ひろば 研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

JR西日本芸備線について再構築協議会の設置が要請されるか

2023年09月10日 00時00分00秒 | 社会・経済

 昨日(2023年9月9日)付で錦川鉄道錦川清流線の存廃論議を扱いましたが、実は芸備線の話題も一緒に取り上げるつもりでした。錦川鉄道錦川清流線の話が長くなったので、別々にすることとしました。

 このブログにおいて何度かJR西日本芸備線について記してきました。2018年度における芸備線の区間別の平均通過人員が、備中神代駅〜東城駅で73、東城駅〜備後落合駅で9、備後落合駅〜三次駅で196、三次駅〜狩留家駅で765、狩留家駅〜広島駅で8,052となっており、東城駅〜備後落合駅の9というのは、鉄道どころか路線バスでも存在意義を失っているとしか言えません。備中神代駅〜東城駅でも73で、やはり鉄道路線を維持する意味がないものとしか言えないでしょうし、路線バスでもどうなのかと疑いたくなるでしょう。これではJR西日本が芸備線を廃線にしたくなるのも理解できます。

 1980年代の国鉄改革では路線毎に平均通過人員を出しており、区間別にはなっていなかったので、芸備線全体としての平均通過人員で判断されました。実は当時でも芸備線は特定地方交通線に指定される可能性が高かったのですが、除外要件に該当したために鉄道路線が存続したのです。それは、狩留家駅〜広島駅の平均通過人員が高かったことによるのでしょう(また、他の区間でも当時は現在より高い数値が出ていたはずです)。やはり、芸備線が2010年代後半になって存廃論議の対象になったことは当然であると言えます。

 さて、2023年9月8日19時34分付で、日本経済新聞社のサイトに「JR西日本社長、芸備線再構築協議会『10月にも設置要請』」という記事(https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUF087EE0Y3A900C2000000/)が掲載されており、呼んだ瞬間に「やはり」と思いました。以前から、今年改正された「地域公共交通の活性化及び再生に関する法律」(以下、地方公共交通法)第29条の3以下(10月1日施行)に規定されている再構築協議会の第1号になるという噂が流れていたからです。

 9月8日、JR西日本の社長が記者会見において芸備線に関する再構築協議会の設置を国土交通大臣に要請する意向を明らかにしました。法文でも「要請」であって「申請」となっているのは、「申請」であれば国土交通大臣がYesかNoかを答える義務を負うのですが、「要請」であれば国土交通大臣がそのような義務を負うことがないからであると考えられます。少なくとも、「要請」のほうが、国土交通大臣の裁量の幅が広くなります。もっとも、芸備線については、地方公共交通法第29条の3第3項各号に掲げられる要件(「大量輸送機関としての鉄道の特性を生かした地域旅客運送サービスの持続可能な提供が困難であること」および「当該区間に係る交通手段再構築(中略)を実施するためには関係者相互間の連携と協働の促進が特に必要であること」)に該当するのが明らかであると言えるので、再構築協議会が組織される蓋然性は高いでしょう。

 ここまで記してこなかったのですが、芸備線の全区間が再構築協議会の対象になる訳ではありません。対象となるのは備中神代駅〜東城駅および東城駅〜備後落合駅です。備後落合駅〜三次駅が対象にならなかったのは、木次線および福塩線の存在があるからかもしれませんが、備中神代駅〜東城駅および東城駅〜備後落合駅の区間の平均通過人員が低すぎて路線バスに転換してもどうなのかというところからでしょう。ただ、とりあえずという印象も受けます。中長期的には備後落合駅〜三次駅についても再構築協議会の設置が求められるのではないかと予想できます。備後落合駅で接続する木次線、塩町駅で接続する福塩線の府中駅~塩町駅の平均通過人員が低いからです。よくぞここまで放置してきたと感心せざるをえません。

 ブログで鉄道路線の存廃論議を扱い続けていると、或る思いが湧き上がってきます。

 正直なところ、鉄道維持論者などによる「少子高齢化が進む今後の日本には鉄道路線の維持が必要である」という趣旨の論調には、何年も前から疑問を感じています。一見して矛盾した主張であるからです。意味不明な意見であると思われる方も少なくないことでしょう。

 よく、公共交通機関の維持は地域の維持のために必要であるとも言われていますし、高齢化という点だけを取るならばその通りであるとも考えられます。しかし、少子化という点を取るとたちまち「必要論には矛盾や欠陥があるのではないか?」と思われるのです。最近、運転士不足でバスや鉄道の減便というニュースを耳にします。当然のことであり、「鉄道維持論者にはこんな簡単なことも理解できないのか」という疑念が浮かび上がっても不思議ではありません。最近出版された、福井義高『鉄道ほとんど不要論』(中央経済社)は、地域交通について非常に明快です。同書の第4章は「地域交通の主役は『鉄道やバス』ではなく『自家用車』でよい!」と題されています。このブログで福井教授の『鉄道は生き残れるか  「鉄道復権」の幻想』(中央経済社、2012年)を取り上げましたが、福井教授の立場は一貫しており、しかも約11年が経過して一層強化されたと評価することもできます。

 以上の点からしても、「交通権」という考え方には賛同できません(法的権利として成立しえないことについては、私の「交通政策基本法の制定過程と『交通権』—交通法研究序説」(大東法学68号、2017年3月、315頁以下)をお読みください)。かつて主張された「アクセス権」と同様に、あまりにも一方的であって相手方が有する権利を無視するものであるからです。

 「アクセス権」の場合は、相手方の表現の自由、たとえば新聞社にとっての編集の自由を無視するものです。この点について、最二小判昭和62年4月24日民集41巻3号490頁(サンケイ新聞事件)は、次のように述べています(一部の数字を算用数字に改めました。また、太字は引用者によるものです)。

 ・「憲法21条等のいわゆる自由権的基本権の保障規定は、国又は地方公共団体の統治行動に対して基本的な個人の自由と平等を保障することを目的としたものであつて、私人相互の関係については、たとえ相互の力関係の相違から一方が他方に優越し事実上後者が前者の意思に服従せざるをえないようなときであつても、適用ないし類推適用されるものでない」(最大判昭和48年12月12日民集27巻11号1536頁、最三小判昭和49年7月19日民集28巻5号790頁)。「その趣旨とするところに徴すると、私人間において、当事者の一方が情報の収集、管理、処理につき強い影響力をもつ日刊新聞紙を全国的に発行・発売する者である場合でも、憲法21条の規定から直接に、所論のような反論文掲載の請求権が他方の当事者に生ずるものでないことは明らかというべきである」。

 ・「アクセス権」(判決では「反論文掲載請求権」)を「認める法の明文の規定は存在しない」。民法第723条に基づく、裁判所による「名誉回復処分又は差止の請求権も、単に表現行為が名誉侵害を来しているというだけでは足りず、人格権としての名誉の毀損による不法行為の成立を前提としてはじめて認められるものであつて、この前提なくして条理又は人格権に基づき所論のような反論文掲載請求権を認めることは到底できないものというべきである。さらに、所論のような反論文掲載請求権は、相手方に対して自己の請求する一定の作為を求めるものであつて、単なる不作為を求めるものではなく、不作為請求を実効あらしめるために必要な限度での作為請求の範囲をも超えるものであり、民法723条により名誉回復処分又は差止の請求権の認められる場合があることをもつて、所論のような反論文掲載請求権を認めるべき実定法上の根拠とすることはできない。所論にいう『人格の同一性』も、法の明文の規定をまつまでもなく当然に所論のような反論文掲載請求権が認められるような法的利益であるとは到底解されない」。

 ・「新聞の記事に取り上げられた者が、その記事の掲載によつて名誉毀損の不法行為が成立するかどうかとは無関係に、自己が記事に取上げられたというだけの理由によつて、新聞を発行・販売する者に対し、当該記事に対する自己の反論文を無修正で、しかも無料で掲載することを求めることができるものとするいわゆる反論権の制度は、記事により自己の名誉を傷つけられあるいはそのプライバシーに属する事項等について誤つた報道をされたとする者にとつては、機を失せず、同じ新聞紙上に自己の反論文の掲載を受けることができ、これによつて原記事に対する自己の主張を読者に訴える途が開かれることになるのであつて、かかる制度により名誉あるいはプライバシーの保護に資するものがあることも否定し難いところである。しかしながら、この制度が認められるときは、新聞を発行・販売する者にとつては、原記事が正しく、反論文は誤りであると確信している場合でも、あるいは反論文の内容がその編集方針によれば掲載すべきでないものであつても、その掲載を強制されることになり、また、そのために本来ならば他に利用できたはずの紙面を割かなければならなくなる等の負担を強いられるのであつて、これらの負担が、批判的記事、ことに公的事項に関する批判的記事の掲載をちゆうちよさせ、憲法の保障する表現の自由を間接的に侵す危険につながるおそれも多分に存するのである。このように、反論権の制度は、民主主義社会において極めて重要な意味をもつ新聞等の表現の自由(中略)に対し重大な影響を及ぼすものであつて、たとえ被上告人の発行するサンケイ新聞などの日刊全国紙による情報の提供が一般国民に対し強い影響力をもち、その記事が特定の者の名誉ないしプライバシーに重大な影響を及ぼすことがあるとしても、不法行為が成立する場合にその者の保護を図ることは別論として、反論権の制度について具体的な成文法がないのに、反論権を認めるに等しい上告人主張のような反論文掲載請求権をたやすく認めることはできないものといわなければならない。なお、放送法4条は訂正放送の制度を設けているが、放送事業者は、限られた電波の使用の免許を受けた者であつて、公的な性格を有するものであり(同法44条3項ないし5項、51条等参照)、その訂正放送は、放送により権利の侵害があつたこと及び放送された事項が真実でないことが判明した場合に限られるのであり、また、放送事業者が同等の放送設備により相当の方法で訂正又は取消の放送をすべきものとしているにすぎないなど、その要件、内容等において、いわゆる反論権の制度ないし上告人主張の反論文掲載請求権とは著しく異なるものであつて、同法4条の規定も、所論のような反論文掲載請求権が認められる根拠とすることはできない。」

 以上の判旨は妥当なものと理解すべきです。仮に「アクセス権」あるいは「反論文掲載請求権」が認められるならば、相手方が反論文を掲載しなかった場合に公権力を介入させてでも反論文の掲載を無償で行わせることになってしまいます。公権力の介入が無条件に悪いというものではないのですが、正当な理由が求められますし、程度の問題などもある訳です。

 趣旨などは少々異なりますが、実は、「交通権」についても「アクセス権」と同様のことが言えます。「交通権」が法的権利として認められるのであれば、常に、鉄道路線やバス路線などを経営する企業の経営権、営業の自由などと衝突することとなります。その際に「交通権」が経営権や営業の自由などよりも優先すべき理由が問われることとなります。もっとも、こちらの場合、公権力の介入が認められる余地は「アクセス権」と比較して格段に広いのですが(運賃変更についての認可制度を想起してください)、それでも企業が倒産に追い詰められるまでに経営権や営業の自由を侵害してもよいとまでは言えないでしょう。 

 この点については、まだまだ考えなければならない部分がありますので、機会を改めて記すこととします。


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