みなさんこんにちは。前回からの続きです。
今年6月に限定で発売された「近鉄全線2日間フリーきっぷ」で巡った、近鉄沿線乗り鉄道中記をお送りしています。
佳境に入った旅の第2日目(2023年6月14日)。
念願だった「観光特急 あをによし」の指定を幸いに取ることが出来て「近鉄京都線」で京都へ向かっているところです。

さて、その京都駅に向かう「あをによし」の車窓から見かけた痕跡から、かつて近鉄と京阪との間で行われていた相互乗り入れについて。桃山御陵前〜近鉄丹波橋間にて。
「丹波橋駅(京都市伏見区)」を拠点にしていた両社の相互乗り入れ。開始は1945(昭和20)年12月、廃止は1968(昭和43)年12月の、23年間行われたものでした。
ここ幾回かさまざまな視点から取り上げていますが、今日は実際の運用はどうだったのか、などということについて少し掘り下げてまいります。グーグル地図より。

手元の古い時刻表から、異なる年代をピックアップすることにいたします。まずは「昭和34年7月号時刻表」日本国有鉄道監修、日本交通公社発行より。いまから64年前のもの。


この月最大のトピックというのは「紀勢本線全通」。急峻な山々が熊野灘に迫る難所「新鹿(あたしか、三重県熊野市)〜三木里(みきさと、同尾鷲市)間」が、難工事の末にようやく開業したのでした。
この両駅まで、東西方向から少しずつ延伸を続けていた「紀勢本線」が「亀山〜和歌山市間」で全通。紀伊半島を鉄道で一周出来るインパクトは相当なものだったようで、名古屋から紀勢本線経由で天王寺まで結ぶ列車が誕生するなと、白紙のダイヤ改正が行われました。

さて、本題です。
この当時「近鉄京都線」は前身の「奈良電気鉄道(奈良電)」という会社でした。北端は京阪、南端では近鉄と、三社間にわたる乗り入れがなされていたことがわかります。

奈良電が主体になる乗り入れ区間は「京阪三条〜丹波橋〜大和西大寺〜近鉄奈良間」。朝夕に準急、日中には各駅停車の設定でした。
ちなみに準急は、現在の京都線急行とだいたい同じ停車駅だったようです(時期により停車駅に差異があったそうですが)。

続いて、京阪電車のページを見てみます。

京阪が主体になる乗り入れ区間は「奈良電京都〜丹波橋〜中書島〜京阪宇治間」。
朝ラッシュ時から夕ラッシュ時まで、各駅停車がおよそ60分間隔ですが、20年ほど前まで、京阪本線では「三条〜中書島〜宇治間」を各駅停車で直通運転が終日行われていたのを思い出しました。その一部になるのでしょうか。

ところで、昭和34年7月現在の「京阪本線」たるや。特急が大阪・京都間を42分(急行でさえ58分)と、めっちゃ快速です。
まだ淀屋橋への地下線が開業していないので天満橋が終着駅ですが、これは速い(ちなみに淀屋橋まで京阪電車が延伸したのは4年後の1963(昭和38)年4月のこと)。
さらに下り(大阪方面)の終電が、三条23時50発→天満橋1時22分と、とんでもなく遅い時間だというのに驚きます。トラック輸送が発達する時代の前ですから、新聞輸送などを担っていたのかも知れません。隔世の感です。

引き続いて、9年後の「国鉄監修 交通公社の時刻表 昭和43(1968)年10月号」より。
サイズもひとまわり大きくなっていますが、表紙には、昼は特急、夜は寝台特急電車として活躍することになる「581系特急電車」の姿。
全国で電化が進み、電車特急網が一気に広げられたいわゆる「ヨン・サン・トウ」と呼ばれるこの白紙ダイヤ改正でデビューした名車です。

本題です。「奈良電気鉄道」は、南端で乗り入れる近鉄と、北端で乗り入れる京阪との間での激しい買収合戦を経て、1963(昭和38)年10月に「近鉄京都線」となっていました。

あれ?乗り入れ列車が見当たりません。
近鉄になったことで大和西大寺で接続する「橿原線」や「天理線」への直通が盛んに行われるダイヤになっていることは、わかるのですが…

京阪電車のページ。ありました。
先ほどの昭和34年7月と同じく、乗り入れ区間は「京都〜丹波橋〜中書島〜京阪宇治間(京神、は誤植ですね)」。やはり同じく「京阪三条〜丹波橋〜大和西大寺〜近鉄奈良間」の準急の設定も、朝夕ラッシュ時にあったようです。
奈良電から近鉄に変わり5年後のこの年末、ついに相互乗り入れは廃止されてしまいました。近鉄側での車両大型化、架線電圧の昇圧計画、あたらしい運転保安装置の導入、双方の列車本数増加によるダイヤの輻輳…などがその理由だったと言います。

その「列車本数増加」の表れというのは「京都線」にも及んだ、近鉄特急網の拡大でした。
今日に至る、京都を起点にした奈良や橿原神宮前、さらに伊勢方面への有料特急が多数便、整備されたこともあったのでしょう。

1964(昭和39)年10月、「東海道新幹線」の開業で近鉄特急は、新幹線と接続する京都駅や名古屋駅を起点に、奈良大和路・伊勢志摩方面へ観光客を誘致するようになりました。
いま乗車している「あをによし」もそうですが、伊勢志摩方面への「しまかぜ」などもそれに当たります。そうなると、奈良電が巨大な近鉄の一員になったことには、大きな意義があったのだろうなと感じます。余談でした。
ただ、もしいまでも近鉄と京阪との間で相互乗り入れが行われていたならば…


「京阪出町柳発近鉄奈良ゆき」や「近鉄京都発京阪中之島ゆき」なんて列車があったかも知れません。七条、五位堂検修車庫にて。

これは妄想の域ですが、実際に乗り入れしていた時代では、近鉄沿線から鴨川沿いの四条や三条まで乗り換えなしで結んでいたのですから…
大変、便利なものだったに違いありません。

最後に、度々触れている「奈良電気鉄道の近鉄と京阪との買収合戦」その仔細についてです。毎度おなじみ「フリー百科事典Wikipedia#奈良電気鉄道」より。
近畿日本鉄道の株式買収が公然化した1960年には、京阪電気鉄道と奈良電は合併に向けた検討を行うが、1961年9月には近畿日本鉄道約89万株(持ち株比率約47%)、京阪電気鉄道71万株(同37.4%)となり、大阪商工会議所会頭杉道助らによる共有案や、当時関西電力社長の太田垣士郎(おおたがき・しろう、1894-1964。元京阪神急行電鉄社長)による「丹波橋駅以南は近畿日本鉄道、丹波橋駅以北は京阪電気鉄道」という具体斡旋案が示されたが、近畿日本鉄道の当時社長であった佐伯勇(さえき・いさむ、1903-1989。「近鉄バファローズ」オーナーとしても知られる)は『レールは1本で、2つに分けることはできん』との強い買収方針は覆らず…

いやはや、すごい事態になっていたんですね。
さまざま調べてみて、近鉄と京阪の共有や、まさか分断されていたかも知れないだとは…目からウロコです。
次回に続きます。
今日はこんなところです。