さて、もう一方の国鉄顔であるDF50やED70などの少し傾斜した顔(傾斜顔)であるが、こちらは私鉄には機関車が少ないこともあって国鉄以外にはほとんど普及しなかった。ほとんど、というのは越後交通ED500(定山渓鉄道から長野電鉄を経て入線)があるからである。他にもあるかもしれない。

↓DF50の最後の活躍の舞台は四国(土讃本線・予讃本線)だった。1983年9月に全機運用離脱した。(1981.4/土讃本線佃ー箸蔵)

↓予讃本線は海沿いを走るというイメージだが、新居浜に程近い関川と多喜浜の間はちょっとした峠越えの様相を呈していた。(1981.7/予讃本線多喜浜ー関川)

↓多度津で発車を待つ土讃本線の普通列車(1981.8/土讃本線多度津)

↓乗車していた列車が駅で小休止した際に運転士に一声かけホームから降りて正面から撮影した。(1981.7/予讃本線高瀬)

最初にこの傾斜顔のデザインを採用したのはDF50で、その後はED70、ED60、ED61、ED71、EF30の順のようだ。一番古いDF50の製造初年が1957年、新しいEF30が1960年だから、わずか3〜4年の間に6形式もの機関車に採用され続けた。その後に製造された直流機のEF60や交流機のEF70が重連での使用を想定していなかったため貫通扉の必要がなく、正面デザインが変更されたのだろう。先代の面影は一つ目のヘッドライトに残るだけだ。そしてそれらに続く重連形の機関車(EF62やED75など)はそれらのデザインに貫通扉を付けたものになったと考えられる。このように見ると、傾斜顔がすごく貴重なものに思えてきて、DF50やED71などは意識して記録するようになった。

↓朝の短距離通勤通学輸送に充当されていたED71牽引の客車列車。以下の4点はいずれも1981年10月に撮影。(東北本線藤田)

↓当時でも珍しい車運車を連ねた貨物がやってきた。(東北本線藤田ー貝田)

↓越河峠はED71もED75も重連で貨物列車の牽引に当たる。バックに見えるのは東北自動車道。(東北本線藤田ー貝田)

↓福島機関区には東北本線で運用される機関車も配置されていたが、場所は奥羽本線沿線にあった。秋の午後、ED71がパンタを下ろして休んでいた。(福島機関区)

DF50は電化前の日豊本線でチラッと見たのをはじめ、四国の土讃本線などで幾度となく撮影した。また、ED71は東北新幹線開通前に福島・宮城県境の越河峠を中心に重連で貨物列車の先頭に立つ姿を記録した。そのわりにはED62にはあまり食指を動かすことはなく、あれだけ飯田線に出かけていたのにスルーすることが多かった。今となっては不思議としか言いようがない。

これらの傾斜顔デザインの機関車は必ずしも人気が高いというわけではなかったが、僕にとっては幼い頃に憧れた車両として決して無視するわけにはいかなかったのである。

↓中央アルプスを背に短い貨物列車を牽くED62。完璧とはほど遠い水鏡。(1983.5/飯田線七久保ー伊那本郷)