第3章 昭和58年 「小田急箱根高速バス」元箱根系統のほろ苦い思い出 | ごんたのつれづれ旅日記

ごんたのつれづれ旅日記

このブログへようこそお出で下さいました。
バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

【主な乗り物:「小田急箱根高速バス」新宿-元箱根系統】

 

 

東京での予備校生活も半年が過ぎ、秋風が街に吹き渡る季節になって、気晴らしでバス旅に出掛ける頻度が減って来た頃の話である。
 
気晴らしで、国鉄「東名ハイウェイバス」や「池20」系統、「南浦05」系統でバス旅の魅力を堪能した春先とは異なり、いよいよ受験本番が近づいた焦燥感と、勉強している以外の時間が後ろめたくなる気分に苛まれるようになった。
 
 
板橋区の蓮根にある予備校の寮は、朝食と夕食付きで、平日の昼食は予備校で済ませたが、休日は、寮でカレーライスの昼食が出た。
別に料金を取られたから、外へ食べに行く者も少なくなかったが、それほど選択肢が多い街ではなかった。
西台駅の近くにあるこってりしたラーメン屋が寮生には1番人気であったが、さすがに毎週ラーメンという訳にもいかず、カレーライスにも飽き足らなかった僕らのお気に入りは、歩いて数分の弁当屋だった。
ホカホカ弁当そのものが、まだ珍しかった時代であるが、それにも増して、店番の女性が、可憐で人気があった。
ちょっぴりふっくらした外見だったけれども、整った顔立ちで、話し方や立ち居振舞いに温かい人柄を感じた。
 
そのうちに、僕は、友人と時間をずらして弁当を買いにいくようになった。
僅かな時間だったが、店先で、2人きりで話をするのが、休日の密かな楽しみになっていた。
どのような話をしたのかは、覚えていない。
志望校とか、将来の夢とか、その娘の気を惹くために生意気で偉そうなことを言ったのだろうと思う。
いつもニコニコして、聞き上手な娘だった。
 
日曜日に旅に出てしまうと、その娘と会えないのが残念だったので、気晴らしの頻度が減って物足りなく感じても、弁当屋に行く回数が増えたことは、唯一の慰みだった。
 
 
師走を迎えた週末に、僕は、新宿駅西口の「箱根高速バス」乗り場に立っていた。
共通一次試験を翌月に控え、実家に帰省する余裕もない年末だった。
高速バスに乗っている場合じゃない、と分かっていても、どうしても気分転換が必要と思い詰めて、土曜日の午後に出掛けたのである。
 
「箱根高速バス」は、新宿と箱根湯本を結ぶ特急ロマンスカーを補う目的で、小田急電鉄バスが、新宿と箱根桃源台の間を、昭和44年6月から運行している。
ロマンスカーに乗ると、箱根湯本からは箱根登山鉄道、ケーブルカー、ロープウェイを乗り継がないと芦ノ湖にたどり着かないのだが、高速バスならば乗り換えることも無く、湖畔まで直行することが出来るために、乗車率も極めて好調に推移していると聞く。
 
数ヶ月前に「箱根高速バス」箱根桃源台系統は乗車を済ませていたので、紅白のツートンカラーの小田急電鉄バスを目にした時は、懐かしさが込み上げてきた。
 
 
僕が乗車したのは、新宿から元箱根に向かう、週末だけ運行されていた別系統のバスである。
 定刻13時30分に新宿駅西口を発車した元箱根行き「箱根高速バス」は、甲州街道を西へ進み、立体交差となっている初台の交差点を左折して、山手通りを南下した。
 
久しぶりだな、と思う。
蓮根と東北沢を行き来しているばかりで、新宿より南側の地域に足を踏み入れたのも久々だったし、山手通りを走るバスに乗るのも、数ヶ月前の「箱根高速バス」桃源台系統以来だった。
そのように思い起こせば、月日の経つのが早すぎるな、と思わざるを得ない。
「箱根高速バス」桃源台系統に乗車したのんびりした時代に戻りたくなるけれども、時計の針を戻すことはできない。
 
 
新宿を発着しながら東名高速を利用する「箱根高速バス」は、高速道路に乗るまでがもどかしい。
東京駅八重洲南口から首都高速都心環状線宝町ランプを入る「東名ハイウェイバス」も、新宿駅西口から首都高速4号新宿線初台ランプを入る「中央高速バス」も、発車して10分も経たないうちに高速走行が始まるが、「箱根高速バス」は、車の波に揉まれながら、山手通りで止まったり走ったりをいつまでも繰り返している。
 
代々木公園やNHK放送センター裏手の住宅地や、高級住宅街として知られる松濤を過ぎ、旧山手通りと交差する立体交差を越えて淡島通りの交差点を過ぎれば、山手通り、国道246号線、そして東名高速に繋がる首都高速3号線が3段重ねに交差している大橋交差点が見えてくる。
急傾斜の進入路で国道246号線の下り車線に入り、大橋ランプで首都高速の高架に駆け上がった頃には、新宿を発ってから20分は過ぎていたような気がする。
 
ただし、それはあくまで乗客の感覚に過ぎず、新宿駅西口から大橋ランプまでは約6km、東京駅八重洲南口からは12kmと2倍近い差があり、前者を下道で走る「箱根高速バス」と、後者の大半を首都高速で走る「東名ハイウェイバス」と、所要時間は大して変わらない。
たとえば、最初の東名高速道路の停留所である向ケ丘バスストップまで、東京駅から34分、新宿駅から22分である。
高速道路に入るまでがまどろっこしいのは、高速バスの宿命であろう。
 
ならば、首都高速3号線に程近い渋谷駅から東名高速に向かう高速バスがあれば、時間短縮が図れるではないか、と思うのだが、それを実現していたのが、「東名ハイウェイバス」や「箱根高速バス」と同じ昭和44年に開業した「東名急行バス」だった。
旧玉川電車の渋谷駅の跡、現在のマークシティの敷地に設けられたバスターミナルを発車した「東名急行バス」は、向ケ丘バスストップまで19分であった。
 
東急と名鉄をはじめ、沿線のバス事業者が出資した高速バス専門の事業者であった「東名急行バス」は、利用者数の低迷で昭和50年に廃止されてしまったが、東名高速において、東京駅、新宿駅、そして渋谷駅を起終点とした高速バスが揃い踏みしていた時代を、僕は体験した訳ではないけれども、強い郷愁を感じる。
 

 
首都高速3号線に入れば、「東名ハイウェイバス」で何度か通ったことのある馴染みの道のりである。
この日の元箱根行き「箱根高速バス」は、ほぼ満席という盛況であったが、直前に乗車券を購入したにも関わらず、運良く最前列の席が指定されていた。
車両も、桃源台系統に乗車した時のハイデッカータイプと異なり、客室が嵩上げされたスーパーハイデッカーだったので、ツイている、と思った。
 
東名向ヶ丘、東名江田、東名綾瀬といった高速道路上の停留所にこまめに立ち寄って行くうちに、いつしか僕は、「東名ハイウェイバス」や「箱根高速バス」を初体験している時のような新鮮さに酔い痴れていた。
受験勉強を放ったらかしている行為の言い訳に過ぎないかもしれないが、どうしようもなく煮詰まった時、僕には高速バスでの気分転換が絶対に必要なのだ、と確信した。
 
 
箱根桃源台行きの系統ならば、東名高速の御殿場ICまで足を伸ばし、御殿場駅に停車してから、国道134号線で乙女峠を越え、仙石原、芦ノ湖畔の桃源台へと進んでいく。
人気路線だけあって、夏に初乗りした箱根桃源台行きは満席で、それっきりリピーターにならなかったが、木漏れ日が車内に影を伸ばす箱根裏街道の車窓は、強く印象に残っていた。
 
元箱根系統も、てっきり同じ道を通るものと思い込んでいたのだが、バスは厚木ICで東名高速を離れ、小田原厚木道路を走り始めたではないか。
この道を走るのは初めての経験で、伊勢原、平塚といった街々を抜けていく前半は、田園の中に家々や工場などが散在する相模平野が、坦々と眠気を誘う。
 
大磯を過ぎて二宮、小田原へと歩を進める後半ともなれば、相模湾に近づきながらも、起伏の激しい山がちな地形に一変する。
「箱根高速バス」元箱根系統は、小田原厚木道路を経由する唯一の高速バスだった。
東名高速とはひと味もふた味も異なる新鮮な道筋に、このような道路があったのかと目を見張った。
このバスに乗って良かったと思う。
 
 
相模平野では目に入らなかったが、山間部に差し掛かると、折り重なる山裾の隙間から、場違いなほど立派な高架がところどころに姿を現す。
山影やトンネルに遮られて、お互いに隠れん坊をしているかのような位置関係であるけれど、小田原厚木道路は、ほぼ東海道新幹線に沿っている。
 
戦前に構想された弾丸列車計画で用地が取得済みであり、早期着工が可能であったことと、直線・カーブ・トンネル・鉄橋と、データ収集に必要な線形がひと通り揃っていることから、昭和37年に、綾瀬から小田原にかけての区間がモデル線として先に建設され、小田原市内の鴨宮駅付近に車両基地と管理施設が置かれた。
時速256kmの最高速度を達成した新幹線の試験運転は、この鴨宮実験線で行われたのである。
ただし、冬でも比較的温暖な鴨宮では、降雪時の高速運転を想定した試験データを充分に得ることが出来ず、昭和39年に開業した東海道新幹線は、現在に至るまで関ヶ原付近の雪に悩まされることになる。
 
煤けた弁天山トンネルを抜けると、不意に視界が開けて、左右に小田原の街並みが広がる。
鴨宮基地は、小田原ICの左手に新幹線の高架を望むあたりに置かれていた。
 
 
「箱根高速バス」は、西湘バイパスと真鶴道路が交差する小田原西JCTを通過して、箱根口ICで国道1号線に下り、早川の清流を遡りながら、狭い道路の両側に旅館や土産物店が並ぶ箱根湯本駅前で、最初の降車扱いを行う。
新宿からここまで1時間40分あまり、小田急ロマンスカーの方が速くて便利なのだが、意外なことに、バスを降りる客は少なくなかった。
 
このまま塔ノ沢、大平台、宮ノ下、小涌谷と、国道1号線の九十九折りの坂道を登ってくれれば楽しいのに、と思うのだが、高速バスともなれば、そのように呑気な経路は使わない。
国道1号線の登り口から左へ逸れて、おいおい何処へ行くのか、と心配になるような細い脇道に巨体を乗り入れ、早川とその支流の須雲川を渡って対岸の旧東海道を進み、山崎ICから箱根新道に入っていく。
 
厚木から箱根湯本までの行程があまりに鮮烈であったためなのか、後半の箱根越えの印象は乏しい。
難所と言われた旧東海道に沿い、峻険な山中でありながら、箱根新道とはなかなかいい道ではないか、と感じた記憶だけが残っている。
ところどころで雄大な眺望が楽しめる箱根ターンパイクや、沿道に点在する温泉街の風情が溢れる旧道に比べれば、あまりに機能的に過ぎて、平凡に感じてしまったのかもしれない。
 
 
30分足らずで箱根の山を登り切り、定刻15時41分に到着した元箱根停留所は、きちんとバスが何台も駐車したり転回するスペースがあり、案内所も備えられたターミナルだったが、季節が季節だけに、利用客は疎らだった。
ここから箱根園や桃源台といった箱根のめぼしい観光地をはじめ、更に小田原、箱根湯本、御殿場、沼津、三島、熱海などの山麓まで、多方面の路線バスが出ているので、このあとの行程は選り取り見取りである。
 
元箱根は、芦ノ湖の南岸にある箱根関所の北にあって、「箱根高速バス」桃源台系統の終点と同じく湖の東岸であるが、北岸に近い桃源台より数キロ南に位置している。

「箱根高速バス」の時刻表で、元箱根の地名を知ってから、何が「元」なのだろう、と不思議でしょうがなかった。

「元」とは、似たものが他に登場したけれども、こちらが本家ですぞ、と主張している場合と、後に出現した類似品の方が有名になりましたけれども、せめて、こちらが元祖と知っておいて下さい、と控えめに譲歩している場合の、2種類の意味合いがあると思う。

 

 

元箱根は神奈川県箱根町の字の1つで、言わずと知れた箱根権現(後の箱根神社)の門前町として栄え、かつては箱根山に対する山岳信仰の拠点として、また鎌倉時代以降は三島大社とともに武家の信仰を集めて賑わった。

17世紀に、「出女入鉄砲」で名高い箱根関所が、箱根神社と、その西南に位置する箱根峠の間に置かれた。

それに反発した住民が本陣の設置を拒んだため、江戸幕府は、東海道五十三次の10番目の宿場として、関所の三島寄りに箱根宿を開き、関所から小田原寄りの地域を「元箱根」と呼ぶようになったと伝えられている。

 

現代ならば、後に造られた箱根宿が「新箱根」などと名乗るところであろうが、時は江戸時代、「元箱根」と名づけたのが地元住民であるならば、こっちが元祖だ、と反骨精神旺盛に主張しているように聞こえるし、幕府から押しつけられたのであれば、お上に反発したのだから箱根を名乗るのは許さん、と蔑称を与えられたように見えてしまうのだが、どちらだろうか。

小田急線と接続する箱根湯本からの箱根登山鉄道、ケーブルカー、ロープウェイの終点で、「箱根高速バス」が頻回に運行している桃源台に比べれば、 元箱根は、東海道や国道1号線の沿道であっても、由緒ある歴史に比して、存在感が大人しい印象があるのは、「箱根高速バス」が週末に1往復しか運行されていないための、バスファンとしての勝手な思い込みである。

 

後の話になるが、元箱根の地名のきっかけとなった箱根関所を起終点とした高速バスがあった。

平成2年に名古屋と箱根関所を結ぶ「箱根ビュー」号が開業し、我が国有数の観光地に中京地区から直行する設定が面白かったが、乗客数が低迷し、平成8年に廃止された。

僕は、「伊豆箱根」号と改称された平成5年に乗車したが、三島広小路駅に立ち寄り、国道1号線で西から箱根越えに挑む経路は面白かったものの、箱根関所で下ろされた時には、どうして、もっと先の元箱根や桃源台まで足を伸ばさないのだろう、と首を傾げたものだった。

まさか、江戸時代の旅人のように、箱根関所を越えるのを控えた訳でもないだろう。 

 

 
バスを降りると、冷たく吹きつける風に僕は思わず襟元を掻き合わせたが、それよりも心を奪われたのは、思わぬ雪景色だった。
穏やかに水を湛える芦ノ湖の澄んだ青さと、湖を囲む山々を覆う木々がうっすらと白く染まっている鮮やかな対照に、心を洗われた。
この年、初めて見た雪ではなかったか。
 
 
墨絵のような素朴な光景に酔いながらも、どうして、「箱根高速バス」元箱根系統にもっと早く乗っておかなかったのか、と残念に感じたのだが、時計の針を巻き戻すことは出来ない。
 
その後、「東名ハイウェイバス」のように繰り返し乗らなかったのが、今でも不思議でならないのだが、週末だけの運行であることと、座席指定と言う敷居の高さが、億劫に感じられたのだろう。
初体験が、たまたまスーパーハイデッカーの最前列席に当たったので、それを超える幸運など、もうないだろう、と自分で一線を引いてしまったという理由もある。
 
結局は再乗車の機会に恵まれないまま、「箱根高速バス」元箱根系統は、平成16年3月に廃止された。
 
 
その7年後に、「箱根高速バス」元箱根系統を彷彿とさせる路線が登場した。
新宿駅西口と箱根湯本駅を直行する「新宿・箱根湯本ライナー」で、平成23年3月11日に発生した東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故により、首都圏の電力事情が悪化したため、長期運休となった小田急ロマンスカーの代替として、急遽4月9日から運行を開始したのである。
1日4往復が設定され、ロマンスカーは4月16日に運転を再開したが、本数が大幅に削減されていたために、ロマンスカーの補助的交通手段として運行を継続した。
その後、ロマンスカーの運行本数が平常並みに戻ったために1往復に減便された上で、同年7月15日に任務を終了したのである。
 
一種の災害対策の高速バスであるから、その存在を知っても、乗るのは控えていたのだが、「箱根高速バス」元箱根系統が経由し、おそらく「新宿・箱根湯本ライナー」も走った小田原厚木道路を、もう1度バスで走ってみたいという渇望は拭うべくもなかった。
 
 
共通一次試験が終わり、国立大学の二次試験の準備に打ち込んでいた昭和59年2月に、話は戻る。
さすがにバスに乗りに行く余裕はなく、日曜日ともなれば寮の1室に籠もることが多くなって、唯一の慰めは弁当を買いに行く昼下がりだった。
 
「もうすぐ、ここともお別れかな」
「でも、もう1年お世話になったりしてね」
「勘弁してくれよ」
 
などと他愛もない会話を交わしながら、店番の娘から出来立てのホカホカ弁当を受け取ると、ピンク色の可愛らしい包みが添えられていた。
 
「あれ?これは?」
「だって、今日は2月14日だもの」
 
はにかむようなその娘の笑顔は、今でも鮮明に思い出すことが出来る。
その笑顔を、とってもまぶしく感じたのだが、
 
ああ、客に配るサービス品なんだな──
 
と、本当にそう思いこんでしまったのだ。
 
 
程なく、あちこちの受験に忙殺されて、寮で過ごす日も少なくなり、3月末の退寮の日を迎えた。
僕は東京の大学に進学が決まったが、教養部は地方に置かれていたため、いったん実家に荷物を送る必要があった。
 
「よう、進んでるか?」
 
荷造りの最中に、数人の友人が部屋に入ってきた。
 
「おう、もう一息かな」
 
仲間たちと喋りながら本棚を片付けていると、ピンク色の包みがカサッと床に落ちた。
あけてみると、中から現れたのは、ハート型のチョコレートだった。
 
「うおっ、誰からだよ?」
「え?──ああ、ほら、あの弁当屋さん。バレンタインデーにお店が配ってたじゃん」
 
あの日、サービス品と思い込んで、甘いものが苦手な僕は、口にしないまま放っていたのだ。
 
「ええ?──あの日、俺も弁当買ったけど、チョコなんかくれなかったぜ。なあ、お前も一緒だったよな」
「ああ。チョコレートちょうだいって言ってみたけど、貰えなかった」
 
 
僕は部屋を飛び出して、慌てて弁当屋へ走った。
ところが、店のシャッターは固く閉ざされて、定休日の札がぶら下がっていた。
僕は、その日のうちに、東京を離れなければならなかった。
故郷へ向かう特急列車の中でかじったチョコレートのほろ苦さは、昨日のことのように思い浮かぶ。
どうして、あの時気づかなかったのかと、自分の鈍感さを悔やんでも、後戻りが出来ないのが人生である。
時計の針を巻き戻すことは叶わないのだ。
 
それから四半世紀を経て、平成の中頃のこと、所用で板橋を訪れた際に、ふと思い立って、30年ぶりに寮のあった蓮根の街に立ち寄った。
1年間を過ごした寮の建物はそのまま残されていたものの、所有者が変わったのか、屋上に大きく掲げられていた予備校の看板は撤去されていた。
弁当屋は「松屋」に置き換わっていて、僕は、容赦のない時の流れを噛み締めたのである。
 
 
ブログランキング・にほんブログ村へ

↑よろしければclickをお願いします<(_ _)>