皆さんは特急「白鳥」っていうと何を連想しますか?

我々の世代はやはり485系による電車特急だし、我々より下の世代だと、JR北海道の789系を使った「スーパー白鳥」なのかなって気がしますし、我々より上の世代は画像のようなキハ82系による気動車特急だと思われ、その思いは十人十色。

 

JR化後の「白鳥」にはあまりそういうイメージは抱かなくなりましたが、昭和国鉄の時代の「白鳥」はとにかく “孤高の存在” というイメージがあります。キハ82にしても485にしても、その系列を使う他の列車よりも突出している感じがしましたね。それは走行距離や走行時間が異様に長いということだけでなく、北海道連絡という重要な使命を帯びていただけでなく、なかなか言葉では伝えにくいんですが、カリスマ性があったのは確かです。

 

キハ82系の「白鳥」は昭和36年10月にデビューしたんですが、同期には「おおぞら」「まつかぜ」「かもめ」など、錚々たるメンバーが同年同月にデビューしています。キハ81は初期トラブルが多発して散々扱き下ろされましたが、メカニックの懸命な努力で徐々に安定したパフォーマンスを発揮すると、「全国に気動車特急を走らせよう」という機運に変わり、キハ81をベースに分割・併合を容易にすべく貫通扉を採用したキハ82が製造されるようになり、前述のような列車に充当して北に南に特急列車が走るようになりました。昭和36年10月のダイヤ改正は「特急のためのダイヤ改正」と言われる所以ですね。

 

デビュー当時の「白鳥」は大阪-青森間を15時間あまりかけて走っていました。青函連絡船の深夜便に接続して、函館からはやはりキハ82を使用した「おおぞら」に連絡して札幌や釧路へと向かっていました。まさか大阪から釧路まで列車を乗り継いで行った乗客はいないと思いますが、今だったら死んじゃいそう。

 

それと、「白鳥」には東京の上野行きがあったというのをご存じでしょうか?

大阪-直江津間は12両編成で、直江津で青森行きと上野行きに切り離されて最終目的地へ向かいます。

青森行きの6両は向日町運転所(大ムコ)、上野行きの6両は尾久客車区(東オク)の管轄で、双方に一等車(→グリーン車)と食堂車が連結されていました。なお、現在は吹田総合車両所京都支所になっている向日町運転所は当初、キハ82のために開設された車両基地であることを付記しておきます。

直江津ということは、信越本線を経由することになるのですが、途中にはあの碓氷峠が待ち構えています。しかもデビューから1年ちょっとはいわゆるアプト式でED42のフォローを受けながら峠を行き来していたので、速度が極端に遅く、大阪-上野間は12時間半もかかっていました。まさか大阪から上野まで通しで乗る人はいなかったと思いますが、だったら東海道本線の特急や急行に乗った方が利口ですよね。

昭和38年に碓氷峠は粘着運転方式を採用した新線に切り替わり、フォロワーの機関車はED42からEF63になったことによって、多少は運転時間が短縮されたと思いますが、それでもね・・・。

 

青森行きと上野行きが設定されたのは昭和40年10月の改正までで、その改正で上野編成が独立して「はくたか」になり、所管も尾久から金沢運転所(金サワ)に変更されています。「はくたか」っていうと、上越線経由を連想しがちですが、キハ82時代の「はくたか」は上越線経由ではありませんでした。

「白鳥」の上野編成独立に関しては様々な説がありますが、有力なのは「白鳥」の青森編成に対する輸送力の増強。上野編成を連結していた頃は、直江津以北が6両と短くなり、需要が高かった青森編成を何とかしたいと思っていたんでしょうね。そこで上野編成を独立させて「白鳥」は青森行きの単独編成に切り替える策を講じたのではないかと思われます。この結果、「白鳥」は単独で14両編成という長大編成になりまして輸送力も格段にアップしました。なお、14両運転は新潟までで(この改正で「白鳥」は新潟経由に変更されている)、新潟で4両を切り離していましたが、それでも新潟-青森間は10両編成ですので、6両時代と比べてもその輸送力は雲泥の差になります。また、この時から一等車を2両連結としました。

 

「はくたか」は昭和44年10月の改正で、「白鳥」は昭和47年10月にそれぞれ485系で電車化されました。

 

うん、やっぱり「白鳥」は “孤高” という形容がよく似合います。

 

 

【画像提供】

ウ様

【参考文献・引用】

鉄道ファンNo.368 (交友社 刊)