みなさんこんにちは。前回からの続きです。

今年6月に限定で発売された「近鉄全線2日間フリーきっぷ」で巡った、近鉄沿線乗り鉄道中記をお送りしています。




「ナローゲージ」という、いまや国内に3社・4路線しか存在しない貴重な、軌道幅が762mmの車両も小規模な規格の鉄道。日永にて。




そのうちの2路線「内部線(うつべせん)」・「八王子線」を有する「四日市あすなろう鉄道」を乗り鉄しているところ。終点から少し先へ延びる線路はかつて、延伸計画があった名残の「内部駅」です。以下、グーグル地図より。



ところでこの「内部駅」周辺には、この日朝からあちこち乗り鉄している、三重県の名称の由来になったという伝承が残される旧跡があるといいます。これも気になるものですが…



出典は前回記事に続いて、全国47都道府県をテーマにしたシリーズもの「各駅停車全国歴史散歩25 三重県」(中日新聞三重総局編 河出書房新社刊 昭和56年10月初版発行 絶版)から。


日本武尊ゆかりの杖衝坂(つえつきざか)

駅から南西へ約1.5km、国道1号線を左へ少し入ったところに杖衝坂がある。

東征でキズを負った日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が自分の剣を杖にしてようやく登ったという坂は、旧東海道にあり、関西本線が開通するまでは旅人の往来が激しく、杖衝まんじゅうや糸切りモチを売る店が軒を並べていた。


日本武尊は第12代・景行天皇の皇子で、天皇を中心とした中央政権に抗った熊襲(現在の九州南部)や、東国の勢力と対峙したことで知られる伝説的な人物。



日本武尊は数々の争いを戦い抜いたものの、美濃(現在の岐阜県)と近江(現在の滋賀県)の境にそびえる「伊吹山(いぶきやま)」で神の怒りに触れて退却を余儀なくされます。

そこから鈴鹿山麓にと沿い、本拠地の大和(現在の奈良県)に帰還する途中、内部郊外のこの地でついに力尽きた、というのです。


その様子というのが、

『吾足如三重勾而甚疲』(わがあしは みえのまがりのごとくして はなはだつかれたり) - 私の足が三重に折れ曲がってしまったように、ひどく疲れた -『古事記』 出典①。



これがまさに「三重」の由来になったといいます(諸説あり)。しかし、そのようなほうほうの体でもさらに故郷の大和へ進もうとするのですが、ついにこの先で息絶えたのだとのこと。


市境を越えた亀山市内には「能褒野(のほうの)神社」があり、この地で斃れた日本武尊を弔っています。もう、だいぶ山間部に入ったところ。続きます。



この坂は俳聖・松尾芭蕉ゆかりの地でもある。美濃から故郷の伊賀(現在の三重県西部)へ帰る途中、疲れた足を馬にたくしてきた芭蕉は、あまりに急坂だったため落馬。


そのとき「歩行(かち)ならば杖衝坂を落馬かな」と詠んだ。坂の中腹には、その句碑が立てられ、わきには戦前、同所が県史跡に指定されていた名残を示す石柱も立っている。

(後略、P120-121)



南北に長く、隣り合う県境や海岸線の延長は1000kmにも及ぶという広大で、歴史の深い三重県。


なるほど、日本各地でさまざまな伝説を残した日本武尊の、足跡のひとつだったとは。なんだか悲しいエピソードですが(諸説あります)。




日本武尊から後世の芭蕉もきっと、この急坂に感ずるものがあったのでしょうか。出典②。


しかし、ここは畿内(近畿地方)にも近いだけあり、それだけ遥か彼方の歴史の一幕が、地名という形で連綿と続いていることには、感慨に耽ってしまいます。



さて、ホームには四日市ゆきが発車を待っていました。日中は、30分おきの運転です。




先頭車両から先を眺めますと、駅に隣接している車両基地の様子が伺えました。


前回、訪問時とはあまり変化はないようです。

2000(平成12)年7月、ブログ主撮影。



それでは「あすなろう四日市ゆき」に乗り込みます。ヘッドマークのデザインが、実に明るく秀逸な!かもめでしょうか。




空いていましたので、ありがたく運転室かぶりつきが出来ました\(^o^)/

地の底から唸るような、擦り切れそうで重々しい、旧型の吊り掛け式モーターの重低音サウンドたるや。何度聴いても、たまらぬものです。


次回に続きます。

今日はこんなところです。


(出典①「フリー百科事典Wikipedia#ヤマトタケルノミコト」)

(出典②「歴史の情報蔵_杖衝坂」三重県ホームページ)