113系が運転開始から60年その4 | 鉄道とバスのブログ

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 運用

関西本線

1973年に関西本線の湊町後のJR難波 - 奈良間が電化され、同年10月のダイヤ改正より101系・113系電車が投入された。113系は快速列車用として0番台が大船電車区から鳳電車区からへ転入し、阪和線快速色に対してグレーに赤帯の関西線快速色に変更して投入された。

113系は大阪環状線経由で大阪駅方面 - 奈良駅間を直通する快速列車にも使用された。当初は休日のみの直通運転であったが、好評なことから1974年7月より毎日運転となった。


関西本線への投入当初は鳳電車区、のちに日根野電車区に配置され、関西本線への出入りは当時存在した阪和貨物線を介して行っていたほか、前述のとおり阪和線・紀勢本線でも運行されていたため、阪和線内で車両の向きが揃えられていた。そのため、天王寺駅では阪和線向けの車両と向きが逆になっていた(同じ理由で、103系も阪和線と関西本線で向きが逆になっていた)。

初めは阪和線の車両と配置が同じだったので、車両運用の都合上、阪和線・紀勢本線でも運行されていたが、冷房化が進んでいた阪和線向けの車両に比べると、関西線向けの車両は非冷房の初期型が多く、サービスの面では見劣りしていた(冷房車は0番台の改造車と2000番台が配置されていた)。

大和路快速の原型となる大阪環状線 奈良直通の快速電車には、先頭部に「快速 奈良 - 大阪(環状線)」というヘッドマークを取り付けていた。


大阪環状線奈良直通快速

当初は折り畳み式の大型のものであったが、1978年10月以降は着脱が簡単な小形のものに変更された(阪和線新快速も廃止直前に小型に変更)。

1980年3月に桜井線・和歌山線(王子- 五条)が草津線とともに電化され、桜井線・和歌山線には関西本線用と同じ赤帯塗装の113系が投入された。この113系は在来車の転用であり、2000番台の京阪神快速への投入や宇野線快速への115系1000番台の投入で捻出されている。

1982年8月1日、台風による大雨で大和川の支流葛下川が氾濫して王寺駅の留置線が水没し、留置されていた

101系と113系が浸水した。101系は大半が首都圏からの転用車により廃車代替されたが、113系は各車とも復旧された。113系の復旧工事


は鷹取工場、吹田工場のほか名古屋工場でも行われ、名古屋工場へは機関車牽引で入場した。

1984年10月には奈良線や和歌山線(五条 - 和歌山間)、紀勢本線和歌山 - 和歌山市間が電化され、105系とともに113系が投入された。1984年に奈良電車区が開設され、1985年3月14日ダイヤ改正で日根野電車区の関西本線系統用車両が奈良電車区に移管された。

国鉄分割民営化時は112両(6両編成12本 4両編成×10本)がJR西日本に承継された。

1989年3月11日のダイヤ改正で、大阪環状線から関西本線(大和路線)加茂までを直通する「大和路快速」が登場。使用車両も新型の221系へと交代したが、改正後も113系による大和路快速が運転されていた。なお、大和路線と大和路快速の愛称制定後は「奈良」を「大和路」に修正したヘッドマークも製作されたが、221系の増備後はヘッドマークの取り付けを省略したため、短期間使用されただけで終わった。

1991年には大和路線で、1994年3月に奈良線・和歌山線での営業運転を終了する。その後は同年9月の関西国際空港開港までの期間、特急「はるか」の乗務員訓練列車として使用された。

1995年1月の阪神.淡路大震災発生に伴い、JR神戸線の完全復旧までの間、迂回路となる福知山線での列車本数増発のため再度営業運転に抜擢され、6両編成で使用された。その後は運転休止中の2両を復活させて4両編成2本が組成され、山陰本線京都 - 園部間で使用された。

その5へつづく。