「はつかり」「ひばり」「とき」・・といった上野発着の特急電車にあって、本数はあっても地味な存在でしかなかったのが「ひたち」。常磐線ではスターだったけど、これといった "華" は無かったように思います。
昭和60年3月の改正まで「ひたち」は仙台運転所(仙セン)の所管でしたが、「ひたち」は専用の編成が仕立てられていまして、同じ仙台を塒とする「ひばり」と共通運用は組まれなかったと記憶しています。唯一、クロ481入りの9両編成は「あいづ」と共通運用を組んでいましたし、そういえば「ひたち」には食堂車込みの12両編成もあったので、それは「ひばり」と共通運用だったのかもしれません。
いずれにしても、「ひばり」と「ひたち」と「あいづ」を受け持つ仙台運転所は、青森運転所(盛アオ)や秋田運転区(秋アキ)よりも東北筋485系の一大拠点だったんでしょうね。
前述のように当時の上野駅に乗り入れる485系は青森運転所と秋田運転区と仙台運転所、そして金沢運転所(金サワ)の489系がメインでしたが、一部にイレギュラーはあったにせよ、先頭車で分類すると、青森は200番代が多く、秋田は1000番代オンリー、そして仙台はボンネットと300番代が主流でした。
このため、仙台の485系はボンネット型先頭車が多かったことでも知られていますが、稀に前面貫通型の200番代も配備されていました。だからクハ481 200が先頭に立つ「ひたち」は少しだけ希少価値が高かったかも。
画像は赤羽付近で撮影されたもののようなので、東大宮操車場から上野駅に向けて回送されるところを狙ったのでしょう。光線状態から朝っぽいですよね。
まさかそんな「ひたち」が60.3改正以降、大ブレイクするなんて私的に思わなかったけど、1日23往復って考えられなかったもんな・・。
「ひばり」が15往復、「とき」が14往復、「雷鳥」が16往復、そして「有明」が18往復と、ダイヤ改正の度に特急列車は本数を増やす始末。誰もが「有明」の18往復を超える奴は現れないと思っていました。それが「ひたち」の23往復でしょ。端的に言えば、「ひたち」は24時間営業列車だと、そう思っても否定はされません。逆に言えば、「国鉄はここまで特急の叩き売りをするか?」ですよね。
JRの特急に対する扱いもぞんざいこの上ありませんが、その思想は既に国鉄時代から引き継がれていたんですね。
特急「かいおう」が存在するように、世が世であれば、「ひたち」か「ときわ」は「きせのさと」になっていたかもしれませんね・・・。
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タ様