最近は見る機会も随分減りましたが、終着駅で行き先の表示(方向幕)を回す光景というのは、なかなか見ていて楽しいものです。

特に、普段行き先としては見かけない駅が出現したりすると、「こんな行き先もあるんだ」と新しい発見をした気分になります。

そんな「珍しい」行き先、「今では考えられない」行き先をいくつか時刻表からピックアップしてみたいと思います。

今回は昭和38(1963)年7月号(交通公社版)を見てみます。


ちなみに国鉄時代はまだ電気で動く方向幕というのはそこまで普及しておらず、行き先表示といえば「サボ」でした。

職員の方が手ずからサボを差し替える光景は、折返し駅ならではのものでした。


・名寄駅7:00発下川行き(名寄本線)

下川駅は当時から急行も停車していた主要駅ですが、当駅止まりはこの1本のみでした。


・下川駅15:27発一ノ橋行き(名寄本線)

・名寄駅21:30発上興部行き(名寄本線)

一ノ橋からあと2駅、上興部からあと1駅先の急行停車駅、西興部駅のわずかに手前で終点となってしまう列車たちです。

上興部行きは名寄本線の名寄駅発下り最終列車です。


・雄武駅6:56発旭丘仮乗降場行き(興浜南線、名寄本線

日曜祝日は興部〜旭丘間は運休でしたので、通学生向けの列車だったのでしょう。

一区間だけ名寄本線を運行し、仮乗降場が終点となる珍しい列車です。

なお名寄本線の旭丘仮乗降場は、秋里仮乗降場として昭和31(1956)年に開設され、旭丘を経て、旭ケ丘仮乗降場へと名称が変遷しました。

改称の時期はいずれも未詳です。


・稚内駅7:56発幕別行き(天北線)

幕別といっても現在の根室本線の幕別駅ではなく、現在の幕別駅が止若駅から幕別駅に改称するまで恵北駅が名乗っていた駅名です。

参照した時刻表が昭和38(1963)年7月号でしたので、同年の10月1日に天北線の幕別駅が恵北駅に、11月1日に根室本線の止若駅が幕別駅に改称される直前となります。

この列車も日曜祝日は運休で、通学生向けだったことが分かります。

折返し幕別駅発稚内行きも運転されていました。


・稚内駅17:30発曲淵行き(天北線)

あと2駅で急行停車駅の鬼志別というところで折返しなのですが、曲淵駅と1駅先の小石駅とは17.8kmも離れていたので、このあたりが人の移動の境目だったのかも知れません(現在では曲淵駅までが稚内市)。

こちらも折返しで曲淵駅発稚内行きが運転されていました。


・浜頓別駅7:19発斜内行き(興浜北線)

日曜祝日運休。斜内駅で折返し浜頓別行きとなりました。

全長30.4kmの興浜北線で唯一の区間列車。

浜頓別駅〜斜内駅間は12.4kmです。

次の目梨泊駅との間で浜頓別町から枝幸町に変わるので、ここで輸送の需要に落差があったのかも知れません。

なお途中にある仮乗降場の頓別と豊浜は下りでは通過、折返しの上りでは停車していました。

    

【メモ】斜内駅


昭和53(1978)年のデータでは

一日平均乗車人員が42人、

これは興浜北線の途中駅としては最多です。


昭和55(1980)年2月現在、

既に無人駅ですが、

当時興浜北線では途中駅全ての無人化が

完了していました。


・仁木駅4:38発稚内行き(函館本線、宗谷本線)

SL牽引の客車列車でした。

宗谷本線では他にも稚内発小樽行きという客車列車がありましたが、それを上回るロングラン列車です。


・湧別駅16:19発遠軽行き(名寄本線)

湧別〜中湧別間は名寄本線の支線で、湧別→中湧別は一日2本、中湧別→湧別は一日1本のみでした。

この支線は他の列車が湧網線直通で網走発着なのに対し、この1本だけは名寄本線の本線に直通して遠軽に素直に向かいます。

このため1時間少々の行程で、網走発着が3時間以上のロングランになるのとは対称的です。

ちなみに湧網線に直通する場合は中湧別でスイッチバックとなりますが、遠軽方面に向かう場合は進行方向は変わりません(が、中湧別で33分も停車します)。

あらゆる面で普通なことで逆に目立つ列車です。


・遠軽駅6:34発奥白滝行き(石北本線)

白滝駅からさらに2駅、奥白滝まで運行されました。

今は奥白滝駅自体がなく、白滝行きの運行はありますが、この当時逆に白滝行きという列車はありませんでした。

奥白滝に着いた後は、わずか5分の折返し時間でまた遠軽行きとして戻って行きます。

    

【メモ】奥白滝駅


昭和55年の時点では駅長もおり

職員数11名を擁する有人駅でしたが、

元々貨物輸送で賑わった駅で

昭和50年代には人家もなく、

昭和53年の統計では一日平均乗車人員は

わずかに1人でした。


・越川駅7:27発緑行き(根北線、釧網本線)

昭和45(1970)年に廃線となった根北線(斜里〜越川)。

一日4往復でしたが過半数が釧網本線と直通運転で、朝の1往復は緑発着、他は網走発着でした。

意外にも根北線の上り、越川発の斜里行きは一日1本しかありません。

この年は緑行きでしたが、年代によっては札弦発着の時期もあり、根北線自体が13年の命でしたがその間にダイヤは試行錯誤を繰り返したようです。

緑行きのこの列車は、緑で5分の折返し時間でまた越川行きとなって発車します。

復路では釧網本線内の南斜里(駅のはずですが、昭和37年に開業して間もないためか、まだ営業キロの記載がありませんでした)は通過していました。


・釧路駅14:58発直別行き(根室本線)

音別〜直別間は休日・指定日運休でした。

直別も廃止されてしまったので今ではあり得ない行き先です。


・釧路駅17:49発車尺別行き(根室本線)

尺別も駅としては廃止されてしまったので、今ではあり得ない行き先です。

    

【メモ】直別駅・尺別駅


ともに白糠郡音別町にあった駅。

直別は明治40年開業と歴史ある駅でしたが、

昭和55年の時点では直別・尺別ともに

既に無人化されていました。


尺別にあった炭山のほか、音別町は酪農、林業を基幹産業としていたので、

閉山、離農、モータリゼーションにより鉄道の存在感も薄くなってしまいました。


・静内駅21:18発厚賀行き(日高本線)

日高本線上りの最終列車です。

実際には様似駅19:08発で、静内駅で列車番号が変わるので静内始発の表記となっています。


・振内行き(富内線)

富内線全列車。まだ日高町駅まで開通していなかった時代です。

    

【メモ】富内線


北海道鉱業鉄道が大正12(1923)年に

沼ノ端駅から辺富内駅まで開通させたのが

ルーツ。

昭和18(1943)年8月1日に国有化され、

停留場の旅客駅化などと共に、

多くの駅が改称されました。

終点の辺富内(へとない)も、

富内(とみうち)へと改称、そのまま路線名

となります。

国有化のわずか3か月後の11月1日、

日高本線に並行する沼ノ端駅〜豊城駅間が

廃止、鵡川駅〜豊城駅間の新ルートに

切り替え、富内線は鵡川駅を起点と

するようになります。


昭和33(1958)年に振内駅まで、

昭和39(1964)年に日高町駅まで全通。

昭和61(1986)年、奇しくも

沼ノ端〜豊城間廃止と同じ11月1日に

全線廃線となりました。


昭和55年の当時、途中駅で駅員の配置があったのは穂別駅と振内駅だけで、国有化時に終着駅だった富内駅も既に無人駅でした。


・長万部駅20:58発静狩行き(室蘭本線)

長万部発の室蘭本線最終列車です。

旭浜仮乗降場にも停車しますが、2区間で終点となり、運転時間はわずか16分です。


・増毛駅11:52発築別行き(留萠本線、羽幌線)

羽幌線は留萠本線からの直通が多いですが、殆どは深川方面からの直通です。

この列車は増毛から留萠まで留萠本線を走り、留萠でスイッチバックして羽幌線に入ります。

増毛からの羽幌線直通はもう1本ありますが、そちらは幌延駅まで羽幌線全線を走破します。

一方、羽幌線から留萠本線に直通する方は全て深川行きで、増毛行きはありませんでした。

なお羽幌線の築別行き自体は何本も設定されており、築別以北は本数が少なくなります。


・倶知安駅6:28発上目名行き(函館本線)

今はなき上目名駅止まり。

目名行きは多数設定されていましたが、上目名行きはこの時刻表ではこの1本のみです。

この列車も日曜祝日は目名〜上目名の1駅が運休となります。

年代によってはもう少し設定があった時期もあり、改正のたびに増えたり減ったりした、上目名行きです。

    

【メモ】上目名駅


磯谷郡蘭越町にあった駅で、寿都郡黒松内町との境にほど近く、黒松内町側の隣駅である熱郛駅とは7.2km離れていました。

国鉄時代に廃止となりましたが、最後まで

有人駅でした。

昭和53年の一日平均乗車人員は3人。

駅員数は8人で熱郛駅より多く、目名駅と

同数でした。


・江差駅11:20発湯ノ岱行き(江差線)

盲腸線の末端側の区間列車です。

湯ノ岱発江差行きもありましたが、そちらは湯ノ岱14:56発でした。

盲腸線の末端側の区間列車としては、瀬棚線の今金〜瀬棚間の区間列車が思い浮かびますが、この時刻表の頃は瀬棚発今金行きの設定はなく、今金発瀬棚行きが1本だけありました。

    

【メモ】湯ノ岱駅


江差線は函館駅のお隣、五稜郭駅から江差駅までを結ぶ路線で、ちょうど真ん中辺りに

位置する木古内駅から松前線が分岐していました。

松前線亡き後も海峡線との接続駅となり、

江差線の木古内〜江差間が廃止となってからは江差線の終点でした。

現在では新幹線も停車する駅に。


木古内〜江差間のちょうど真ん中にあったのが湯ノ岱駅で、国鉄時代は4番線まであり、

駅長も在籍する大きな駅でしたが、

所在地は桧山郡上ノ国町で町の代表駅は

上ノ国駅となり、急行列車は木古内駅から

上ノ国駅まで無停車というものもあり、

乗車人員も上ノ国駅の半数程度でした。

(上ノ国駅は2面3線で、業務委託駅)

この当時、青函局の合理化が比較的

遅かったのもあったのか、

江差線の途中駅は開業時から無人駅だった

もの以外は全て有人駅でした。


ダイヤを見ると、駅の立ち位置も時代と共に変化し、人の流れも現在と違うということを感じ取ることができ、興味深いものです。

また鉄道が現在よりずっと輝いていた時代に思いを馳せることができます。

時刻表の上での時間旅行、一度してみてはいかがでしょうか?