今回ご紹介しますこの0系新幹線電車と言いますと、昭和39年の東海道新幹線開業前から存在しておりまして、開業1年前の昭和38年に最初の編成でありますH1編成(現在は京都鉄道博物館に保存)が導入されて以来、100系新幹線電車が誕生しました後の昭和61年に最後の車両が製造されるまでの23年間、製造されました累計は38次・約3200両に及びまして、東海道・山陽新幹線の主力として長らくの間活躍しておりまして、0系新幹線電車から0系新幹線電車に置き換えられると言った姿さえも見られた新幹線電車でありました。
そう言った事もありまして、その間には、窓枠や車内の変更など若干の変更を施すなどしまして、側面のスタイルは若干変わってきた部分も見られておりましたが、先頭車に関しましては「団子鼻」のスタイルは変わらずに運行されてきておりました。
そんな0系新幹線電車は、1次車から13次車まではサボ式の行先となっておりまして、方向幕は装備されておりませんでしたが、昭和50年の博多開業前より方向幕を装備する事になりまして、博多開業準備車として導入されました昭和48年に導入されました14次車以降、方向幕が装備されるに至っておりました。
方向幕のタイプも、JR東海所有となりました車両は途中で新たな幕に変更されておりますので、最終的に国鉄時代からのタイプで残りましたのはJR西日本所有車のみと言う事にもなっておりましたが、この中には以下画像のように速達タイプでの行先も見られていたほどでもありまして、通常タイプとは違った姿も見られていたのが特徴でもあったようであります。
(7・8番、速達便(「Wひかり」向け幕)~私所蔵
(27番、「博多南」)
このR61編成に関しましては、編成自体昭和58年・60年製のいわゆる導入末期の車両で構成されておりまして、これら編成の一部(2・4・5号車)は後述の装備もありましてJR化後に「ウエストひかり」として改造された編成となっておりまして、いずれも導入当初の2000番台から7000番台に改造された編成でありました。ちなみに他の2編成(R67・R68編成)に関しましても、製造は昭和58~60年製の車両で構成されておりまして、こちらも導入末期の車両であったのが特徴でありました。
尚、方向幕は「ウエストひかり」として使用された車両は、冒頭ご紹介しました幕の形であったようでありましたが、その後R61編成に変わった際に追加で装てんされていたようであります(画像2の「博多南」の行先は実際R61編成より撮影)。やはり、「こだま」メインで運行されるとなりますとそうなってしまう所もわからなくはない所でしょうか。
R61編成の車内であります。「ウエストひかり」として改造されました編成、そしてその後他の「ひかり」・「こだま」として使用されておりました編成と同様、座席は「2+2」のシートとなっておりまして、かつての「3+2」時代と比べますとシート自体からもオリジナル感もなく変わっている事がお分かりいただけるのではないかと思います。
また、他の2編成と同様、画像右側にもありますようにLEDの案内表示機が全車に付いておりまして、しかも文字ニュースも流されていたのが特徴でありましたが、この表示機は元々が先に廃車となっておりました100系新幹線電車のものでありまして、後に登場していた車両のものを使用するのは、何となく複雑な感じであったのが印象的でもありました。
画像は、ロール式の座席表示器であります。0系新幹線電車の座席表示は当初のタイプはサボ式、その後は字光式、そして画像のロール式と変化が生じておりましたが、座席表示のわかりやすさで見ますとこちらの方が一番ではないかと思います。それでも私自身は字光式の方がお気に入りではありましたが・・・。
この編成は、他の編成とともに運行最終年の平成20年に上の画像の白地に青ラインのオリジナル塗装に戻されましたが、それまでは以下の「フレッシュグリーン塗装」となっておりました。やはり、オリジナルとしますと印象が大きく変わるとも思いますが、当時の山陽新幹線を思いますとわからなくはない塗装ではなかったでしょうか。
そして平成20年12月、0系は臨時「ひかり」として運行されましたが、12月14日の最終運行を務めましたのがそのR61編成でありました。残念ながら、私自身はその姿を見る事はありませんでしたが、当時のテレビ放送や、以下画像にありますように福岡県那珂川町(現・那珂川市)の博多総合車両所での運行終了翌日の姿は見ていて長く走ってきていた事を伺わせる姿だったようにも思います。ちなみに、この画像を見ますと両端には100系新幹線電車・300系新幹線電車の姿もありますが、これら車両も全廃となっているだけに、まさに貴重な一枚かなと思ってならない所でもあります。
その後、R61編成の1号車(21-7008)に関しましては、製造先でもありました兵庫県神戸市の川崎重工兵庫工場に保存されておりまして、かつての姿を残しております。尚、他の5両に関しましては博多総合車両所におきまして残念ながら解体されております。