ひろば 研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

東急大井町線自由が丘1号踏切にて

2023年08月18日 00時00分00秒 | 写真

 東横線と大井町線との乗換駅である自由が丘駅の付近には、何箇所かの踏切があります。そして、大井町線は地上を通っているため、自由が丘駅のホームの前後に踏切があります。このうち、九品仏駅側の、駅からすぐの場所にあるのが自由が丘1号踏切です。

 御覧のように、踏切にも所在地の住居表示が与えられています。ちなみに、自由が丘駅の所在地は自由が丘1-9-8自由が丘駅南口ビル2階となっていますので、大井町線1番線のホームの場所というように考えてよいでしょう。南口の改札を出てマリクレール通りを歩き、東横線の高架の下を抜ければすぐにこの踏切に着きます。そして、踏切を渡ればすぐに駅の正面口、自由の女神像「あおぞら」があるロータリー(バス乗り場にもなっています)に出ます。不二家書店や、有名な和菓子店である蜂の家もそばです。

 上の写真では1丁目となっていますが、この踏切の道路が1丁目と2丁目との境界にもなっており、道路より東側(駅側)が1丁目、西側が2丁目です。

 ちなみに、東横線にも自由が丘1号踏切がありますが、そちらの所在地は世田谷区奥沢5丁目です。東横線は、駅こそないものの世田谷区(奥沢5丁目および玉川田園調布)を通過している訳です。大井町線自由が丘1号踏切を渡って南へ歩くと九品仏川緑道に出ます。この緑道が目黒区と世田谷区との境界で、世田谷区に入ると坂を登ることとなります。信号のある交差点がある場所に、東横線の自由が丘1号踏切があります。

 踏切が開くのを待つ間に撮影しました。急行大井町行きの6000系6102Fです。この編成と6101Fの3号車はQ-SEAT車となっています。2008年に登場した時は6両編成6本でしたが、2017年に7両化されました。現在は、大井町線は勿論、田園都市線の二子玉川駅から中央林間駅までの区間も急行として運用されます。勿論、大井町線と田園都市線とを直通する急行としてです。

 写真ではわかりませんが、大井町線の上り、下りを問わず、また急行、各駅停車の区別を問わず、自由が丘駅に到着する際にはかなりの徐行をします。これは、私の記憶の限りでは急行が7両編成で運用されるようになってからのことです(6両編成時代からそうであったかもしれませんが、よく覚えていません)。少なくとも、急行が運行されるようになるまでは徐行していなかったのでした。これは、大井町線自由が丘駅の構造によるものと思われます。ホームの両端のすぐそばに踏切がありますし、ホームの長さとしてはギリギリといってよい状態であるからです。

 次に、G各停溝の口行きの9020系9022Fが九品仏駅に向けて走って行きます。1992年に田園都市線の輸送増強用として登場したのが2000系で、2018年から2019年にかけて5両編成化されて大井町線各駅停車用の9020系になりました。

 なお、この9020系の奥にトレインチがあります。元々は大井町線の自由が丘検車区であった所で、1966年に鷺沼検車区(現在は東京メトロの検車区)が開かれてからは自由が丘車庫となっていました。

 ところで、意外に知られていないことですが、自由が丘駅は当初から自由が丘を名乗っていた訳ではありません。

 この駅が開業したのは1927年8月28日で、東京横浜電鉄(現在の東急東横線)の駅としてですが、その時の名称は九品仏でした。しかし、1929年10月22日に自由ヶ丘に改称されます。これは、同年11月1日に目黒蒲田電鉄が大井町線を開業させるにあたり、浄真寺のすぐそばに九品仏駅をも開業させることとなったためです。そして、元の九品仏駅は、自由ヶ丘舞踏研究所、自由ヶ丘学園が開設されたことを受けるような形で自由ヶ丘駅と改称されました。元々、この辺りは碑衾村大字衾という地名でしたが、衾西部耕地整理組合の動きもあって自由ヶ丘という町名に改められています。なお、町名が自由ヶ丘から自由が丘に改められたのは1965年の住居表示施行時のことであるそうで、駅名が自由ヶ丘から自由が丘に変えられたのは1966年1月20日です。


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