国立公園法成立に尽力した人々 | 国立公園鉄道の探索 ~記憶に残る景勝区間~

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[国立公園鉄道の探索]

国立公園法成立に尽力した人々

 

 

前回は、「国立公園法」が第59回帝国議会(1930 昭和5年12月24~1930 昭和6年3月27日)、浜口政権の時に成立したことについて書きました。

 

浜口政権は、国際協調や平和主義を掲げ、国内では労働問題や婦人公民権などの課題解決に取り組む一方、財政健全化方針から緊縮財政を執り行いました。

 

金のかかる新規事業は認めない方針の政権下で、新規事業となる「国立公園創設」の基となる「国立公園法」が成立したことは、

国立公園創設に向けて尽力した方々が存在した、ということに他なりません。

 

国立公園成立に大きな貢献をした人物として、以前(2022年2月23日)、林学博士・本多静六氏についての綴ったブログを載せましたが、本多博士は、*自伝 で国立公園法成立に至る興味深い話を書いています。

 

自伝では、まず本多博士の門下生である上原敬二、田村剛 両林学博士の功績について記されます。

 

さらに、熊本出身の篤志家・松村辰喜氏が、国立公園創設に「逸し去ることができない」人物として紹介されます。

松村氏は、熊本県会議長を務めたこともあり、私財をなげうって「阿蘇国立公園」設立に向けて奮闘、「阿蘇国立公園は、一県、一地方の問題ではない、日本国家の問題」と、尋常ならざる熱意で本多博士を国立公園設立へより積極的に動くよう説得します。そして、学究の分野から公園企画研究に専念していた本多博士を現実的な運動の場に引きずり込むことになります。

 

現実的運動とは、大まかにいいますと、

国立公園法案の議会通過を目指す、

国立公園調査委員会を設置、その調査に基づき、具体的な公園設置エリアを選定する、

ということになります。

 

この目的達成のためには、有力な政治家を計画に巻き込まなければなりません。

 

そこで、本多博士と松村氏は、松村氏と同郷の熊本出身の安達謙蔵議員のところへ交渉へ行くことになります。

折よく、安達氏は浜口政権で、国立公園問題などを所轄する内務大臣の要職にありました。

 

しかし当時は、調査にかかる数万円の費用も出せない、という状況であったようです。

 

そこで、本多氏は次の提案をします。

 

1. 調査委員には1~2年間無償で働いてもらう。

2. 会合費、旅費、その他の雑費は、2~3万円の限度で、すべて本多静六の私財提供とする。

 

この提案に松村氏は「落涙ぼうだとして感激してしまった」と自伝では記されています。

 

こうして安達内務大臣と会談するのですが、これから先は面白い記載もありますので本多博士の自伝から引用します。

 

『・・・・・私が田村君を同伴して押し掛けたのが、麻布にあった安達内相の私邸である。私はその時、音に聞こえた選挙の神様が、いかに質素な家に住んでいるかを知って驚いた。・・・・・

 

・・・・・私は、かねて松村君からお願いしてある国立公園の件に関して、他人を交えずに直々に御意を得たいことがあるから、是非私の話を聞いてくれと申し入れ、田村を残して三人で別室に移った。その際大臣の返事も、新内閣の方針としては一切金のかかる新規事業は打ち切りであるからという、前からの返事と同じものであった。そこで私は、難点はただ金のことのようであるようだが、その金さえあればすぐ着手して貰えるかと念を押すと、大臣は、政府で金が出せるようになったらと解してか、もちろんと答えた。私はここぞと思って、用意していった三万円の包みを出して言った。

「金さえあればというお話なら、ここに三万円の金があります。これは薄給の大学教授が、こういうときに役立てようと倹約して残した金です。調査委員にはしばらく無報酬で働いて頂ければ、まずこれで調査の手始めはやれましょうから、さっそく実行に移してください」

 これには安達さんも面喰って、しばらく金と私の顔を交互にながめていたが、大いに感激した面持ちで、

「そうですか、貴方がたがそれまで御熱心ならば、私としても改めて考え直してみましょう。しかし、この金の御寄付は頂けません。ただ、これだけあれば充分です」

と、金包みの上紙だけを外して懐におさめた。そうして、間もなく国立公園法案の上程となり、安達内務大臣が自らその説明に当たってくれた。つまり私等は、ホンの見せ金だけで安達氏を動かしたわけで、少々うまい話になり過ぎてしまったが、ともかく、三万円の上包みをタネに、新規事業を一切認めないという閣議で認めさせた安達氏の手腕は、さすがにえらいものと感心してしまった。』

 

本多博士のこの文章、エンターテインメント的な書き方がなされている傾向もありますが、当時の状況がよく描かれ、国立公園実現を目指してきた方々の熱意が伝わってきます。

 

この会談が行われたのは浜口政権が発足してから約4か月後の1929(昭和4)年11月のことといわれています。

 

安達氏との会合は、浜口政権が誕生する前からも行われて、国立公園計画は、本多博士の門下生である、上原博士、田村博士により原案が練られ、安達氏はそれについて強い関心を持っていたようです。

 

 

翌1930(昭和5)年の1月14日には「国立公園調査会」設立が閣議決定されます。

 

国立公園調査会のメンバーには、国立公園実現を目指してきた「国立公園協会」の理事以外にも、政治家、官僚、学者、実業会からも人選されました。

政治家では、貴族院から藤村義郎、根津嘉一郎両議員が、そして衆議院からは、その後粛軍演説や反軍演説で勇名を馳せることになる斎藤隆夫議員も選ばれています。

 

 

安達謙蔵内務大臣は、なぜここまで国立公園創設に熱心に取り組んだのか。

一つには、国立公園計画そのものに理解が深かったことがあると思います。

 

そして今一つの要因としては、

これは今まであまり指摘されていないことですが、

国立公園を国際親善に活用して、外客誘致により国際収支を改善しようとする鉄道事業者等の実業家、そして優れた風光地を保全して遺産として将来の世代に遺していこうとする自然環境派を結集させ、その当時増長しつつあった、偏狭な野心を抱く反知性主義的勢力に対抗していこうとする思惑もあったのではないか、と思われます。

 

 

 

*引用参考文献

「本多静六自伝 体験八十五年 本多静六著 実業之日本社 2006年」

引用箇所は、P169~175 「国立公園発祥の思い出」から。

(この本は、1952(昭和27)年2月に日本雄辯会講談社から刊行された『本多静六体験八十五年』を改題、再編集されたものです)

 

 

 

 

 

 

 

さて、目を東京駅に転じます。

 

昭和前期に悲しむべき事件があった駅には、その時代に成立した「国立公園」を通り過ぎてきた列車や、これから国立公園風景地に向かう列車が、到着出発しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

9、10番線ホームの向かい側では、東北新幹線「なすの257」が出発に向けた準備をしていました。