2月14日あたりのTwitterではチョコレート色の車両の写真をアップすることで盛り上がっていたようだった。遅ればせながら僕もチョコレート色の車両の話をアップする次第。


昨年10月末にEF58 61号機が大宮の鉄道博物館に納められ、大騒ぎになった。それまで鉄博に行ったことのない人が以降何回も訪れるようになったとも漏れ伝え聞く。とんだ人寄せパンダといったところだろうか。ちょうどその頃、その会社の本社にとある依頼案件で訪れた際の雑談で当機の搬送が話題になり、さすがに管理部門にいるこの幹部はそこまではご存じないだろうと思っていたところ、所管外にもかかわらずかなり詳しいことまでご存じだったのでとても驚いた。ちなみにその方は鉄チャンではない。逆になんで部外者の僕がそんなことまで知っているのかと問われ、ヘラヘラしながら蛇の道は蛇なんですと言ってかわした。さすがに某高校のことに言及するのは控えた。

それはともかくとして、EF58 61号機は60号機と共に製造前からお召専用機として発注されたロイヤルエンジンであり、出自が他の僚機とは違う。いわば生まれながらの(生まれる前からの)エリートだ。特に本務機の61号機は東京機関区に配置され、浜松機関区に配置された予備機の60号機を尻目に絶大な人気を誇った。同機を教祖様と崇める人も多い。なんで教祖なのかはわからない。教祖というより御本尊ではないかと思うのだが。しかし、僕などは「ロクイチ」と呼んではいたものの当機をそこまで崇めるというかのめり込むことはなかった。多くのゴハチの中の特別な1両といった程度であった。

↓追い先短い153系を撮ろうと浜松町駅のホーム端で待機していると、突然単機のロクイチがやってきて慌てて撮影した。東海道本線新橋ー品川(1981.3)

↓この年の夏、リバイバル特急の名目で往年の“つばめ”のヘッドマークを付けたロクイチが14系座席車を牽引して東京・大阪間を走った。食堂車まで連結しているところが今見るとすごい。東海道本線三河大塚ー三河三谷(1981.7)

↓ロクイチが東海道を上るとの情報に慌てて大垣夜行に飛び乗り、関ヶ原に駆けつけた。深い朝霧の中をやってきたのは単機。思わずへたりこんだ。東海道本線関ヶ原ー垂井(1981.12)

↓2年目のリバイバルトレインは“はと”だった。この日は手抜きをして東戸塚付近で撮影した。上空でヘリコプターが舞う中を徐行してやってきた。東海道本線横浜ー戸塚(1982.7)

それはなぜかというと…鉄道車両たるもの、いつかは耐用年数が切れ廃車になる。冷たい言い方かもしれないが、あまり入れ込みすぎると別れが辛くなるということもある。惚れ込んだ蒸機の引退と共にこの世界から足を洗ってしまったという先輩を何人も見てきただけに、この趣味を長く続けるにはそのような感情は却って邪魔とさえ思っていた。とまぁ、そこまで思い入れがあったわけではないが、それでも61号機が走るとわかればそれなりに出撃していたことはたしかである。

EF58 61としての白眉はなんといってもお召列車の先頭に立つ姿であることに誰も異論はないと思う。そのことは別稿に譲るとして、普段着の61号機もなかなか捨てがたい。特にサロンエクスプレス東京がデビューしてからはロクイチとよく似合った。まるでロクイチのために塗色を選んだのではないかと思われるほど惚れ惚れした。ときどき長編成のイベント列車の先頭に立って東海道本線を疾走する姿は往年の全盛期を彷彿とさせた。

本稿ではそんなEF58 61の姿をモノクロでお目にかける。いずれも大学生の頃に撮影した古い写真で恐縮だが、ご寛恕を請う次第である。

↓3年目のリバイバルトレインは“平和”。このときは力が入っていたらしく、仲間数人と共に遠征した。東海道本線函南ー三島(1983.7)

↓久しぶりに訪れた根府川では、3年前に宮崎で知り合った先輩鉄チャンと衝撃の再会を果たした。安定の61号機+サロンエクスプレス東京の組合せ。東海道本線根府川ー真鶴(1983.11)

↓1983年3月から土曜日の臨時踊り子号9023レの牽引機がEF58になった。ロクイチが先頭に立つのはある意味予定調和というか当たり前で、むしろ一般色、なかんづく若番(11・12・14号機)が先頭に立つ日を狙って出撃したものだ。東海道本線川崎ー横浜(1983.11)

↓急遽組まれた団臨を青梅線から東海道本線へとマイカーで追いかけ、清水谷戸トンネルで捉えた。東海道本線横浜ー戸塚(1984.2)