第47章 平成28年 原発事故に揺れる町へ~代行バスを乗り継いで常磐線をたどる・後編~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
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【主な乗り物:常磐線竜田-原ノ町間代行バス・常磐線135M・常磐線相馬-亘理間代行バス・常磐線245M・さくら交通高速バス新宿-仙台線】



福島県浜通りに出現した現代の悲しい遺跡の中を、淡々と代行バスは走る。

車内は深閑として、まばらに席を占める乗客は物音1つ立てない。
キョロキョロと周りを見回しているのは僕くらいで、目をつむっていたり、スマホをいじっている人ばかりである。
運転手と添乗員も、全く会話を交わさない。
この2人は地元の人なのだろうと思うけれど、心中、どのような思いが去来しているのだろうか。


富岡町を過ぎて大熊町に入ると、海側にこんもりと重なり合う丘陵地帯に、送電線の巨大な鉄塔が林立している。
送電線が集まる先に、福島第一原発があるはずである。
国道6号線は、最も近い所で、原発から1kmという至近距離に近づく。
交差する道路は全てゲートで封鎖され、重苦しい雰囲気が漂う。

ところどころに、放射能の汚染土を入れた黒い大型土嚢袋が無数に積み重ねられている空き地が現れる。
塀に囲まれてはいるものの、道路からは丸見えで、隠しているとも思えない無造作な置き方である。
何より驚かされたのは敷地の広大さで、何段にも積み重ねられた土嚢袋が果てしなく並べられた上に、その何倍もの空きスペースが用意されている。
いったい、どれほどの汚染土を集めなければならないのか、と絶望感に苛まれてしまう。


この土嚢袋を初めて目にしたのは、前年の秋に、福島と南相馬を結ぶ特急バスで飯舘村を通過した時であった。
その時は、相馬・南相馬から東京に直通する高速バスに乗り継いで、全線開通したばかりの常磐道を南下した。
車内から初めて目にした帰還困難地域の有様に、心が痛んだ。

一方で、町から離れた山中に建設された高速道路であっても、 震災後に初めて原ノ町から広野まで通過することが可能になったという画期的な事実に、僕らの国は、原発事故によって失われた国土を取り戻したのかも知れないと感じたのである。


しかし、それは大きな間違いであった。
空調を内気循環にして窓も開けられず、外界と全く遮断された状態で、途中駅の富岡、夜ノ森、大野、双葉、浪江、桃内、小高、磐城太田は全て通過し、乗り降りすることも出来ない竜田-原ノ町間鉄道代行バスは、放射能汚染地域の上空を飛び越えていく航空機と何ら変わりはない。
これで、常磐線が全線開通したと言えるのだろうか。
代行バスから帰還困難地域の惨状を間近に見れば、僕らの国は、失われた国土を取り戻すどころか、未だに収束の目途が立たない厳しい放射能災害との闘いの真っ只中にあると思わざるを得ない。

大熊町を抜け、浪江町から双葉町に入れば、かつての通行止め区間は終わりを告げるが、帰還困難地域はまだまだ続く。
あちこちに「がんばろう!○○町」と書かれた標語を見かける。
震災後に日本中で見かけた言葉だが、避難指示区域には、頑張ろうとする人々でさえ容易に入れないのだから、虚しく空回りしているようにしか思えない。


右手に、黒ずんで汚れた白い建物が姿を現した。
「双葉厚生病院」と大書された看板が見える。
この病院の院長のインタビュー記事を読んだことを、ふと思い出した。

平成23年3月11日の東日本大震災発生当時は、双葉厚生病院には200人近い患者が入院し、そのうち40人が重症だったという。
地震で病院も少なからざる被害を受けたが、来院した50人ほどの負傷者の手当にあたり、重傷者はドクターヘリなどで福島県立医科大学病院へ搬送、2件の出産を手がけるなど、なんとか医療態勢を維持していた。

災害派遣医療チームも到着し、被災者の治療に本格的に取り組もうとした12日早朝に、突然、放射線防護服に身を包んだ警察官が飛び込んできて、避難を指示したのである。
原発が深刻な状態になっているとは夢にも思っていなかった院長たちは、

「放射性物質が飛散しても、収まるまで病院の中にいればいいでしょう。なぜ逃げなければならないのか」

などと押し問答をしてしまう。
警察官もはっきりした説明をしなかったらしい。

それまでも、病院側は福島県災害対策本部に連絡をとり、「患者を避難させるのであれば救急車が必要」と要請していたのである。
重症患者を40人搬送するならば救急車が20台は必要であり、ヘリコプターを使う場合でも、着陸可能地点まで患者を運ぶ救急車が要る。
だが、災害対策本部の電話が繋がったり繋がらなかったり、電話の相手がその都度変わったりという混乱の中で、相手も 「救急車の都合が付きません」と繰り返すばかりだったのだ。

テレビで「内閣総理大臣が半径10km圏内の住民の避難を指示した」というニュースが流れ、災害対策本部に詰めていた福島県立医科大学の教授からの電話で「そこにいてはいけない」と説明を受け、急遽、入院患者を全員避難させることになる。
救急車などと言っている余裕はない。
患者の身体に負担がかかるとしても、自衛隊の車で運び、ヘリコプターに乗せなければならない。
ヘリコプターが着陸できる双葉高校のグラウンドまで何回も往復している最中の午後3時36分、福島第一原発1号機が水素爆発を起こす。
双葉高校からも爆発が見え、原発の破片と思われる白い粉がパラパラと降ってきたという。


関連して思い浮かぶのは、大熊町にある双葉病院の悲劇である。

福島第一原発から4kmほどの距離にある双葉病院には338人、付属する療養施設のドーヴィル双葉には98人の患者さんがいた。
地震で電気・水道・ガスなどのライフラインは全て止まり、院長はじめ職員は、蝋燭の明かりを頼りに患者の介護に奮闘する。

12日早朝に避難指示が出され、昼過ぎに大熊町が手配した避難用のバス5台が病院に到着するが、普通の座席の観光バス車両だったため、歩行が可能な患者209人から避難させる事になった。
避難所に患者を下ろす手間に備えて、院長以外のスタッフも手伝いのために同行したが、すぐ病院に戻るつもりだったようである。
しかし、混乱の中でなかなか受け入れ先が決まらないうちに、双葉病院は立ち入り禁止区域に含まれてしまう。
双葉病院と福島第一原発とは、水素爆発の振動が足に伝わってくるほど至近距離なのである。

電話も携帯電話も不通で、 残された129人の患者を1人で介護する事になった院長は、点滴の調整や喀痰の吸引などに忙殺される。
情報が不足し錯綜する中で、13日に郡山の陸上自衛隊から救援隊が出発したが、途中で双葉病院の実情が判明し、用意した兵員輸送用のトラックでの救出は困難と判断して引き返してしまう。
3日目の夜を迎えた双葉病院では、食料はお菓子しかなくなり、衰弱した患者のうち、ついに4人が死亡してしまう。

14日の午前6時30分に自衛隊が医師を連れて到着し、重症患者34人を乗せて出発するが、受け入れ先が見つからずに避難所を転々として230kmもさまよった挙げ句、14時間後にいわき市の避難所にたどり着いた時には多くの患者の容態が悪化しており、そのまま亡くなったという。
そこでトリアージに当たった災害派遣医療チームの医師の手記を読んだことがあるが、これこそがこの世の地獄ではないかと胸が張り裂けそうになった。
各避難所でも物資や医薬品が不足し、暖房すら充分ではない状態だったのである。

院長と医師3人、そして95人の患者は、病院に取り残されたまま震災から5日目を迎えたが、15日の午前1時、巡回に来た警察官に強く避難を促される。
院長は患者が全員避難するまで病院に留まることを主張するが、警察官は強制的に院長と医師だけを川内村まで連れて行ってしまう。
院長は、川内村で救援隊と合流して戻るつもりだったが、避難エリアであることを理由に警察は許可を出さない。

16日に救援に向かった自衛隊は川内村に寄らずに双葉病院に向かい、最後まで取り残されていた患者を救出するが、名前も病状もわからない状態で医療機関や施設に収容されたため、そこでも生命を落とす患者が続出する。
双葉病院における患者の犠牲は、なんと50名にも上ったのである。

双葉病院には認知症の高齢者も多数入院する精神科病棟があり、後日、日本の精神医療のあり方を含めて様々な議論が巻き起こることになる。
だが、問題の本質は、日本が初めて経験する大規模な原発事故により、混乱が混乱を生み、筆舌に尽くしがたい悲劇が起きたことであろう。
2日目に全員の避難が完了した双葉厚生病院ですら、4名の重症患者が亡くなっているのだ。

それこそが原発事故なのだ、と僕は唇を噛み締めるしかない。
福島第一原発事故は直接の死者を出していないとする論調を目にするが、とんでもない、と思う。


廃墟と汚染土の集積場、雑草だらけの田畑が繰り返し現れる代行バスの車窓は、5年前の悲劇を、見る者の心に無言で突きつけてくる。

車窓から目を背けたくなった頃、不意に、窓外の雰囲気が一変したように感じた。
道端に建つ店舗の看板が色鮮やかになり、照明が灯されている。
駐車場に、ぎっしりと車がひしめいている。
どの車も錆びたりパンクしたりせず、ナンバープレートもきちんと付けられている。
店が営業しているのだ。

「小高川橋」と標識が掛けられた河川敷の広い川を渡りながら、久しぶりに時計に目をやると、竜田から小1時間が経過していた。

この旅の2ヶ月後に常磐線が再開通することになる、南相馬市の小高地区に入ったのである。

国道を行き交う車が増え、家族連れが乗る乗用車も見える。
車窓が息を吹き返した。


建物の密度が少しずつ増え、バスは国道6号線を離れて左に曲がり、跨線橋で常磐線を渡って原町の市街地に入っていく。

橋から見下ろす2本のレールは赤錆びたままだったが、路床を覆っていた雑草は綺麗に刈り取られ、ところどころに真新しいバラストが敷き詰められている。
後から思えば、2ヶ月後の再開通に備えていたのだろう。
人や車が溢れるホームセンターやドラッグストア、ファッションセンターなど、常ならばどうということはない平凡な街の光景が、この日は新鮮に感じられる。

僅かな信号待ちを除き、竜田駅からずっと走りっぱなしだったので、原ノ町駅前に到着したのは、予定より15分も早い11時05分頃であった。


「列車と代行バスの接続はしておりませんので予めご了承ください」

と、HPや停留所に注意書きが掲げられ、添乗員もそのようにアナウンスしていたが、次に乗る列車は12時02分発で、定刻に到着しても40分以上の待ち時間がある。
竜田駅と原ノ町駅の間に、それほどの遅れが生じる事態が起こり得るのだろうか。
列車の接続が保証されない鉄道代行バスとは、とても奇妙である。

それでも、客を降ろし終わった代行バスを改めて見直せば、文句を言うな、この区間に俺が走っていることが大切なのだ、と主張しているようにも思えてくる。


常磐線の北側の終着駅となった原ノ町駅には、平成25年の初夏に、仙台からの高速バスと暫定開業区間の電車を乗り継いで訪れたことがある 。
昼下がりの駅や街の佇まいは、その時と何ら変わりはなく、3年もの歳月が流れたのが嘘のようである。


かつては原ノ町止まりの特急列車も運転され、いわきと仙台の間の一大拠点だった駅の構内は、ひっそりと静まり返っている。

3年前は、孤立したこの区間で立ち往生した651系特急車両や415系普通車両が、薄汚れた姿で側線に雨風に晒されている有様に心が痛んだものだったが、その姿も消えていた。

平成28年3月に、トラックに積みこまれて撤去されたのである。




駅前の立ち食い蕎麦屋の暖簾をくぐると、店員の元気なおばさんが、


「いらっしゃい!御注文をどうぞ」

と大声を張り上げ、蕎麦をすする客の姿も多く、空腹が満たされたことも手伝って、ようやく人心地がついた。

原ノ町駅を定刻に発車した135Mは、相馬駅までの20.2kmを17分で走破する。
丘陵地帯を縫うトンネルや切り通しが多く、この区間が津波の影響を受けずに生き残ったことも頷ける。
ポンポンと跳ねるように雑木林や竹藪をかすめていく、701系電車の小気味よい走りっぷりも、3年前と変わりがなかった。


定刻12時19分に相馬に着き、駅前に出ると、亘理駅行きの代行バスが待ち受けていた。
こちらの運行本数は1日30往復と多く、係員氏が手慣れた様子で乗客を誘導する様子は、細々と運行されていた竜田-原ノ町間代行バスと対照的である。

HPや停留所には、

「※ご乗車の際は、予めJR線のきっぷをお買い求めください。無人駅等からご乗車のお客さまは、代行バス乗務員より乗車駅証明書をお渡ししますので着駅等でお支払いください。
※代行バス車内や途中の停留所では、IC乗車券類でのお支払いはできませんので予めご了承ください。
※着駅が無人駅の場合は、代行バス便に備えつけてある運賃箱に運賃を入れてください。つり銭は準備しておりませんので、予め小銭をご用意ください。
※列車と代行バスの乗換は、相馬駅及び亘理駅をご利用ください。
※各便とも台数・座席数に限りがあります。満席の場合は次の便までお持ちいただきますのでご了承ください。
※道路状況等により、代行バスが遅れる場合がございます。その場合、列車と代行バスの接続は実施しておりませんので、ご理解のほどお願い申し上げます」

と詳しく書かれている。

代行バスと列車との接続に関する但し書きも、このような内容ならば理解できる。
おそらく、竜田-原ノ町間代行バスも同様の意味でありながら、言葉足らずなのだろうと思う。


ここから先は、3年前に、仙台と相馬、原ノ町を結ぶ高速バスで往復した懐かしい区間である。
何回か代行バスとすれ違い、地域の貴重な足として活躍する健気な姿に、目頭が熱くなったものだった。

僕が乗車した相馬駅12時30分発の便は、東日本急行の高速バス仕様の車両で、運転席の料金箱にカバーが掛けられている。
このバスも、駅であらかじめ乗車券を買っておく必要がある。
柔らかく深々としたシートが心地良かった。

駒ヶ嶺駅に12時41分、新地駅に12時51分、坂元駅に13時01分、山下駅に13時10分、浜吉田駅に13時17分、終点の亘理駅には13時31分到着と、国道6号線を走りながらも、きちんと途中駅にも1つ1つ停車していく運行ダイヤである。
鉄道で27.6km、普通電車で50分程だった区間を1時間程度で結んでいるから、なかなか俊足である。


この区間は、それまでの山がちな車窓と異なり、右手の彼方に太平洋を望む平野がほとんどである。
左手に阿武隈の山々を眺めながらの単調な道行きであるが、目を見張らされるのは、

「ここから東日本大震災津波浸水区間」

と書かれた標識が現れることである。
いわゆる津波情報掲示板と呼ばれるもので、津波警報が発令したら、この区間から急いで逃げ出さなければならない。


標識が立っている場所は、必ずしも海に近い平地とは限らない。
それどころか、木々が生い茂る丘陵の頂上付近だったりする。
このあたりの国道6号線は海岸から1~2kmは離れているから、これほど内側まで津波が到達したのかと、その凄まじさに愕然とする。

この標識が現れると、国道は擂り鉢のような窪地に下っていく。
津波浸水区間は例外なく見通しの良い地形で、眩しい日差しに照りつけられた田畑や集落、なだらかな山並みが心を和ませてくれる。

次の丘を登り詰めれば、

「過去の津波浸水区間 ここまで」

という標識が現れる。


国道の沿線風景は平穏であっても、駅に寄るために横道に入れば、嫌でも震災の爪痕を目の当たりにすることになる。
最初の停車駅である駒ヶ嶺の駅舎は影も形もなく消え失せて、簡素な待合所が設けられているだけだった。
奥の石段の上に、駅舎があったのだろうか。

駅前で、JRバス東北が担当する上り便とすれ違った。


次の新地駅は、3年前に高速バスで立ち寄った記憶があった。
津波にすっかり流されてしまったのか、ここでも駅の痕跡はなく、新築の役場の前の道端に停留所が置かれている。
奥に設けられた専用の転回場で、仙台発相馬行きの福島交通バスと邂逅した。
3年前は、建ち並ぶプレハブの奥に海が垣間見え、津波の被害が甚大であったことが伺える地形だった。

新築の建物も増えているが、未だにプレハブもあちこちに残り、あっけらかんとした町の佇まいは3年前とあまり変化してないように思えた。
海が見えなくなったのは、堤防を造ったのであろうか。


こちらの代行バスは、途中の乗降客が少なくない。
災厄を乗り越えて、力強く生きている地元の方々の生活の匂いがする。

福島県と宮城県の県境を越え、坂元駅付近に差し掛かるあたりから、3年前になかった真新しい高架橋が姿を現した。
新幹線かと見紛うほど立派な高架駅が設けられ、

「常磐線相馬-浜吉田間 2016年12月末までに運転再開!」

と麗々しく大書された横断幕が張られている。


震災と原発事故で多大な被害を被った常磐線であるが、中でも夜ノ森と浪江の間では、平成27年の初頭まで被害調査すらままならない状況で、当初は復旧まで数十年を要すると言われていた。
それでも復旧工事が少しずつ進められ、国土交通省は、相馬-浜吉田間の一部区間で、線路を内陸に移設した上で、平成28年12月に運転を再開することを発表したのである。
こうして現地で実見すれば、復旧というよりも、全くの新線建設である。

浪江-小高間と竜田-富岡間についても、平成29年中に再開する予定である。
帰還困難区域を含む富岡-浪江間も、平成30年3月の再開通を目指すという。


山下駅の停留所は、国道の西側にある小高い丘の上の山元町役場に設けられている。
未だにプレハブの仮庁舎が残る役場からは、真っ青な太平洋と、緑の田園地帯を一筋に貫く白亜の高架が、眼下に一望できた。
彼方に広がる海原は平穏で、5年前に、牙を剥いて地上に襲いかかってきたことが信じ難いくらいに美しい。

常磐線の全線開通イコール被災地の完全な復興や原発事故の収束ではないのかも知れないけれど、終始、胸に重石を乗せられたようだった今回の旅で、初めて希望が湧いてくる光景であった。
僕らの国は、この災害を必ず乗り越えることができる、と確信する。
それほど、復旧されつつある常磐線の姿は力強く感じられたのだ。


代行バスの終点は亘理駅である。
一方、既に開通している鉄路の方は、1駅南寄りの浜吉田駅まで伸びている。


なぜ、代行バスの終点が浜吉田駅ではないのか訝しんでいたのだが、浜吉田の停留所は国道上に設けられており、おそらく、浜吉田駅に大型バスが進入する道路や敷地が確保できなかったものと推測される。


常磐自動車道の高架をくぐった代行バスは、「亘理駅」と書かれた標識に従って国道6号線に別れを告げた。

白壁の土蔵のような古めかしい造りの亘理駅でバスを降りると、真夏のような強い日差しに照りつけられて、思わず吐息が出た。
クーラーの効いた車内に戻りたくなる。

 

思い起こせば、原発事故の避難区域内は、どんよりとした曇り空に覆われていた。
原ノ町から、空は一気に晴れ渡ったのである。
まるで、この地域を走り抜けた僕の心境を反映しているかのような天候の変化が、とても不思議なものに思えた。

亘理駅の改札口をくぐると、旅を無事に終えられそうだとの安堵感が、胸中に込み上げてくる。
後は、仙台まで、鉄道の太く確実な流れに身を委ねれば良い。


浜吉田を13時43分に出て来た仙台行き普通列車245Mは、13時50分に亘理を発車した。
鉄路を刻む軽快な走行音を耳にすれば、この安定感に、バスなどはとても及ばないな、と思う。

作物が植えられた田畑で、農作業をする人の姿がある。
そのような当たり前の光景が、深く心に浸みた。
列車は定時で運転され、逢隈に13時54分に停車、次の岩沼には14時01分に着く。
岩沼の手前で、東北本線が左から寄り添い、日暮里を起点とした常磐線343.1kmの戸籍は、ここまでである。


そのまま東北本線に進入し、館腰、名取、南仙台、太子堂、長町と停車するうちに、乗客はどんどん増えてきて、車内はすっかり大都市近郊の雰囲気となる。
河口堰を見ながら阿武隈川を渡り、終点の仙台に到着したのは14時22分であった。


上野から362.9km、常磐線を走り抜けた7時間22分の旅は、薄暗い地平ホームの雑踏の中で終わりを告げた。
人混みに揉まれながら、日常に戻ってきたと思った。


僕は、仙台駅前を15時30分に発車する「さくら交通」の高速バス仙台-新宿線の乗車券を手配していた。

東北新幹線の2倍以上の所要時間を費やすけれども、仙台始発の列車はこの時間帯に運転されておらず、混雑する列車に途中で乗り込むのが何となく煩わしかった。

高速バスは横3列席の車両なので、東京まで快適な車中を過ごせるだろう。

 

以前の僕は、ツアー高速バスを運行する事業者を避けたものだったが、福島県白河に本社のある「さくら交通」は、東京と南相馬・相馬を結ぶ高速バスの運行を開始してから、その心意気を少しでも応援したくなったのも一因である。



記憶を探れば、仙台と東京の間は、新幹線や高速バスで何度も行き来している。

中でも印象深いのは、20年前に、仙台駅の在来線ホームを15時15分に発車する651系「スーパーひたち」54号に乗り通した時である。
上野着が日没後の19時36分で、新幹線に及ばないのは当たり前だけれども、4時間20分の快適な道行きだった。



その頃の面影は消え失せて、20年ぶりに全線を走破した常磐線は、ずたずたに切り刻まれたままである。

今回の旅では、被災地を襲った災害の深刻さを、改めて目の当たりにした。

相馬-亘理間の代行バスで目にした津波の被害よりも、竜田-原ノ町代行バスで接した原発事故の影響の方が深刻であるように感じられ、取り返しのつかないことになってしまったと思う。


それでも、常磐線が、地域の人々の貴重な足としての役割を懸命に果たし続けている様子と、粛々と進められている再建の槌音を、この日、僕は、確かに見聞きしたのである。


代行バスから電車に乗り継いだ亘理駅のホームで、ふと足元を見下ろした時のことが、今でも強く印象に残っている。
そこには、「スーパーひたち○号車乗車口」と書かれた案内表示が、消されることなく残っていたのである。


苦難を乗り越えて、復興に向けて歩み続けている被災地を、再び、特急列車が颯爽と走る日が来ることを、心から祈った。

 


 

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