泉岳寺で赤穂四十七士のお墓に線香を2本ずつ供える | ゲイムマンの日本縦断紀行 + ご当地ゲーム制作・配信

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ゲーセンでゲームをプレイし、1面クリア毎に増える“ゲーム路銀”を交通費にして日本縦断を目指す「ゲーセン紀行」でしたが、ゲーセン巡りよりも、普通の観光旅行の方が主になってしまいました。

現在このブログ上でゲーム『香川県からの脱出』を制作・配信中。

『脱出ゲーム 香川県からの脱出』に登場する、歴史上の人物ゆかりの場所を巡る旅。
泉岳寺の本堂を参拝し、いよいよ赤穂浪士・赤穂義士(泉岳寺では「赤穂義士」の呼び名で統一している)の墓所へ。

 

 

 泉岳寺('23.9.25)

 


赤穂義士墓地。
この入口の門は、もともと浅野家の鉄砲洲上屋敷(現在の聖路加国際病院の場所にありました)の裏門で、明治時代に移築されたそうです。

入口で、火のついたお線香が売られています。それを買ってお墓にお参りします。
「1本か2本ずつお供えして下さい」と言われ、1本ずつにするか2本ずつにするか迷いました。

 

まず、浅野内匠頭(たくみのかみ)長矩(ながのり)公のお墓に参拝。お殿様にはお線香2本でしょう。
四十七士が吉良上野介(こうずけのすけ)邸へ討ち入った後、このお墓に眠る主君に仇討ちの成功を報告し、吉良上野介の首級を供えたという、まさにその場所です。

続いて、内匠頭の正室、瑤泉院(ようぜんいん)のお墓へ。こちらにもお線香2本。

 


赤穂義士、四十七士のお墓が並ぶ区域へ。
覆屋があるのが大石内蔵助(くらのすけ)良雄(よしたか・よしお)のお墓。その奥に、浅野内匠頭の墓石も見えます。
この写真には写っていませんが、左手にもう1つ覆屋があり、そちらには大石主税(ちから)良金(よしかね)のお墓が、赤穂義士十三回忌供養碑とともにあります。
内蔵助・主税親子の墓にも、それぞれ2本ずつ線香をあげます。

 

主税の墓の隣には、高田馬場の決闘でも知られる、剣豪・堀部安兵衛の墓。ここにも線香2本。
ただし安兵衛の墓は、形も大きさもほかの義士の墓とほぼ同じ。義士たちに私が勝手に優劣をつけるのも申し訳ないので、以後全てのお墓に線香を2本ずつあげることにしました。足りなくなったらどうするかは、そのときまた考えましょう。

 

ここに並ぶ墓の中に、萱野三平という、四十七士に含まれていない人物の墓がありました。
討ち入りに加わることを強く望んでいたものの、実家に戻った際に父親から、萱野家が代々仕えてきた旗本の大島家に仕えるよう勧められました。
三平は忠義と孝行の板挟みとなり、悩んだ末に自害しました。

実家は現在の大阪府箕面市にあり、実際の墓もその近くにありますが、四十七士に比肩する忠義の士と考えられたためか、四十七士(のうち46人)が切腹してここに葬られた1703年(元禄16年)から64年後の1767年(明和4年)、萱野三平の供養墓が建てられました。
(もっとも、明治になるまで誰の墓かはわからず、なかなか仇討ちをしない大石内蔵助を罵倒して、仇討ち成功後にその事を後悔し、内蔵助の墓前で自刃した、村上喜剣という人の墓だと考えられていました。架空の人物とみられていますが、昭和に入ってこの近くに、新たに「烈士喜剣碑」が建てられました)

なお、萱野三平は、『仮名手本忠臣蔵』に登場する早野勘平のモデルですが、討ち入りの前に自害したこと以外に、共通点はほぼありません。

 

もう1基、後年に建てられた墓が、寺坂吉右衛門のもの。
寺坂は四十七士で唯一の足軽で、吉良邸への討ち入りには加わっていたものの、途中で行方不明となり、ほかの46人が切腹した後も生き延びました。
『仮名手本忠臣蔵』の寺岡平右衛門のモデル。祇園の一力茶屋で、仇討ちに加わりたいと大星由良助(大石内蔵助)に申し出ますが、由良助は敵の目を気にして、仇討ちなどやる気はないとばかりに放蕩三昧しているところだったので、いったん断られます。(その後、本心を明かした由良助から、同士に加わることを認められます)
なお、寺岡平右衛門の妹・おかるは、早野勘平の妻ですが、これももちろんフィクションです。

寺坂の墓は1868年(慶応4年)に建てられました。もちろん遺体が埋葬されていない供養墓で、本墓は寺坂が晩年を過ごした麻布の曹渓寺にあります。(寺坂の動向についてはさまざまな伝説があり、彼のものとされる墓が、ほかにも日本各地に存在します)
四十七士の墓石には、それぞれ戒名が刻まれていて、いずれも「刃」から始まっていますが、寺坂の戒名は「遂道退身信士」で、唯一「刃」がついていません。

 

今回の私の旅は、『脱出ゲーム 香川県からの脱出』に登場する、歴史上の人物ゆかりの場所を巡って、ゲームに登場させたことを事後報告する旅です。
ただ今日の予定では、そういう場所は次に訪れる1ヶ所だけ。泉岳寺はこのゲームと無関係で、たまたま近くにあったので参拝した……はずでしたが、ゲームの冒頭で、寺坂吉右衛門の名前を出していたことを、ここで思い出しました。




 

寺坂が討ち入りから途中離脱した理由も不明で、単に逃亡しただけという説もありますが、大石内蔵助から、討ち入りに至った真意について伝えるよう密命を受けたという説もあります。(実際に、寺坂が赤穂藩や浅野家の関係者のもとを訪れたことを示す資料もあるようです)

現実では、内蔵助が幕府に口上書を提出し、討ち入りの真意を伝えました(また、預かりとなった熊本藩・細川綱利の屋敷で厚遇されたので、綱利と直接話す機会も多かったと思われます)が、それが叶わないまま切腹か斬首に処せられる可能性もあり、またそれ以前に、討ち入りの際に内蔵助自身が戦死したり、討ち入り自体が失敗する危険性もありました。
そういうときのために、幕府や世の人々に対して、赤穂義士の真意を伝える人物は必要で、そのために寺坂を離脱させたというのは十分あり得る話です。

 

『香川県からの脱出』での銀河総裁のセリフは、この説に基づいて書きました。並べて書いた白虎隊の悲劇も、飯沼貞吉が生存したからこそ今日に伝わっていますし、ドナルド・ウッズの著書により、アパルトヘイト時代の南アフリカの黒人解放運動家スティーブ・ビコの名は世界に知られるようになりました。

 

池宮彰一郎氏の小説『最後の忠臣蔵』(発表当初のタイトルは『四十七人目の浪士』)は、寺坂を主人公とした作品で、NHKでドラマ化、角川で映画化されました。ここでも寺坂は大石内蔵助たちから、誤った噂が広まらないよう、討ち入りの実際の状況を浅野家関係者に伝えるようにという命を受けて、泉岳寺に向かう一行とは別行動をとることになります。

 

 

 

萱野、寺坂のほかには、間新六の遺体もここの墓にはありません。遺族が遺体を引き取ったそうです。

 

義士たちのお墓に、線香を2本ずつ供えたら、最後のお墓でちょうど使い切りました。
浅野内匠頭夫妻と四十七士と萱野三平で50人。線香1束がちょうど100本だったんですね。
墓地に並ぶ、お地蔵さんや、ほかの碑などに供えていたら足りていませんでした。

 

 

鉄道コム

 



泉岳寺

 

「泉岳寺・赤穂義士記念館と義士木像館と摩利支天とオッペケペー」に続く)

 


※これまでの「日本縦断紀行」はこちら。

 

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