1984(昭和59)年2月の国鉄ダイヤ改正、通称59.2改正は歴史に残る改正だった。数年前から進められていた減量ダイヤへの移行の流れの中で、最もドラスチックな改正内容はヤード方式の貨物輸送の全廃であった。操車場(ヤード)で一両一両貨車を組成して列車を仕立てるという手間のかかるやり方を廃止したのである。これにより、昔懐かしいワムやトラを交えた凸凹編成の一般車扱貨物列車を見ることは叶わなくなった。大宮操車場、新鶴見操車場、吹田操車場をはじめ全国の操車場も廃止された。このほか、夜行列車について特急・急行・普通を問わず削減が行われた。

このダイヤ改正は国鉄には珍しく2月に行われた。ダイヤ改正といえば36.10(サンロクトウ)とか43.10(ヨンサントウ)というように10月に行われることが多かったので、2月というのは意外に感じられた。いまではJR各社は3月にダイヤ改正するようになり、これはその嚆矢となったのかもしれない。

とにもかくにも4月の就職を前に忙しく全国をかけめぐることになった。大学卒業に必要な単位は取得済みであったので、そのへんの心配はなかった。新年早々にどこに行こうか悩んだ末に向かったのは広島・北九州方面であった。

1月某日、空路で広島入り。まずは広島駅構内を見渡せる跨線橋からEF58 44の牽く荷物列車を撮った後、広島機関区東蟹屋派出を訪れ、EF58の38号機やら63号機を撮影した。そして広電を乗車&撮影しながら旧太田川に出て、EF61重連の荷物列車を捉えた。続いて横川から可部線に乗って上八木で下車。太田川にかかる鉄橋で73系やキハ47を撮影して、そのままバスに乗って広島駅前のホテルに入った。ろくに食事も摂らずにやたらと歩いた一日であった。

↓広島駅を発車する荷30レはEF58 44の牽引だった。

↓歩道橋から広島電鉄の車両たちを撮影した。(胡町ー銀山町)

↓旧太田川を渡るEF61重連の荷37レ。山陽本線広島ー横川

↓置き換え間近の73系旧型国電。保線の人が写り込んでいるのはご愛嬌ということで。可部線上八木ー中島

翌日は懸案のセノハチ。なぜ懸案かというと、セノハチは初めてだったから。いつかは行こうと思っていたのに延び延びになっていて、貨物列車が大幅に減る直前にやっと訪れたという次第。この日は鉄道と並行して走る国道2号線で交通事故があり、バスがいくら待っても現れず、やきもきした。結局EF59の付いた列車は1本しか撮れなかった。実り少ないままに、それでも瀬野機関区で写真を撮った後に広島駅に戻ってくると、ホームの先端にPS22Bが見えた。慌てて駆けつけたところEF58 38が荷物列車の先頭に立っていた。

それからは山陽本線の普通列車を乗り継いで、一気に九州入りした。博多駅前のレンタカーオフィスに駆け込み、日産マーチを借りて門司港まで戻り、ホームで発車を待つ夜行普通列車ながさきを撮影した。そして翌日に備え、中間で車中泊をした。

↓EF61の後押しを受けてセノハチの難所を越える荷30レ。本務機は宮原区配置の原型小窓機。山陽本線瀬野ー八本松

↓門司港駅で出発を待つ普通夜行列車ながさき

翌日は怒涛の一日。まず筑豊本線で朝の通勤通学輸送に当たる客車列車を撮影してから鹿児島本線の赤間・海老津間の山越え区間に移動、キハ82まつかぜや581系にちりんを撮影した。さらに室木線で客車列車を撮影し、筑豊本線の飯塚・筑前山家を経由して原田へ出た。広い駅構内に留置されている715系や休車中のキハ26 600番台、キハ55を撮影して、甘木方面へ車を走らせた。国鉄甘木線でDE10の牽く貨物列車(キリンビールの原料・製品輸送)、西鉄甘木線で13メートル級の丸窓200系が3連で走る姿を記録することができた。

それからは進路を北にとり、勝田線で旧型客車の列車を撮って一連の日程を終えた。せっかく九州までやってきてこのまま帰ったのではいかにも味気ないと思い、レンタカーを返した後に天神に行き、屋台の博多ラーメンを食べてから福岡空港に向かった。この日は終日曇り空の生憎の天気であったが、3年ぶりの九州で狙っていたものはほぼ撮り尽くすことができ、充実した撮影行となった。

↓筑豊本線の4線区間をいく朝の通勤通学列車。筑豊本線中間ー折尾

↓博多発の山陰特急まつかぜが九州の電化区間を駆け抜ける。鹿児島本線海老津ー赤間

↓室木線は全列車がDE10+旧型客車で運転されていた。室木線古月ー鞍手

↑国鉄甘木線の貨物列車(筑後小郡ー筑後松崎)

↓西鉄甘木線のオールドタイマー(西鉄甘木ー馬田)

↓勝田線は筑豊炭鉱の雰囲気はなく、住宅地が広がっていた。勝田線宇美ー下宇美