vol.463 実は"超歴深路線" 愛知・武豊線 (醸造の街 半田/武豊街ブラ付) | 旅ブログ Wo’s別荘

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 今作は、去る10月に行ってきたJR武豊線の全線走破をご覧頂きますグッド!

"全線走破"とは言っても、全長約20kmの盲腸線です。

愛知県・東海道線大府駅から分岐しています電車

 

知多半島の北東部を走る、パッと見は地味な感じの盲腸線ですが、意外な"日本最古"があったり、沿線も見所があり、独特の小トリップが楽しめる路線でもあります星

 

沿線の半田市では、企業ミュージアム2館を訪ねるほか、終点・武豊のプチ街ブラも付けます。

武豊線、どんな路線なのか?スタートします男の子

東海道線と分岐する、起点・大府駅ですグッド!

武豊線ホームは、東海道線の上下線に挟まれた真ん中です左右矢印

武豊線の電車は、基本↑313系のワンマン仕様車(※2両編成)が担当しています。

なお朝夕のみ、名古屋駅から4連の区間快速が直通で乗り入れます(※ラストで出てきます)電車

早速乗り込みます男の子

車内は、↑東海道線の新快速と全く同じ、転換クロスです。

短い盲腸線にしては豪華(?)な座席にも思えますが、これは"JR東海のセオリー"に則っている、同社では当然のありようです。

というのは・

武豊線の概要はこの後すぐいきますが、同線が走る知多半島は名鉄との競争があり、JR東海は名鉄/近鉄との競合区間では原則、バッタンコシート車を投入します。

 

逆にいえば、私鉄との競合が無い区間でJ海は、どんな長距離でもお構いなしにロングシートです。18キッパーの"修行区間"となっている静岡県内を始め、先年鳴り物入りでデビューした中央線用の新型・315系も、競合線が無いためロングです。こういうドライな姿勢が沿線利用者の心の中に何らかのマグマを蓄積させている事を、新幹線やリニアで忙しい同社はまだ気づいてないようですあせる

そんな話はさておき、発車しました!

まずは東京方へ走り出しますハチ

大府駅東方で東海道線をオーバークロスし、南東へ曲がっていきます。武豊線は貨物列車が現在も走るため、重量ある貨物列車も通常型の機関車で越えられるように低勾配、国鉄時代からの余裕の造りです右下矢印

ここで、武豊線の概要を纏めますクリップ

 

↑図、東京方が下になりますが、東海道線大府駅から分岐する武豊線、全長約20kmの盲腸線で、知多半島の北東部を走ります虹

起終点入れて全10駅、途中の半田駅が主要駅ですあじさい

 

実はこの武豊線、愛知県で最も古い鉄道路線で、1886(明治19)年開通という歴史を誇ります星

 

なぜ、同線が東海道線より先に出来たのか?という事ですが、その訳は、東海道線を建設するために敷かれたのが武豊線だったからですヒヨコ

 

知多半島東側の衣浦湾は天然の良港として有名で、明治政府は東海道線の建設にあたり、特に中部地方の工区では衣浦湾に面する武豊港に、海外から輸入した資材を荷揚げし、建設沿線へ運ぶ臨港線を敷設しました。これが現在の武豊線ですしっぽフリフリ

(※明治中期頃まで日本は鉄橋を鋳造する技術も無かったので、欧米から輸入して組立てていた)

 

東海道線開通後は地域の足を担うローカル線となりますが、名古屋近郊という事もあって安定した利用客があり、衣浦湾沿岸には工場が多数立地し、貨物輸送でも重要な役割を果たしています。JR転換後の現在も、貨物専用線が分岐しています船

(※↓衣浦臨海鉄道のDL 国鉄DE10型ベース)

武豊線が電化されたのは意外と遅く、JR転換後の2015年です。

なお、電化以外にも複線化や、中部国際空港への延伸等の構想があり、様々な可能性を秘めた知多半島を走る同線には、将来へのプランがいくつか存在します。それも睨んだ上でJ海は電化を施したのかもです電車

東海道線を跨いで地上へおりると、1駅目・尾張森岡駅です。

尾張森岡を出ると高架になり、住宅が建てこんできます家

2駅目は高架上にある緒川駅ですが、この駅は~

駅前にはドデカいイオンモールがありますプレゼント

緒川を過ぎると再び地上へ、田園風景が広がる所もありますクローバー

同線の途中駅で離合線が無いのは尾張森岡だけで、他の全駅で行き違い可能です。運転間隔は日中30分毎なので、途中どこかで必ず離合します電車

東浦駅から、↑貨物専用私鉄・衣浦臨海鉄道が分岐します左上矢印

 

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大府から5駅目・亀崎駅で途中下車しますカメ

武豊線へ鉄ちゃん来たなら、この駅は必見と思います。

というのは~

この駅、実は・

↑木造平屋の、まぁ全国にありがちな駅舎ですが、

この亀崎駅、現役では全国最古の駅舎だそうです星

 

現役でなく保存されている駅舎での日本最古は、過去作で訪ねた滋賀県・旧長浜駅ですが(※2018.4up)、この亀崎駅は1886(明治19)年の同線開業からずっと使い続けられ、戦災や地震にも堪えてきたバリバリの現役です(驚)

(※諸説ありますが、一度火災に遭っており、大半の部分がその際修復されたという説も)

駅前には、その解説板もあります目

駅内には、↑武豊線の歴史を語る掲示も。同線の歴史は前述しましたが、初代武豊駅長が後に初代東京駅長に就任する等、"東海道線の生みの親"的な同線の知られざる過去に興味は尽きませんキラキラ

駅舎に貼り付けてある↑建物資産標にも、しっかり『M19年』と記されていますクリップ

駅前通りが↑衣浦湾へむけて延びています波

そんな歴史を秘めた亀崎駅ですが、ホームには時代に応じた新しい設備も。

同駅には跨線橋が2つあります。一つは通常のものですが、もう一つは・

もう一つの新しいほうは、↑新設されたエレベーターだけのためです。日本最古の現役駅は、今やバリアフリーになっていました星

 

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亀崎から、再び武豊線を南下します黄色い花

再び、住宅が建て込んできて市街地へ。

次の途中下車駅は~

半田駅で降ります。

同線で一番の主要駅です(※愛知県半田市)

この駅では長めの途中下車になりますあせる

2023現在、半田駅周辺では高架化工事中で、同駅も↑仮駅舎になっていましたレンチ

しかし仮駅舎とはいえ、同線で唯一の駅員配置駅なので↑有人窓口もあり、自動改札も本式(?)のものです(※同駅以外の武豊線駅は、全て簡易式改札機)

仮駅舎の横には、↑もう一つプレハブの建物があります。

半田市鉄道資料館です家

前述の通り歴史ある武豊線の史料を展示していますが、残念ながら月2回のみの開館で、この日は見学出来ませんでしたあせる

資料館の横に、↑1両の蒸機が保存されています。

このSLは・

1970(昭和45)年、武豊線最後のSL列車を牽引した、C11 265号機です。

地元の保存会の方々により大切に維持されていますキラキラ

↑さよなら運転を行った際の運行表プレートが掲げてありました(※復元かもです)

SLの隣には、同駅で明治期に使われていた↑油庫が移転保存されています。なお半田駅には、日本最古(※存置当時)の跨線橋もあったんですが、前出の高架化工事により惜しくも取り壊されました。

 

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そんな半田駅ですが、これから駅周辺を歩いてみますヒツジ

企業のミュージアムを予約しているので、見学します。

広い駅前通りのむこうに、↑ビルが建っています。

このビル、有名な食品会社の本社です。

お酢でおなじみの、ミツカンの本社です。ここ半田市にあります。

↑本社ビルの手前、木造の古風な建物が、同社の博物館・MIZKAN MUSEUMですビル

完全予約制(※2023現在)で、↑まず受付で見学要領の説明をうけます女の子

見学は、30名前後でのガイドツアーとなっています。時間になると、ナビゲーターお姉さんの案内でスタートします足あと

内部は、5つ程のエリアに分かれています。順路の最初は"大地の蔵"へカメ

古来からの醸造術について説明を受けます。

日本では4~5世紀頃、中国から伝わった技術で造り始められましたが、本格的に庶民の調味料となったのは江戸期からとされます。

古来からの製法に加え、このミツカンを創業した中埜家が江戸中期、酒造りで発生する酒粕を有効利用した『粕酢』を開発、全国へ流通させた事で酢が一層普及したと言われます。

、"酢"←の文字は、"酒から作る"という意も持っています日本酒

 

この知多半島では昔から醸造業が盛んで、この後出てきますが日本酒や味噌のメーカーも多数あります。そんな中、一歩群を抜いて大会社へと成長していったのがミツカンでした。この後さらに見ていきますオレンジ

展示室の中央に↑大きな樽。

覗き込むと~

樽の中から、下階にある『本物の工場』が覗けます目

↑"静置発酵室"と書かれたガラス張りのむこうには・

↑昔ながらの様式で、時間をかけて発酵させる製法を実践しています。今の一般的な酢は、速く大量に造るため近代的なタンクで製造されていて、この方法での酢造りは現在稀少です。この室から出来た酢は、実際に高級酢として製品化されています。

まだまだ順路は続きます走る人

廊下には酢造りの道具等を展示したり、江戸期の雰囲気も再現。

順路中程にはミニ体験コーナーがあり、樽を持ったり材料を量ったりと色々出来るので、子供さん連れは大喜び^男の子

↑"香りのひき出し"コーナーでは、米酢や果実酢等、原料別の香りの違いが体験できますウサギ

↑酢醸造の過程で、一旦アルコールが生成されますが(※基本"醸造"なので)、その後に酢酸菌を加えて再発酵する工程を経て、酢に変化していきます。完成品のアルコール含有率は0.2%程だそうですロボット

ミュージアムは実工場に組み込まれてあるので、渡り廊下から工場の中庭が見える所も目

ラストの"時の蔵"では、同社の歴史と共に・

中央には、↑半田から江戸へ酢と運んだ"弁才船"が船

そして、↑船の甲板へ登り、映像視聴があります映画

船の周囲には、ミツカンの歴史年表本

創業家初代・中野又左衛門(1756-1828)は、当時の江戸で普及し始めていた『寿司』の食習慣に注目し、"酢に商機あり"と予見しましたひらめき電球

元々同家で醸造していた酒の粕を利用した酢を大量に生産し、既に酒の流通で確立されていた衣浦湾からの海路を使い、江戸へ出荷し始めます。

 

しかし当時は、もし酢の発酵菌が酒造場に入り込むと酒がダメになってしまうので、酒と酢を同じ業者で醸造するのはタブーとされていました。そのタブーに挑戦したのが、ミツカン創業者だったんです星

しばらくは酒造も併営し、明治初期にはビールも造ってた(!)そうですが、次第に酢専業へとシフトしていきますビール

尾張産の酢を江戸に出荷する際は、各醸造元とも共通の↑"丸勘印"が付けられていましたが、四代目の中埜又左衛門(※この代から"中埜"へ改姓)は、明治維新後に登場した"商標権"に着目。

現在同社が使っている↓"三ツ環マーク"を発案しますサーチ

↑力強い3本の横線と、その下の丸印でおなじみのミツカン印。

三本の太線は、酢の"味"、"きき(※酸っぱさ)"、"香り"を表し、下の丸は"それを天下にあまねく広める"という意だそうです。

又、三本線は創業時の理念、"顧客/従業員/経営者の三者すべて良し"の意も込められているとの事。

 

新商標の発表会を1888(明治21)年、東京の歌舞伎劇場で大々的に挙行し、現在に至るまでミツカンのマークとして親しまれていますさくらんぼ

伝統を守りつつ、製造には近代化もすすめ、常に世の流れを読んで新製品を次々と送り出してきたミツカンは、今や我が国酢のシェア半分以上を占めます星

そんな中、同社が戦後放った一番のヒット商品といえば、

『味ぽん』ではないでしょうか割り箸

 

1964(昭和39)年、オリンピックや東海道新幹線開通で勢いあった日本、その年同社は、九州博多の水炊きで用いられていたぽん酢をヒントに"味付けぽん酢"を発売。後に略称の"味ぽん"を商品名にするとますます大ヒット、今や日本の鍋に欠かせないものとなっています鍋

ちなみに"ポン酢"の語源は、オランダ語で柑橘果汁を指す"pons"からきているそうですクリップ

 

同社の"製品多角化"はその後も続き、納豆会社を買収して本格参入したほか、おにぎりに混ぜ込む『おむすび山』もヒットさせる等、優良企業が多数ある愛知県でもひときわ輝く企業へ成長を遂げました。工場も全国に数ヵ所擁しています。

 

正式社名は長年"中埜酢店"でしたが、1998年に持ち株会社化し、現在はミツカンホールディングスの下、食品製造販売の㈱Mizkan、資産管理の中埜酢店等に分れていますビル

館の窓からは、酢を江戸へ運び出した↑半田運河が見えます(※後程歩きます)

さいごは↑専用シアターで又々映像投影。充実の見学コースでした映画

出口の前には~

ファミリー向けの体験コーナー(※模擬のお寿司作り等が出来る)&ショップがあり、ここでガイドツアーは流れ解散となります。

このコーナーはさながら"お寿司ワールド"な感もあり、同社が飛躍するきっかけとなった寿司に感謝する場なのかもしれません。

今冬のNZ旅シリーズでも度々登場しましたが、もはや"世界食"となっている寿司、同社の酢は世界中のスーパーで売られています波

ミュージアムをあとに、少し半田運河周辺を歩きますカメ

運河周辺にはミツカンの倉庫が立ち並び、大きなミツカンマークが目をひく独特の光景は"ミツカン村"の様相です^虹

地元の祭礼の立派な山鉾が、予行演習(?)に来ていました目

10月下旬に行われる『はんだ山車祭り』、31基の山車が半田の街を巡行する勇壮なものだそうですグッド!

 

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"ミツカン村"から少し北へ行くと、古い街並が残る一角があります。

中埜家ゆかりの古屋敷等も建っていますが、これから行くのは~

『国盛 酒の文化館』を訪ねます男の子

半田で長年酒造を営む、清酒"国盛(くにざかり)"のミュージアムですベル

同館も予約制ですが、当日空きがあれば入館可です。

展示は2階との事で、階段を上がると・右上矢印

同社の製品や歴史はもとより、日本酒全体について理解が深まる展示でした目

創業は1844(弘化元)年、小栗冨次郎が先程のミツカン創業家から酒造株の譲渡をうけて酒造を始めた事が淵源です。

 

"国盛"の由来は、国の繁栄と同家(社)の繁栄を願って命名したとの事。半田には最盛期、約70軒以上の造り酒屋があり、前述の通り"醸造の街"を形成していましたが、戦後清酒の需要が拡大する中で、逆に需要は灘の大手メーカーに寡占されがちとなり、半田等の地方酒造は一時期苦戦したといいます。しかし同社は"自社ブランド"にこだわり、国盛の名を守り、高品質で美味な酒を造り続けました(※同社HP一部参考)キラキラ

現在、各地の酒造メーカーは自社博物館を持つ所も多いですが、この『酒の文化館』のオープンは1985(昭和60)年と業界では比較的古くからあり、同社の酒造りへの誇りが伝わってくるミュージアムです。

 

長年"丸中酒造"という社名でしたが、1990年に現社名の『中埜酒造』に社名変更。しかし現在、ミツカンホールディングス下には入っていないそうです。

順路ラストのショップで国盛を買って帰ったんですが、凄く濃厚な風味で美酒でした^日本酒

 

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半田で長々となりましたがあせる、武豊線に戻ります電車

終点の1つ前、東成岩(ひがしならわ)駅では・

再び、衣浦臨海鉄道との分岐線があります。

終点・武豊が近づくと、又々住宅が密集してきます家

武豊駅進入、↑ホーム線1線、留置線2線(※うち1線架線無し)

終点・武豊駅到着ですフラッグ

武豊駅にも、↑先程の亀崎駅や半田駅と同じく、同線の歴史を解説する掲示。ホント想像以上に地元から愛されている路線ですグッド!

↑終端部ですが、昭和期まではこの先さらに、武豊港駅までの貨物線が延びていました(※1965年廃止)

その跡が一部残るとの事なので、港まで少し歩いてみますしっぽフリフリ

駅前から、南へ進むと・

↑廃線跡を利用したポケットパークがクローバー

案内板も↑駅名標風コスモス

醸造が盛んな知多半島ですが、武豊付近は"醤油・味噌蔵"が多くみられますねこへび

海が近づくと、工業地帯っぽくなりますが、そんな一角に・

↑の交差点角に、武豊線ゆかりの地があります。

↑開業時の武豊駅跡、後の旧武豊港駅がこの地でした。

さらにこの地では、"日本唯一の鉄道遺産"も発見されました。

それとは・

↑円形テントの下には、かつての転車台が保存されていますが・

全国の機関区等にある転車台とは明らかに違う、↑線路が直角に交わっている形です。これ『直角二線式』と呼ばれる超レアなタイプで、現存するのはこの武豊港だけと言われていますキラキラ

(※国有形文化財)

 

この転車台、貨車用だったとの事で、近傍にあった油槽所への引込線へタンク車を入換する際の方向転換に使われたそうです。

旧国鉄が昭和30年代に全国の転車台を実態調査した際、こんな形式の転車台は全国にここしか無かったそうで、既に超レアな存在だったようです宝石ブルー

さらに現地板によれば、こうして保存されるに至った経過が、又レアな話なんです。

この場所は長年荒地で、転車台は地面の下に埋まったまま忘れ去られていたそうです。1999(平成11)年、地元・武豊小学校5年生が校外での総合学習中に偶然発見し、町長に直接保存を要望。調査したところ大変貴重なものである事が判明。修復が施され、保存が実現したという事ですクラッカー

全長20km程のローカル線で、こんなネタ豊富な路線は全国でもなかなか無いと思いますグッド!

 

港まで出ました。武豊港です船

かつて東海道線の資材を陸揚げし、江戸期には酢や酒を出荷していた、波静かな衣浦湾。歴史を秘め、今も日本の産業を支えています波

 

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駅に戻ってきました。

戻りの電車は、名古屋駅直通の311系ですオレンジ

偶然↑トップナンバー編成でした。デビュー当時は新快速でぶっ飛ばしていた311系、近年では各停中心の運用ですかたつむり

 

以上、武豊線のWo流トリップをご覧頂きました。

将来、中部空港へのアクセス線構想等も見据え、今後とも元気な東海圏を引っ張っていく路線であり続けると思います。知られざる歴史を秘めつつ、未来へ向かう盲腸線・武豊線でした虹