稲毛市』って書いてあるじゃん。稲毛って千葉市だとばかり思ってた」

「あー、それ、千葉県民として聞き逃せない言葉です」

 

その病棟事務員も、京成線沿線に住む千葉県民であった。

 

「でも、このパソコン、『いなげし』って打っても変換されないよ」

「まさか?」

「ほら、『いなげし』って打つと、『稲毛氏』『イナゲシ』『稲毛し』って出るだけ」

「あれ?本当ですね」

「まあ、このパソコン、病院が支給された安物だからなあ」

「だんだん自信なくなってきました。普通、地名なら一発で変換されますもんね」

「おいおい、どうした、千葉県民」

「平成の大合併で新しく出来たんじゃないですか?」

 

と、近くにいた病棟看護師長が助け舟を出す。

 

「本人に聞いてみます?」

「いや、こっちで調べてみよう」

 

病棟にはパソコンが何台か置かれているものの、個人情報が入力されているため、ネットとは繋げていない。

スマホで検索すると、「千葉市稲毛区」と表示されるだけである。

詳しく調べてみれば、明治の町制施行で稲毛町が誕生し、周辺町村と合併して検見川町になって千葉市に編入、同市が政令指定都市になった際に稲毛区が誕生した、と書かれているではないか。

 

「大変だ!カルテからレセプトから全部、稲毛市にしちゃってる。訂正しなきゃ」

 

大慌てで、猛然とパソコンのキーボードを叩き始める千葉県民なのであった。

そうか、うちの病院のパソコンは間違った住所でも入力できてしまうようなボロだったのか、とがっくりした。

 

「稲毛区の人が聞いたら怒りますね」

 

と、病棟師長がクスクス笑っている。

 

「あの娘さんに聞かなくて良かったよ」

 

と、僕も胸を撫で下ろした。

どうやら、女子高生が入院申込用紙を書く余裕がなく、付き添って来た教師が、代わりに記入した住所欄に「千葉県稲毛市」と書いたようである。

東京の高校であるから、教師も思い違いをしたのだろう。

 

稲毛の地名を目にして僕が思い浮かべたのは、羽田-千葉間リムジンバスが稲毛海岸駅に立ち寄った時の、あっけらかんとして如何にも開発途上と言った雰囲気の街並みだった。

 

 

稲毛海岸駅を出た千葉行きリムジンバスは、羽田から90分ほどで、京成電鉄千葉中央駅西口に到着した。

千葉中央駅バスターミナルは、京成線の高架下に設けられた車庫が乗降場になっていて、バスがバックして入る構造である。

どっしりした造りだが、排気ガスで内部がくすんでいるような、どこか暗い印象だった。

 

千葉中央駅とは威風堂々の名前であるし、東口周辺は古くからの繁華街だったが、人の流れは、少し離れたJR千葉駅に集まり出していた。

西口に居並ぶビル群は立派であるけれども、人や車の往来は少なく、どこか場末の雰囲気が漂っている。

 

ここが、空港リムジンバスだけでなく、大阪、京都、金沢、信州、岡山などに向かう長距離夜行高速バスの起終点となるのは、数年先のことである。

その先陣を切ったのが、羽田空港へのリムジンバスだった。

 

 

僕が、千葉中央駅から成東駅行きの高速バス「フラワーライナー」に乗り継ぐことになったいきさつは、よく覚えていない。

あらかじめ「フラワーライナー」に乗ろうとして、自宅を出たのではなかったような気がしてならない。

 

羽田空港からのリムジンバスを降りると、隣りに、成東町の町木であるキョウチクトウの花が描かれた華やかな塗装のハイデッカーが発車を待っていて、衝動的に乗ってしまったのかもしれない。

 

 

京成電鉄千葉中央駅とJR成東駅を結ぶ「フラワーライナー」の元祖は、大正時代に両総自動車が千葉-東金間で運行を開始した路線バスと言われているから、かなり老舗の伝統路線である。

合併なのか移譲なのか不明であるけれど、昭和5年に京成電鉄バスの路線となっている。

太平洋戦争中の昭和18年に、京成電鉄は成東自動車を買収して、八日市場や松尾、八街、佐倉に路線網を広げ、千葉駅と蓮沼海岸を直通する急行バスなどとともに、千葉駅と東金を結ぶ東金急行線も成東まで延伸されたようである。

 

国鉄総武本線と平行する路線も少なくなかったが、昭和49年に同線が電化されて特急電車が運転されるまでは、バスの方が優位に立っていた。

ところが、総武本線の整備とともにバスの利用者数は減少の一途をたどり、八街や松尾方面の路線が淘汰されて、昭和62年2月には蓮沼方面の特急バスが廃止されたが、同時に、千葉と東金・成東を国道126号線経由で結んでいた東金急行線には、昭和54年に開通していた千葉東金道路を経由する新系統「フラワーライナー」が登場したのである。

 

 

この路線をどうして僕が知ったのか、記憶が定かではない。

おそらく、時刻表巻末の会社線欄を眺めていて、目に止まったのだと思う。

 

「フラワーライナー」は、時刻表の高速バス・長距離バス欄には掲載されず、会社線欄の「成田・三里塚・多古付近」の項目の片隅に追いやられて、一見しただけでは高速バスとは判らない。

よく見れば『全便定員制 ※成東駅発は東金駅で下車できません』と添えられた注釈が、発地では乗車だけ、着地では降車だけというクローズド・ドア・システムを彷彿とさせ、立席乗車が出来ない座席定員制ならば、この路線は高速バスかもしれない、と推察することは可能である。

 

そこに目をつけたのだとすれば、我ながら慧眼である。

当時はまだ路線数が少なかった高速バスに渇望していて、次に乗るべき路線はないかと鵜の目鷹の目で時刻表をめくっていたのかもしれない。

 

 

「フラワーライナー」は、混雑する国道16号線千葉街道をのろのろと進み、千葉大学のキャンパスや大学病院などに囲まれた亥鼻城址公園の脇をすり抜けて、千葉東ICから千葉東金道路に入って行く。

 

いいぞ、高速道路に乗るのか、と小躍りした記憶があるので、当時の僕は、「フラワーライナー」についての知識が皆無だったようである。

千葉東金道路は初体験だったから、首都高速湾岸線と東関道も含めて、この旅は良いことずくめであった。

 

 

下総台地を貫く千葉東金道路は、杉林に覆われたなだらかな丘陵と、浸食された谷津が繰り返し現れるだけの単調な車窓だったが、初めての道路であるから飽きることはない。

少し東京を離れるだけで、これほど鄙びた風景に出会えるのか、と目を見開いた。

 

出掛けて来て良かった、と思うけれど、どうして「フラワーライナー」は一人前の高速バスとして扱って貰えないのか、多少不満でもある。

もともと国道126号線経由の路線バスが前身であるためなのか、それとも、千葉東金道路が東名高速道路や中央自動車道などよりも格下とされているのだろうか。

実際に走ってみれば、高速道路と称して何の遜色もない堂々たる高規格道路である。

最高速度も時速80kmであるし、律儀に制限速度を守っているバスを追い越して行く他の車も、高速道路に劣らぬ勢いである。

 

大宮、高田、中野のインターを猛然と通過し、野呂PAの標識が見えた時には、寄ってくれないものかと身を乗り出したけれども、たかだか30km程度を走る特急バスに、途中休憩などあるはずもない。

下総台地から九十九里平野に飛び出し、山田ICで国道126号線に降りた時には、千葉東ICからの13.9kmに及ぶ高速走行には大いに満足したものの、走り足りない気分もした。

 

 

国道126号線から県道119号線に左折し、下総台地の際を進む「フラワーライナー」の車内では、丘山小学校、雄蛇ヶ池入口、台方一丁目、城西小学校、上宿、八鶴湖入口、東金駅入口と、降車案内が間髪を置かずに流れ、ぽつりぽつりと乗客が降りていく。

 

東金とは気になる地名だが、その由来は鴇であると言う。

「東金町誌」には、

 

『東金城は往古上総介の属館なりしが後年千葉氏の支城となりて鴇ヶ嶺城と云う。後東鐘城と唱へまた鴇ヶ根城と号す。大永元年東金城と改称せり』

 

と記されている。

鴇とは「Nipponia nippon」、つまり我が国を代表する絶滅危惧種であるトキのことで、市内の西福寺境内にある山嶺がトキの頭部に似ているため鴇ヶ峯と称され、転訛して東金と呼ばれるようになったらしい。

江戸時代までは北海道南部、東北、北陸、中国地方に広く分布していたトキが壊滅的に数を減らすのは、明治以降である。

 

 

古びた商家と新しい商業ビルが渾然一体となっている東金市街の狭い路地を抜け、「フラワーライナー」は、片貝県道入口、裁判所前、東金商高入口、砂押県道、公平農協、家の子、成東高校、上町とこまめに客を降ろしていく。

 

成東町との境に近い家の子のバス停では、近くに児童施設でもあるのかと早合点してしまうが、その由来は南北朝の騒乱時代に遡る。

後醍醐天皇の皇子護良親王が鎌倉に幽閉された時、親王の息女である華蔵姫が、父を慕って京から鎌倉に赴いたが、既に親王は非業の最期を遂げていた。

華蔵姫は悲嘆に暮れながら、南朝の勢力下である上総国姫島に下る。

 

姫島は、今でも東金市の大字の名として残り、家の子バス停も姫島にある。

家の子は正式には家乃子と書き、宮家の子である華蔵姫に因む地名と言われている。

近くにある妙宣寺が華蔵姫ゆかりの寺とされ、山門の仁王尊像は子育ての御利益で知られる。

 

この伝説には後日談があり、鎌倉の二階堂谷に棲みついていた大蛇が華蔵姫を慕って後を追ったが、長い道中で鱗が剥がれて傷だらけになり、精根尽き果てて、福俵村の田圃で命を落とす。

村の人々は大蛇の死骸に驚き、祟りを恐れて供養を行い、蛇塚を建てたところ、田園の中の島のように見えることから蛇島と呼ぶようになったと言う。

蛇島という名のバス停が、東金駅の南隣りにある福俵駅の近くに実在すると聞く。

 

 

「フラワーライナー」は、千葉中央駅から50分程の道中を走り切って、終点の成東駅に到着した。

 

平成18年に山武町、松尾町、蓮沼村と合併して山武市になり、自治体名としては消滅してしまったが、成東町の名は、日本武尊が東征の折りに、太平洋の荒波が押し寄せている様を見て、鳴濤と名づけたという言い伝えに基いている。

何となく内陸部にいるような心持ちになっていたが、ここはもう九十九里浜なのだな、と思う。

 

ひっそりとしている三角屋根の成東駅を眺めながら、これからどうしよう、JR東金線にでも初乗りしてみるか、と思案した。

総武本線の成東駅と外房線大網駅を結ぶ13.8kmの東金線には、なかなか乗る機会がなかった。

総武本線が東金を通る案もあったらしいが、地元の有力者が人や資源の流出を恐れて回避させたと伝わっている。

全国に鉄道忌避伝説は少なくないが、蒸気機関車の火の粉による火事を恐れた、地元の馬車や馬の業者の反対にあった、などという理由が多く、東金のような、あたかも現代のストロー効果を彷彿とさせる理由は珍しいのではないか。

 

その結果、千葉と東金を行き来するには、鉄道だと乗り換えが必要になったので、直通する「フラワーライナー」の利用客が少なくないのであろう。

東金線の試乗は、「フラワーライナー」で成東駅に降り立ったこの時が、1つの機会であった。

 

惜しむらくは、せっかく乗車したにも関わらず、東金線の車中も、大網からどのように帰ったのかも、全く覚えていない。

車窓が単調だったのも一因だろうが、たまたま乗り込んだ「フラワーライナー」の印象は、それほど強烈だったのである。

 

 

 

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