RedWing-227系 / 高須踏切周辺の郷土史
ー鉄道から見る郷土史シリーズー
重たい空模様のRedWing-227系です。
庚午と高須の町境線となる宮島線と山陽本線ですが、高須駅は所在地が庚午中町となります。
しかも広島方面乗り場となる上りホームは庚午中一丁目、宮島口方面への下りホームは庚午中二丁目です。
高須踏切の道路を挟んで一丁目と二丁目に分かれているからなんですが、私のブログで1番多いこの構図での写真は、下りホームまたは下りホーム周辺での写真となります。
1つ前の記事秋祭りの御輿 / 庚午神社と旭山神社 で、庚午の町と神社について少し語ったので、補足的に今日は語ってみる内容です。
過去の記事でもいろんなテーマで語っていますが、山陽本線も宮島線も瀬戸内海を埋め立てて敷設されています。
反対側、高須側の線路沿いの道路はかつて海岸線で、砂浜だったと伝わりますが、更に昔へ遡ると西国街道が海岸線を通る湾岸道路でした。
西国街道は西広島駅前の道路がそれで、古江踏切までは山沿いを這って通っていますが、この辺りの高須の町は遠浅の入江が埋め立てられて、新しく街道町となりました。
山陽本線は、広島駅~西広島駅は陸地に建設されましたが、西広島駅を発車すると西国街道と交差する踏切までが陸地で、そこを過ぎると草津八幡宮麓のM字カーブまで、干拓地と海上に敷設されています。
山陽鉄道により山陽本線の建設計画が申請認可されたのが、1888(明治21)年1月4日なので、広島飢饉が発生して干拓事業が始まった1869(明治2)年には、まだ鉄道計画は無かったことになります。
ただ、鉄道計画が立てられていきなり免許申請が行われる訳ではなく、現代でもそうであるように事前調査などが実施されるので、干拓事業の際には既に山陽本線が敷設される予定なことが、盛り込まれての計画だったと推測されます。
尚、干拓工事は竣工した1870(明治3)年の干支を採用して、地名を庚午新開と命名され現在の地名へと繋がります。
ちなみに高須側から地続きでいきなり広大な土地が誕生した訳ではなく、古江側からは水路(運河)が伸びており、山陽本線と宮島線の間は未整備土地として、長い間 放置土地となっていました。
この辺りの山陽本線は資材の一部を海から直接荷揚げして建設工事が行われており、恐らくかなり広い運河があったと思われ、私が子どもの頃には古江踏切の近くに、かつての遺構のように沼地がありました。
1897(明治30)年9月25日に広島~徳山間が完成していますが、1922(大正11)年8月22日に宮島線 己斐(西広島)~ 草津間が開業すると、狭間土地は簡易埋め立てされて利用計画の無いまま沼地として放置でした。
宮島線は当初から複線電化開業でしたが、山陽本線は1925(大正14)年2月10日に己斐(西広島)~五日市間が複線化、1964(昭和39)年7月25日に横川駅~小郡間が電化され山陽本線全線電化完成となります。
広島では横川駅までの電化は可部線の関係もあって比較的早期に電化されましたが、全線の内で横川以西の完成に時間を要したのは、沼地へ変電所を建設するにあたり、地盤降下など変動対策の基礎工事技術がまだ発展途上だったことが、理由の1つとなっています。
また、山陽本線の宮島線側には石垣の堤防が現存しており、その殆どは地下に埋没してしまっていますが、民家との境界線として一部が露出していたり、古江新開踏切~草津踏切の間では水路として活用されており、誰もが目にできる状態となっています。
尚、町を外へ出ますが宮島線の井口駅~修大協創中高前駅間は複々線ながら、山陽本線と宮島線に高低差があるため、宮島街道からその石垣の堤防を見ることができます。
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