クハネ581 と クハネ583 / G.W.Special | 安芸もみじ / Photos, Historys, Trains - Hiroshima JAPAN

クハネ581 と クハネ583 / G.W.Special


昨日は こどもの日 でしたが、5月5~11は日児童福祉週間、4月23日~5月12日は こどもの読書週間と言うことで。

今日は″クハネ581 と クハネ583″と題しての記事を綴りたいと思いますが、目新しい写真をUPする訳ではなく、学術的・技術的なお話しをする訳でもないのですけれど。

さて、冒頭は特急にちりんで、小倉~宮崎と博多~宮崎の2往復を1980(昭和55)年10月1日~1984(昭和59)年1月31日まで運転されました。



昔、大阪から寝台特急として九州入りする583系は、夜行運用の無い昼間にはL特急の一角を担っていました。

1970(昭和45)年の鹿児島本線全線電化感性から長らく、特急有明の一部で運転されていましたが、日豊本線でも1980(昭和55)年から特急にちりんの運用に就き、定期列車としては583系最後のネームドトレインとなった特急列車です。

2枚目は画質は悪いものの色合いが好きで、時々使ってしまう特急明星です。



1968(昭和43)年10月ダイヤ改正で登場した 関西発の夜行特急群の内の1つで、一時は最大7往復を誇った山陽特急の代名詞的存在でした。

九州特急群から583系の運用が消滅したのは、この特急明星を始めとした特急金星・なは・彗星が順次減便や廃止となる中、客車寝台列車へと置き換えられたため、九州へ583系が存在しなくなったためでした。

これにより余剰となった583系は、1982(昭和57)年11月改正で一足先に余剰と なった車両と合わせて、152両が近郊型電車の419系や715系に改造され、食堂車 サシ581形とグリーン車 サロ581形は廃車となりました。



そもそも583系のデビューは、1967(昭和42)年に誕生した夜行特急月光と、昼行特急みどりでデビューした581系で、東京~下関の直流区間と、関門トンネルと九州内の交流60Hzを直通できる性能を持っていました。

日本の電気は東京電力・東北電力・北海道電力による電源周波数 50Hzエリアと、関西電力・北陸電力・中国電力・四国電力・九州電力・沖縄電力による電源周波数 60Hzエリアの2つに分かれます。

しかし交流モーターの実用化は世界的に見て完成しておらず、鉄道黎明期の電化は整流器による直流変換して進められ、日本では直通電源区間と、戦後からの交流電化区間が存在しています。



山陽本線の直流区間から九州内の交流60Hz区間へ直通運転ができると言っても、モーターは直通モーターを搭載しており、車載整流器の性能から交流60Hzと交流50Hzを直通運転できるシステムは、試作はできていたものの実用化まではあと一歩となっていました。

また電源変換の整流器だけではなく、1960年代は日本において工業製品技術が発展した年代で、それまでよりも高性能でありながら従来型よりも小型化が進みました。

電車にもその技術は導入され、モーター出力やコンプレッサーのパワー、発電機の高出力を果たしながらも、小型の装置を搭載できるようになります。



しかし終戦から20年強の時代でもあり、まだまだ高性能を維持しながらの小型化には限界があり、固定編成を賄うコンプレッサーと発電機を搭載するには難がありました。

581系よりも早く登場した昼行用特急形電車には、運転席の前面に搭載したボンネットスタイルで設計されましたが、高度成長期によって輸送力の増強が求められるようになり、増解結を自在にできるような車両が必要となります。

先頭車は貫通扉を有した切妻形のデザインに変更されましたが、コンプレッサーと発電機の小型化技術が未だ確立されておらず、苦肉の策として車内に防音隔壁に包まれた機械室が設けられました。



しかし581系が量産され増備が続く中でも技術革新は続き、電車にも搭載できる小型軽量化したコンプレッサーと発電機が誕生し、東北方面へ投入される編成には、新型の各種機器が搭載されました。

駆動系や車内サービス系の電気回路はそのままで、50khzと60khzを直通できる新型の電源供給回路も搭載された編成は、581系とは区別するために583系と形式付与されました。

モーターへの電気供給以外は同一システムのため、50khzと60khzを直通しない限りは混血での運行も可能なため、一般的には先行の581系も含めて583系と括られて呼ばれます。



しかしそれらは旅客からは全く無関係な話しで、利用する側からすると座席数 / ベッド数の数による指定券の確保が影響するところでしょう。

前述の通り581系は室内へコンプレッサーと発電機を置いているため、左右一画が潰れており上り方と下り方の先頭車で、合計16名分の座席数または12名分のベッドがありません。

それは外観からも一目瞭然なほどデザインが異なっていて、運転席と乗務員ドアから客室窓までの距離が違います。


上から2枚ずつ並べた写真は上がクハネ581形・下がクハネ583形ですが、お客さんが出入りする乗降ドアの位置も異なるのが見て分かります。

乗務員ドアの直ぐ隣に乗降ドアがあるのがクハネ583形で、運転席の下へコンプレッサーと発電機が置かれているため、クハネ581形よりも座席数16名分、またはベッド数12名分が確保されるようになりました。

車両妻面の換算表にも定員数が違うことが表示されていますが、重機器が小型軽量化されつつも車内設備が増えた分、約1tの自重増加となっています。



車内設備は座席数またはベッド数が異なる以外は、基本設計は同じで寝台特急として運転される時には、上の車内のような風景でした。

写真は晩年の急行きたぐに時代のままとなっていますが、国鉄時代はカーテンがシックな群青色で、もう少し落ち着いた雰囲気でしたが、通路幅は変わらないもののカーテンが赤くなった分、視覚効果で広く感じます。

私が生まれて初めて乗ったのは1969(昭和44)年の特急金星でしたが、最後に乗ったのは2012(平成24)年の急行きたぐにでした。



車内通路の下の写真は1枚しかないのですが、3段ハネと呼ばれた寝台の上段ベッドです。

この2枚は中段ベッドですが、上段ともども座ることもできないほどの高さで、ベッドへ入ると横たわるしか方法がありません。

ただ若い頃のことなので、この狭さが秘密基地ぽくて嫌いではなかったことと、申し訳程度に付いている、あの小さな窓から覗く外の風景は幻想的で、私的には好きだった思い出です。




上段と中段のベッドは昼行特急として使用される時には、折りたたまれて存在が無くなってしまうのですが、下段ベッドは座席へとトランスフォームします。

3枚の1番上の写真は座席にセットされた状態で、2・3枚目が下段ベッドにセットされた状態です。

下段ベッドは天井もやや高く、ベッド幅が広いことと窓が大きいことが利点で、583系が寝台特急で使用される時には、人気が高く早めに寝台券を買わないと、早々に売り切れてしまっていました。



さてこの2枚は583系ではなく、24系客車 オロネ24形のもので、プルマン式 解放A寝台の下段ベッドです。

583系は晩年のA寝台改造車以外は全てB寝台ですが、本来はレールに対して直角に配置されるベッドが、A寝台と同じくレールと平行にベッドが配置されています。

こうして見比べると、ブルートレイン用のA寝台構造を、ほとんどそのままに応用したことがよく分かります。



日本でのプルマン式 解放A寝台の歴史は古く、10系客車・20系客車や14系客車・24系客車へと進化する過程で、下段ベッドを座席に転換した際のリクライニング機能も研究されていました。

しかし昼行特急も普通車にはリクライニング機能が装備されておらず、簡易式リクライニングシートへ換装されたのは、1970(昭和45)年に試作された591系の座席を、実用化した1974(昭和49)年からでした。

設計上はプルマン式寝台のリクライニングシートも完成していましたが、試作や実装試験は行われず、583系への装備は見送られました。




尚、普通車は座席と寝台のトランスフォーム構造となっていますが、グリーン車は同時期の485系と共通の仕様となっていて、A寝台へトランスフォームしたりはしません。

581系は投入時期が先に決まっており、締切期限までに完成・試運転・デビューを果たさなくてはならない至上命令がありました。

それ故に当時の技術で装備や機能をまだ充実させることができたものの、既存のシステムの応用で製造させなければならなかった、ある意味で悲劇の車両でもありました。




なぜ昼夜兼用設備の車両を急迫大量投入しなければならなかったのかは、輸送量に対して車両の基地が不足していたためで、基地へ収納できないために車両の増備ができなくなりつつありました。

逼迫する輸送力に対して対応ができなくなる中で、昼は特急列車そして夜は寝台特急として走り続ければ、基地への滞在時間が短縮されて基地の収容力と車両の増備の問題を、一気に解決できるとのことから開発へと繋がります。

そしてヨンサントオと呼ばれる1968(昭和43)年10月ダイヤ改正で、全国優等列車網を構築して時間的距離を短縮し、全国規模で人と物資の輸送を円滑化されることを先駆けて、1967(昭和42)年にデビューとなります。



その効果は実証されて翌年の優等列車大増発を可能とし、そのポテンシャルを発揮した583系は、日本の一時代を背負った車両となりました。

しかし単純計算で、昼も夜も走り続けるということで、他の特急車両よりも2倍の走行距離を走破し、車両の老朽化が著しかった車両でもあります。

一例を上げると九州で昼間に運用をこなして、夜になると大阪へ向けて走り、朝に到着すると車内清掃が行われた後に新潟へ行き、大阪へ戻れば夜行で青森へ走り、翌朝には再び大阪へ向けて旅立ち、その夜はまた九州へ向けて走るパターンもありました。



鹿児島~青森の距離は片道 約1,950kmで往復だと3,900km、とそれに九州内の運用と新潟往復があるので、往復で約2,400kmで1工程で約6,200kmを走破します。

これはモハネ583形を連結した編成による最長距離工程で、モハネ581形による短距離仕業が続く工程もあり、それでも約4,000kmを走破することになります。

東北系の運用は西日本系ほど複雑ではないものの、特急はつかり・みちのく・はくつる・ゆうづるの連続運用で、上野~青森間往復 約1,600kmを走り続けます。



分割民営化後は583系の運用は激減していましたが、誕生当時からの莫大な走行キロは、台車と車体そして電気機器に限界を超えさせており、JR東日本よりも先にJR西日本の車両は引退せざるを得なかった事実も記しておきます。

南は鹿児島 北は青森まで日本の一時代を駆け抜けた583系は、在来線の電車の中で最も背丈が高く、国鉄形特急電車らしい流麗なフォルムで、国鉄正統カラーを纏ったデザインは、引退した今も尚 高い人気を誇り、忘れられない名車の1つとして数えられています。

端整な顔立ちに、重厚さと可憐さを兼ね備えた583系は、クハネ581-35が京都鉄道博物館に、715系に改造されたクハ715-1は国鉄特急色に戻されて九州鉄道記念館に、それぞれ静態保存で展示されています。



JR東日本のクハネ583-17は、秋田総合車両センターで保管中で、車籍がまだあるようですが、見学は一般開放の見学会が催される日に限られています。

さて今日の写真ですが前述の通り、目新しい写真はありませんが、それなりにどれを使うか考えながらの編集で、ちょと懐かしさに浸りながら楽しい時間でした。

どれも以前UPしたものばかりですが、クハネ581とクハネ583の対比、そして車内の写真は京都鉄道記念館の581系と、秋田駅での内見会とラストランの583系を使用しました。


懐かしいヘッドマークも見ているだけで楽しいですが、上野駅で並ぶ特急みちのくは本来顔を合わせることは無いのですが、1981(昭和56)年の夏に東北地方の豪雨でダイヤが荒れて、発車と到着が偶然並んだ記録です。

いつの号か覚えていませんが、月刊 鉄道ファンの読者投稿ページ••••••••確かマイアクト マイトリップだっかな?へ、同級生の名前で応募したら採用された写真でもあります(笑)

さて、ラストはついでのオマケなのですが、去日に1年弱前の「クハネ581 / 山陽本線全通120周年記念」の記事が、突然ハッシュタグで100位にランキングされていて驚きました。

まぁ100位なのでなんてことは無いのですが、ミリオンキリ番なのでスクリーンショットと共に貼ってみました。

581系,583系

クハネ581とクハネ583

さて、追伸なんですが、翌日のこの記事はカメラ•写真ジャンルで7位でした。

日頃はランキングを気にしないのですが、これは私のブログがと言うよりは、さすが永遠の名車 583系と言ったところでしょう。

博物館などでこの青い寝台特急電車を見られる時には、かつて昼も夜も問わず50年間毎日走り抜けた、数千キロの旅路というロマンに、思いを馳せて感じてみられてはいかがでしょうか?


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