旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

役割は地味だけど「花形」の存在だった電源車たち【9】

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《前回からのつづき》

 

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■電化区間パンタグラフからの給電を再び スハ25 300番代

 24系に限らず、客車の電源車は電化区間においては電化方式に、そして非電化区間に左右されることなく客車に電源を供給する役割を担っていました。そして、その電源車には発電用のディーゼルエンジンと発電機を組み合わせた発電ユニットを搭載していることで、それを可能にしていましたが、同時に発電ユニットの保守管理と燃料の給油を必要とするため、運用コストの面では不利になってしまいます。

 特に寝台特急がかつてのように需要に対して供給が間に合わないほど、多くの人が利用していた時代ならそれも考慮する必要がなかったかもしれませんが(経営的には大きな課題です)、新幹線や航空機に利用者が移転し、利用が低迷どころか減少の一途を辿るようになると、それは大きな問題になりました。

 分割民営化によって民間会社になり、コストの削減と収益性の確保・向上は経営的な課題であり、走らせれば走らせるほど「赤字」を生み出すことは避けなければなりません。特に「あさかぜ」や「瀬戸」のように、すべての区間を直流電化区間で運行される列車では、わざわざディーゼル発電機を搭載した電源車は、運用コストのかかるものでしかなくなっていたのです。

 JR西日本は、「あさかぜ」と「瀬戸」の収益性を改善しようと、架線の直流1500Vの電源をパンタグラフから取り入れ、それを客車の電源として活かそうと考えました。かつて同じような発想で設計製造されたカニ22の再来とも言えるその発想が再び具現化したのです。

 スハ25 300番代は、1989年にオハ12を改造して製作されました。しかし形式名が示すように電源車ではなく、あくまで「ラウンジカー」としての位置づけで、車内には利用者が寛ぐことができるロビーやシャワー室、そしてサービスカウンターを備えていました。

 カニ22ではパンタグラフから取り入れた直流1500Vの電流を、電動発電機を使って客車に供給する電源を発電していました。そのため、ディーゼル発電機も搭載していたため車体は長くなり、自重も非常に重いなど多くの点で不利に働きました。

 しかし、スハ25 300番代では、カニ22のような電動発電機ではなく、小型軽量の静止型インバータで三相交流440Vを作り出すことにしました。まさに、パワーエレクトロニクスの発展による恩恵を受けた形になったのです。

 車体は種車となったオハ12のままだったので、屋根の高さは浅く低いもののままで、編成の美観を損ねることになりますが、すでにこの時代にそうしたことよりも経営的に効率的であるかの方が重要視されていたので、あまり考慮されなかったと考えられます。

 その屋根には冷房装置としてAU13A分散式冷房装置を3基、中央部に設置し、ソレオを挟むようにして受電用のパンタグラフを2基設置しました。また、静止型インバータを設置した電源室は、冷却風を取り入れるためのルーバー窓が設けられるなど、24系の中でも特徴の多い車両でした。

 パンタグラフから架線電流を受電するため、万一、火災などが発生したときには、それを強制的に降下させる必要があります。通常、電車であれば運転席のスイッチを操作することでそれを可能にしますが、客車の場合は機関車からその指令を送らなければなりません。そのため、スハ25を連結した列車を牽く機関車には、パンタグラフ降下制御装置あるいは配線引き通し線のジャンパ栓を設置する工事が施されました。

 このように、「いい事ずくめ」にも見えるスハ25でしたが、実際に運用を始めるに当たっては難問が立ちはだかりました。

 スハ25を製作したJR西日本はもちろんですが、乗り入れ先の一つであるJR東日本も理解を示していました。しかし、自社が運営する東海道本線の熱海−米原間を通過されるJR東海は難色を示したのです。その理由として、動力車がパンタグラフから電力を集電するのはわかるが、サービス電源用としてパンタグラフから集電されるのは認め難いというものでした。

 これにはJR東海の経営方針と、その環境にあったと筆者は考えます。

 JR東海の前身は、国鉄東海道新幹線を管理していた新幹線総局と、在来線を管理していた静岡鉄道管理局と名古屋鉄道管理局でした。JR東海管内の在来線は、東海道本線中央本線の名古屋近郊を除いて、そのほとんどは収益が低く、ともすると赤字となるローカル線です。他方、東海道新幹線は日本の「大動脈」といっても過言でないほど、輸送量が多く高収益が得られる「ドル箱」路線です。

 こうした在来線の収益性の低さを、東海道新幹線の高収益で支えるという経営環境の中にあって、旧国鉄の管理局のパワーバランスは当然、新幹線総局の方が強力であることは想像に難くありません。実際、JR東海の経営方針は、新幹線が第一で、在来線は二の次とも言われています。

 また、同じ国鉄内部でも、新幹線総局と在来線の各鉄道管理局では文化も大きく異なるだけでなく、その権限の大きさとそこで働く職員のエリート意識の高さは、国鉄本社でも問題視されていたといいます。実際、目に見えるところでは、在来線で勤務する職員と、新幹線で勤務する職員の制服は異なり、前者は襟に伝統的な動輪を象った徽章を着用していたのに対し、後者は動輪の徽章は着用せず、代わりに二本の白いラインが入り、袖にも同じく二本の白ラインが入れられていました。また、制帽にもシルバーのラインが入り、乗務員に至っては「運転士」「車掌」を識別するワッペンを左腕に着用するなど、同じ国鉄でも大きく異なるものを採用していたほどです。

 そうした経営環境の中で、自社が主体となって運行する列車ではない「あさかぜ」や「瀬戸」で、サービス電源のためにパンタグラフから電力を集電されてしまうのは、様々な観点から好ましくなかったのです。

 JR東海は、他の旅客会社と比べてコスト管理に厳しいと考えられます。特に在来線は収益性が低いため、動力車ではない車両が架線から電力を得ることは、余計な電気代がかかると考えたのでしょう。寝台特急のような長距離列車が乗り入れる場合、利用者から収受した運賃や特急料金などから、走行距離に応じた分の分配を受けますが、スハ25のように架線から電力を得る車両は想定していない制度のため、電気代はかかっても得られる収入は変わらないのです。

 また、パンタグラフが架線を「摺る」ことは、架線を構成するトロリー線の摩耗が起こります。動力車がパンタグラフでトロリー線を擦って摩耗するのは仕方のないことですが、それ以外の車両が集電のためにトロリー線を擦って摩耗させるということは、その分だけトロリー線の摩耗を早めることになり、結果、トロリー線を交換する間隔を短くし、その交換にかかる費用が増えることにつながります。JR東海は、このコストが増えることも看過できなかったのでしょう。

 結局、JR西日本JR東日本が、JR東海と調整してスハ25の乗り入れの実現に漕ぎ着けましたが、その条件はともかくとして、JRの会社間では必ずしも協力体制があるとは言い難い実態を、改めて浮き彫りにしたといえます。

 スハ25は1989年の「あさかぜ」のグレードアップ化とともに運用に就き、東京−下関間で運行されました。しかし、東京対九州間の寝台特急の需要は減少の一途をたどり、JR東日本が受け持っていた東京−博多間の1往復が1994年に臨時列車に格下げとなり、東京−下関間の1往復のみが定期列車として残りました。しかし、九州島内に乗り入れないために需要に乏しかったのか、2005年3月をもって運行を終了し、「あさかぜ」の歴史二ピリオドが打たれると同時に用途を失い、スハ25は302と303が廃車、301は保留車として残ったものの、2008年になって廃車となり形式消滅しました。

 

直流電化区間のみを走る「あさかぜ」と「瀬戸」用として、架線からパンタグラフを通して電源を供給するスハ25 300番代。かつてのカニ22の再来にも思える客車でありながらパンタグラフを装備するその姿は、やはり目立つものだった。しかし、電源装置は静止型インバータ(SIV)を採用するなど、パワーエレクトロニクスの発達によってこうした効率性の高い車両を実現できたといえる。(©永尾信幸, CC BY-SA 3.0, 出典:ウィキメディア・コモンズ)

 

《次回へつづく》

 

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