【90's DOOR 027】1995.4.2 高校進学記念!スーパーホリデーパス一日旅① | たいちょ〜の心のつぶやき 第2章

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『縁は、連結する』鉄道など交通を中心に興味の赴くままに、日々呟き語るブログ。
※最近すっかり鉄道ルポタージュ化してますが、言いたいことを素直に言うという意味でブログタイトルは変えてません。

高校進学前後は、動き活発に。


阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件等不安要素は多分にあったが、それよりも高校進学により

行動範囲が広がるという楽しみの方も、また多分にあったことは紛れもない事実。

その進学を前にして、“試運転”の如く動きは活発になり始めていた。


1995年4月2日日曜日、国立駅

高校入学前最後の日曜日となったこの日、朝6時過ぎから国立駅に立った。

現在発売されている「休日まるごとパス」の前身であった「スーパーホリデーパス」を使用して

日帰りの首都圏周遊ミニトリップに出かけたのである。

それまで、近所に下宿していた大学生と「青春18きっぷ」で近郊を巡ったり、一人では前年春に

小淵沢まで足を伸ばして215系に乗ったりもしていたが…

このように、周遊プランを一人で組んだのは初めてのことであった。


まず最初に撮ったのは、土休日の朝のみ立川発で存在していた総武線直通の各停。

三鷹電車区配置車の限定運用のため、当時は201系か205系が運用。

武蔵野線から「むさしの号」が乗り入れてくる遥か前に、205系の中央快速線内運用があった。


もっともそれは、運用のタイミングが合った時のみの極めてレアな事象で…

この日も残念ながら?201系での運用であった。

しかし、当時はオレンジ一色だった中でのカナリア色は、やはりレアな存在ではあった。

それを撮影したのが、この時が初めてだったのである。


以来、早めの土曜登校などの折々に記録を残すことになり…

それは209系・E231系置き換え後も、後年設定された国分寺始発と共に孤高の記録となる。


なお後年、大月の事故に絡んで三鷹区から武蔵小金井区(当時)に201系を貸し出した関係から

103系が三鷹区の運用に入り、その関係で武蔵小金井・立川までの入線も実現している。

遭遇した記憶は無かったが、立川始発の運用にも入っていたようだ。

https://x.com/kokuden_103/status/1702659637206737070?s=20

ちなみに武蔵小金井行きには、なんだかのタイミングで武蔵小金井駅で遭遇した記憶はあるが。


さて、朝6時台にまず向かったのは八王子。

こんなことは、当時としては初めてのことであった。

なぜならば、基本的に山梨の祖父母の家に行くときに八王子を通過するのは、土曜のお昼以降か

日曜の夕方以降がごく基本的な行動パターンだったからである。

八高線への寄り道も、これまではそのセオリーに基づいて動いていたのであった。


その後、仕事するようになって八王子駅に朝6時台に降りることも増えていくが…

特に2001年頃は仕事が激務過ぎて、写真を撮ることなぞしている余裕がなかったと思われる。


現在でも八王子駅は石油貨物など貨物輸送の拠点の一つであるが、当時は無配置化されたものの

八王子機関区の設備があったし、旧客貨車区の線路群や建屋もまだ南口側に多数存在していた。

また当時はEH200形登場前でもあり、機関車の付替や入換作業が活発に行われていた。

特に朝は活発だったようで、見慣れない貨車と共に物珍しさにシャッターを押したらしい。


横浜線は、205系がまだまだ新車らしいフレッシュな輝きを放っていた頃。

ただ、当時は沿線には馴染みが少なく、乗る機会もほとんどない路線でもあった。


八王子からは八高線に乗り、ひたすらに北上していく。

キハ30系もキハ38も、みんながみんなとにかく元気だった時代。

そんな八高線も前回乗車から約9ヶ月、高麗川までの架線工事も相当進捗してきていた。

そして、高麗川以北にもこの時に初めて乗車した。

完乗は約半年後に譲ることとなるが、この時は寄居までの乗車にとどめられている。

これは、山梨に住んでいた母が、高崎線の吹上に住んでいた祖父方の親戚の家に行く際に


寄居経由で行った


という証言を基にしている。

母の幼少期は、湘南新宿ラインはおろか埼京線、武蔵野線すら無く…

上野に出るのも非常に不便だったため、寄居から秩父鉄道を経由して向かったそうなのだ。

そんなわけで、この日の旅はまず、かつて母が辿ったルートを辿った。


そんな寄居では、ここで単機で停車していたDD51 811号機を撮影していた。

まだ当時は八高線にも貨物列車が多数走っていて、それに関わる単機回送の設定もあった。

その貨物列車の先頭に立っていたのは、高崎機関区配置のDD51であった。

当時は頻繁に見かけていたからあまり撮ってなかったが、今思えば勿体無いことをした。

まぁ、翌年の電化前に高尾臨は果敢に撮影することができているけど。


そしてこの時、東武東上線に目を向けているが。

なんと小川町〜寄居間の区間運転は、8000系ではなく10030系!

なんと現状は、古い型式に逆置き換えされていることになる。


そして、いよいよ秩父鉄道へ。


旧JR東日本の165系だった3000系、101系だった1000系が主力だった時代。


それに混じって奮闘していたのが、元東急電鉄7000系の2000系。

この編成で寄居→熊谷間を走破したが、それはこの1回きりのことだった。


にしても、最初の201系カナリア色の写真にせよ折々にそうだが、まだカメラが使いこなせずに

ピンぼけを起こしてしまっている記録がちらほら存在している。

記録内容的に、つくづく惜しいことしているな、と思わせるものも。

そのあたりは今もそんなに上達しちゃいないのだが、ね。


そんな1995年の秩父鉄道の記録。

この日から17年後には、1000系の置き換えも完了し面目を一新している。

個々のクオリティはひとまず置いといて、当時の空気感を感じる良い旅を続けていた。