出張、ご近所様・4 | 勇気づけの嵐c6217139-08

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勇気づけの嵐

 

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ベストセラー書「嫌われる勇気」で大ブレークを果たしたアドラー心理学では、困難を克服する活力を与える「勇気づけ」をとても大切なものと考えています。


本ブログは、夫婦関係、子育て等の困難から救われた自らの経験を活かす為、幸福を目指すこの心理学の案内役となり、各種ワークショップやカウンセリング等への橋渡しができればとの思いでスタートしました。

また、勇気づいた人の象徴的存在である嵐の活動、旅や趣味の世界等についても合わせて綴っていますので、同好の方にお楽しみ頂けたらと思います。

巻き起こせ!

勇気づけの嵐
 

 

<重要なお知らせ>

 

【記事再掲載のご案内】

 

本ブログに移行して来る前の記事も改めて再掲載して行く事にしました。

 

こちらの記事一覧に加わって行く事になります。

 

2017年6月1日の記事から

からボチボチやってます。

 

今回、以下の記事を取り込みました。

 

 

<日替り記事>

 

 

【ご近所様】

 

毎日頑張ってる、ぼっち系アオサギです。

 

ところでサギの大量繁殖が問題視されている地域があります。

 

街の熊さんもそうですが、人間本位で宅地開発したり温暖化を引き起こした、そのつけがまわって来ている事を心に留め、マタギ等に仕留めてもらえば良い等との思い上がった単細胞的考えに陥らない様にして欲しいです。

 

熊さんに対しては、放置柿を収穫し、餌場に置いておく等、工夫で乗り切るしかないですね。

 

人間だけの地球じゃねーよ。

 

と言うのが私の感想です。

 

 

【愛聴習慣】

 

ロック史上に燦然と輝くライヴアルバムの金字塔。

 

名曲揃いで、ホーン・アレンジも見事です。

 

ザ・バンド「ステージ・ファイト」をどうぞ。

 

 

<シリーズ・勇気づけの暮らし・84

 

出張、ご近所様・4。

 

最近になって「どうする・ドラマ」の影響か、今まであまり気にしてなかった、かつてのご近所様がネット等によく登場しているので、ここでも取り上げて見ましょう。

 

結構転居の多い暮らしでして、会社へのお役立ちの為、大田区の北千束や石川台、横浜の磯子、三島広小路なんかに住みついていた事があり、家康の影響が広範囲だったので、これらのご近所様にもゆかりの地がありました。

 

でも、引っ越しが趣味と言う訳ではないですが、当地でも結構あちこちウロウロしています。

 

先ず、我が出生地周辺は、大河の初回で早速、大高城どうする地点として登場していました。

 

ここでは小学生の頃、上級生のボス宅に集合して、山頂までスタンド・バイ・ミーを楽しんでいます。

 

ところがこの帰路、乾かしていたワラを散らかして遊んでいたら、大学生のお兄ちゃんに捕まってしまい、畑の中で「いくさ」ならぬ相撲大会が始まりました。

 

真剣モードだったので結構ハラハラしたんですが、自分にはコートを掛け見学させてくれました。

 

撮り鉄原風景や初恋デート等、いろいろ思い出深い地域です。

 

中学3年からは、徳川園すぐ裏の国鉄アパートで暮らしています。

 

毎日国鉄大曽根駅を見渡していた、ナイスな住まいでしたね。

 

そして、かの家康の伊賀越えで、D51撮影地として有名だった加太峠なんかを越えた後、海へと漕ぎ出した白子浜、鼓ケ浦海岸は、母校のご近所様でした。

 

1年間通学する前は、ここの学生寮で反ボッチ生活をしていたのです。

 

亀山等も近く、SLの本場なので撮影や写真部活を楽しめましたし、鈴鹿おろしに乗ったサーキットのレース音もよく耳にしました。

 

尾張国出身者に紀伊国出身者を加えたグループができ、悪さも沢山覚えましたね。

 

就職後に転居した住居は、優秀ながらある意味家康の反面教師でもあった祖父の松平清康が、勢い余って尾張攻めに向かった際、流れた噂による誤解から家臣に討たれた、守山城のご近所様となっています。

 

いわゆる「守山崩れ」ですね。

 

また、後述する小幡城も近いです。

 

正室を娶ってからは、ブルースのメッカ今池も近い大久手の後、そのワイフの仕事の都合で日進市の和合ゴルフ場ご近所様へ。

 

ここから長久手古戦場は少し遠いですが、身近なのが「三河中入り」で知られる岩崎城です。

 

何しろ、我らがペットさん達の心強い味方、牧先生の極・ご近所様でもありますから。

 

本能寺の変後、天下取りを目指し睨み合う秀吉・家康両軍の膠着状態を打ち破る為、家康のいる小牧山城の脇をこっそりすり抜け、三河に向かおうとした秀吉方・池田軍の進軍を、岩崎城主の弟、16才の丹羽氏重が、討ち死にしつつも食い止めた場所として知られています。

 

これら動きの情報を察知していた家康でしたが、小幡城に着陣し、岩崎城戦のさなかに長久手・日進の辺りで休息していた羽柴秀次勢を、榊原康政の先発隊が夜明けの奇襲によって潰滅させます。

 

岩崎で家康本隊の出陣を知った池田・森隊は、引き返すのですが、赤い井伊直政勢によって長久手で討ち取られます。

 

その後、小牧・長久手の戦いがどうなるかは、ドラマでもご覧頂けましたね。  

 

我がお家は、先述の丹羽氏重の居城がありながら、ニュース渦中の町長も居る東郷町へ一旦移ったのち、名古屋に舞い戻って来ました。

 

それで現在のご近所様ではどうかと調べて見たところ、何と植田城がありました。

 

五代城主の横地秀政は、織田信長に仕え、姉川合戦で戦死、六代秀房は、小牧・長久手合戦関連の蟹江合戦で討死、七代目は弟・秀行で、この人は小牧・長久手合戦で、横地家の代表として、小牧山に参陣しています。

 

その後、つてを頼って信濃から植田城にやって来ていた室賀久太夫は、すぐお隣の植田八幡社の修理造営をし、後に尾張徳川家に仕官、名古屋城築城の際には親衛隊長として、また大坂夏の陣の際には御使番の筆頭となりました。

 

更に大坂の陣の後、大御所となった家康が駿河に戻る時にこの地を通り、郷士となった八代目・秀住は家康に拝謁を許され、その際に馬のわらじを献上しました。

 

家康は大いに喜び、横地氏代々の忠勤を称賛した上、植田村の農民も温情を受けた為、植田八幡社に初代・秀綱と共に秀住が合祀されました。

 

さて、それにしても、ドラマとしては楽しめても、そこら中のご近所様が事件現場や戦場だらけだった事、また、お偉方の間では、人質差出しによる親子離別や戦略結婚が、極普通の事として行われたいた事に、改めてぞっとしてしまいます。

 

セクハラやパワハラも勿論ペケですが。

 

世の為、人の為の貢献が、この様な悲惨な形でなくても良い今の世の中に、改めて感謝したいです。

 

以下に登場する「買収の旅」シリーズのお楽しみも、第二次大戦当時は極めて深刻な状況だったのですからね。

 

残念ながらどこかの国々では、コマッタさん達がまだまだお騒がせしてますが、平和な世の中、アドラー心理学等による予防策が何より重要と実感した次第でごぜーます。

 

(続く)

 

 

<買収の旅・42>

 

南武鉄道買収車で唯一、自分で動画が撮れた車両があります。

 

各社、旅客車に混じって、多くの貨車も買収の対象にされたのですが、最近まで、工事用として奇跡的に生き残っていた2両が、福井鉄道にいました。

 

元々浅野セメントの所有車で、原料石灰石を青梅鉄道から川崎の工場へ直行輸送する為、南武鉄道の車籍を有していました。

 

側開式石炭車と同じ構造で、内部は山形になっており、側面下方の扉を開けると、上から積み込んだ、粒体、粉体、砂利等が流れ落ちる仕組みとなっていて、ホッパ車と呼ばれるものです。

 

2両残っていて、車籍と型式の変遷は

 

武蔵野(現西武)ヲサフ1、2→南武ヲサフ1、2(移籍)→国鉄セサフ1、2(買収・改番)→ホサフ1、2(改番)→福井ホサフ1、2(譲渡)→ホサ1、2(改造)

 

福井鉄道に移ってから、屋根付きの車掌室部分を撤去し、ホサになってます。

 

因みにホはホッパ車、サは20~24t積みを表します。

 

ラストラン・イベントで、機関車と電動貨車に挟まれての走行を、動画キャッチしました。

 

尚、先頭の機関車は、元々名鉄車籍・東洋紡績所有車で東洋紡犬山工場や名鉄犬山線、広見線、須ヶ口駅等で働いていた、名鉄デキ111→遠鉄ED213→福井デキ3です。

 

嬉しい事に、ホサ1の方は、三岐鉄道丹生川駅隣接の貨物鉄道博物館に保存されています。

 

鶴見線同様、17m車の撮り鉄は間に合いませんでしたが、南武線沿線には工場が多く、横浜磯子の応援勤務時代に、別工場に行っていた同僚の居る寮を訪ねて、黄色い101系を利用しています。

 

(続く) 

 

 

<鉄道動画集>

 

YOU TUBE「スヌーピー1」からご覧下さい。