EF65-1124号機 / 千代南児童遊園地の桜 | 安芸もみじ / Photos, Historys, Trains - Hiroshima JAPAN

EF65-1124号機 / 千代南児童遊園地の桜

ー鉄道から見る郷土史シリーズー


安芸郡府中町の千代(せんだい)城跡に広がる住宅街。

元々はこの丘と山陽本線を挟んだ反対側の小山が1つの千代山でしたが、山陽鉄道が線路を敷設するために切り崩し、国鉄が複々線化するにあたり、大きく掘削して現状の地理形状となっています。

そしてこちらも元々は郭の1つだった平地が、山陽鉄道の敷設の際に一部が残り、現在はちびっこひろばとして公園に整備されています。



千代南児童遊園地と名付けられて周辺住民の憩いの場所となっており、春には大きなソメイヨシノが咲き誇ります。

この千代城は府中町広報の説明によると、白井賢胤(しらいかたたね)公の拠城跡だそうです。

広島の白井氏は下総国千葉郡千葉郷を本拠地としていた、桓武平氏良文流・平常兼(たいらのつねかね)公の一族からの分家です。



安芸白井氏は天竜山の府中城を本拠地としており、代々守護職の安芸源氏 武田家の被官の警護衆でした。

安芸武田氏は、1221(承久3)年に勃発した承久の乱の戦功によって、鎌倉幕府より安芸守護に任じられたことから始まります。

南北朝時代には、武田信武(たけだのぶたけ)公が足利尊氏(あしかがたかうじ)公に属して戦功を上げ、恩賞として甲斐国と安芸国の両守護に任命、後に信武の子の武田信成(たけだのふなり)公が甲斐守護、武田氏信(たけだうじのぶ)公が安芸守護をそれぞれ相続しました。



武田氏は大内氏と度重なる戦闘が繰り広げられましたが、その渦中の1527(大永7)年4月24日、白井膳胤(しらいよしたね)公の代に大内氏に寝返えり、武田氏に壊滅的な打撃を与えました。

しかしその子 白井房胤(しらいふさたね)公は、1551(天文20)に起きた大寧寺の変で、主君 大内義隆(おおうちよしたか)公の暗殺を実行した陶晴賢(すえはるかた)公に重要な補佐をして主家乗っ取りを成功させます。

白井賢胤公は白井房胤公の子で、府中城と海峡を挟んだ仁保島城(黄金山)のちょうど中間位置に千代城があり、出張城の支城的役割を果たしていたものと推測されています。 



主君の仇討ちとして蜂起した毛利元就(もうりもとなり)公は仁保島城を陥落させた後、陽動作戦によって味方である大内軍から攻撃を受けて陥落させました。

天文年間(1532~1554年)は、白井房胤公が討ち死にした後も、一族である白井万五郎(しらいまんごろう)公が一時居城し、後に毛利氏に降伏しました。

1829(文政12)年の芸藩通志 府中村絵図に「千代山・古城跡」と記されています。



昔は前述の通り山陽本線の対側ともつながった山でしたが、あちら側は今も鹿籠山と陸続きで北面の空山城跡まで、現在もつながっています。

昭和初期には廓と見られる平坦地や、中腹には稲荷社が祀られていましたが、現在は住宅や工場が建ち並び城跡としての面影はありません。

さて写真は、千代南児童遊園地の桜を撮影していたら、桜花の隙間から何か黒っぽいモノがやって来たのが見えたので、何か判らずにシャッターを押しっぱなしにして撮影しました。



連写で捉えたのはトワイライトカラーのEF65-1124号機で、偶然の出会いではありますが、散り始めのソメイヨシノとのコラボでした。

冒頭の2枚とラストの1枚は連写の中から選んだ写真を、トリミングとカラー補正をしてみた、桜とトワ釜です。

ご近所の方が、家族でお花見をされる準備をされていました。

ー鉄道から見る広島郷土史シリーズー


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