仮乗降場といえば北海道、という印象は強いですが、実際は日本全国に存在していました。

地理的、経済的要因などから、結果的に北海道に特に多くなったに過ぎず、その中でも札鉄局管内にはほとんどなく、青函局にやや多く、釧鉄局にもあまりなく、旭鉄局にずば抜けて多い、と鉄道管理局によってかなり設置傾向は異なっていました。

旭川駅より北、東方面に向かう路線群にばかり仮乗降場が多いのは、人口密度が高くなく正駅を設けるほどではないが一定の需要はある、という要因もあるでしょうが、管轄が旭川鉄道管理局だからという要因の方が大きいように思います。


ある本で、日本で最も北にあった仮乗降場は「稚内桟橋」、最も南にあった仮乗降場は日豊本線の「心岳寺」、と紹介されていました。

稚内桟橋(わっかないさんばし)仮乗降場は稚内港における稚泊航路の結節点で、若干意味合いは異なりますが、四国は小松島線の小松島駅における小松島港(こまつしまこう)仮乗降場がフェリーの連絡所であったのと似ています。

出自はかなり古く、現在の宗谷本線が稚内駅に到達するより前からあったといいます。

日本の敗戦で南樺太が日本の領有ではなくなったために稚泊航路も消滅し、稚内桟橋仮乗降場も廃止になりました。

日豊本線の心岳寺(しんがくじ)仮乗降場は現在の鹿児島県鹿児島市にあった仮乗降場で、重富駅〜竜ケ水駅間に置かれていました。

実キロで竜ケ水駅から2.4km、明治41(1908)年7月28日に開業した当初から仮乗降場として扱われました。

開設時の通達では「毎年八、九両月平松神社大祭執行の期に限り開設す」とあり、戦後の日本国有鉄道が設置した局設定の仮乗降場ではなく、現在でいう臨時駅のような位置づけだったと推察されます。

明治期設置の仮乗降場としては異例の長命を誇り、正式な廃止は昭和42(1967)年8月1日だったそうです。

そして、現在もホームの遺構が残っていることで知られます。

鉄道院時代に設置されただけあって、立派な石造りのホームだったようです。

重富〜竜ケ水間は現在7.0kmと駅間距離が長く、さらに竜ケ水駅には停車しない普通列車も多いので、鹿児島駅を出た普通列車は重富駅まで13.9km客扱いをしないということもあるわけです。

竜ケ水駅には交換設備があるため、運転停車することがありますが、この7.0kmという駅間距離を見ると、竜ケ水駅の交換設備の重要性も理解できます。


さらに調べを進めると、心岳寺よりさらに南、志布志線(現在の日南線)の福島高松駅〜大隅夏井駅間に高松海水浴場(たかまつかいすいよくじょう)仮乗降場というのがあったことが分かりました。

心岳寺同様、通年営業ではない臨時の仮乗降場ですが、ワンシーズンのみで廃止となりました。

設置は昭和34(1959)年7月12日、廃止は同年の8月31日とのことで、局設定の仮乗降場でした。

ちなみに隣接する福島高松(ふくしまたかまつ)駅も局設定の仮乗降場として開業し、昭和25(1950)年に正駅化したものです。

大隅半島では他にも古江線(後の大隅線、現在は廃線)にいくつか国有鉄道でいうところの仮乗降場ないしは臨時乗降場があったようですが、私鉄買収の区間でありどうにもはっきりしないところも多いので軽く触れるに留めます。

緯度から言えば、論地駅が最南端の仮乗降場上がりの駅となる「かも?」といったところです。

論地駅は大隅鉄道が停留場として開設後、2年後には停車場(駅)となり、その約15年後に国有化されています(昭和10年)。

さらに、昭和20年〜22年の間、書類上は旅客営業を「休止」としていたそうです。



南北については上記の通りですが、東西はどうでしょうか?

私鉄など国有鉄道以外の鉄道の仮乗降場(鉄道会社によって呼称は様々です)まで含めると、最も東にあった仮乗降場は根室拓殖鉄道の引臼(ひきうす)乗降場でしょうか。

根室拓殖鉄道の乗降場は貨物の扱いがない、営業キロが設定されていない(?)、というもので、仮乗降場に近い存在と見ることができるかと思います。

国有鉄道に限定すると、標津線の開栄(かいえい)がJR化時に正駅になるまで仮乗降場であったほか、それ以前では平糸(ひらいと)駅が昭和36(1961)年に仮乗降場として開設(昭和42(1967)年正駅に昇格)したのが最東端になるかと思われます。

蛇足ですが、根北線の16号仮乗降場は僅差で開栄の方が東となります。


最も西にあった仮乗降場は、私が調べた限り、確実に仮乗降場であったと断定できるものは長崎本線本川内(ほんかわち、信号場時代は「ほんがわち」)駅が信号場時代に客扱いを行っていた事実があったようで、これが最西端かと思われます。

特筆すべき仮乗降場としては、筑肥線の深江浜(ふかえはま)仮乗降場が、昭和36(1961)年国鉄発行の全国版の路線図に(仮)の文字付きで掲載されていました。

同様のケースは、羽越本線加治川、留萠本線瀬越などごく少数です。

瀬越などは昭和44(1969)年に仮乗降場から臨時乗降場に移行していますので、他の仮乗降場とは一線を画す何かがあったのでしょうか?


深江浜(仮)の記された路線図


なお、さらに南、西の鉄路として沖縄県営鉄道がありましたが、こちらには仮乗降場に類するものがあったという情報は見つけられませんでした(なかったと断定するものではありません、あくまで私が不勉強なだけかも知れません)。

長崎本線よりもさらに西、現在の松浦鉄道、旧国鉄松浦線とその支線であった臼ノ浦線は、国有化前に佐世保鉄道の手によって徐々に延伸開業していく過程で、一時期終着駅になっていた実盛谷(さねもりだに)、四ツ井樋(よついび)が国有化後に線路付け替えに伴い廃止となる際の告示に仮停車場という表現がされています。

これが真実ならこの四ツ井樋が日本では最も西になるかと思いきや、どうもこれは告示が誤りであり、仮停車場ではなくちゃんとした停車場だったようです



話は変わって、身近にある元仮乗降場に焦点を当ててみましょう。

現在は駅や信号場として普通に利用されている中にも、実は仮乗降場だったという例は意外に多いものです。


例えば、上越線井野(いの)駅

高崎、前橋の近郊として多くの利用者があるこの駅ですが、元々は信号場として開業した後、駅に昇格しています。

信号場時代に客扱いを行っていたので、仮乗降場由来の駅とも言えます。

上越線には津久田駅大沢駅(旧越後大沢信号場)など、同様のケースが多いです。

その背景には、上越線が信越本線に代わる首都圏と日本海側を結ぶ重要路線になったこと、そしてループ線が現在も残ることから分かるように、日本の幹線としては指折りの山岳路線であることがあります。

戦時中は物資の輸送の要であった一方、勾配にはめっぽう弱いSLが大量の貨物を牽引しつつ、単線のため頻繁に列車交換も必要となれば、自ずとスイッチバック式の信号場が多数作られることになります。

この中には戦中に、勾配途上に交換の目的だけに作られ簡素を極めた、いわゆる「戦時型スイッチバック」も多かったと聞きます。

上越線に限らず幹線の勾配区間に多数設置された戦時型スイッチバック式信号場ですが、敗戦とともに存在意義を失い廃止されたものが多く、昭和40年代の各地での幹線の複線化により大部分が痕跡すら留めていないのが現状です。


中央本線のいわゆる辰野支線にある東塩尻(ひがししおじり)信号場もかつては客扱いを行う仮乗降場でもありました。

塩嶺トンネル開通前は特急「あずさ」も通過していたので、普通列車がここで客扱いをしつつ交換待ちをしていた光景なども覚えていらっしゃる方が多いのではないでしょうか。

当時の写真を拝見したことがありますが、115系近郊型電車が東塩尻信号場で客扱いを行っている傍らを183系が駆けていく様は、およそ仮乗降場とは思えぬ光景でした。



最後に、いわゆる仮乗降場の範疇ではないかも知れませんが、延伸開業まで、あるいは災害で寸断された路線の復旧までの一時的な終着駅として仮駅を設置する例も多いので、少しだけ触れておきます。

東京メトロの銀座線が、当時の東京地下鉄道の手により延伸していく過程で、神田川の手前に万世橋(まんせいばし)仮駅を設置したのは有名で、今も地上に地下にと、色濃くその遺構が残ります。

東武東上線の前身、東上鉄道が入間川の手前に暫定の終着駅、田面沢(たのもざわ)駅を設置した例もあります。

両毛線の小俣駅〜桐生駅間の桐生川は明治期に2度に亘って当時の両毛鉄道を不通に至らしめましたが、その際に名前もないような仮駅を拵えて復旧までの繋ぎとしていました。

もっと最近では越後線内野駅の仮駅の例もありますね。

さすがに近年では信号システムが複雑化したことなどからこのような措置は滅多に取られませんが、ひと昔前まではこうした例は全国で枚挙に暇がないと思われます。



旅客の乗り降りの便を図りたいが、駅を作れるほどの需要見込みや余裕がない…。

こうした時に繰り出される、鉄道事業者と住民の強い味方、それが「仮乗降場」だったのかも知れません。


今回はいつにも増して何のまとまりもない駄文長文となってしまいました。

ここまでお読み頂き、ありがとうございました。