2010年9月11日

流石に9月上旬の昼間に懇々と湧く温泉に浸り続けるのは、意外にありなの

かもしれない。暑さを熱さで制する。

なんて事を言いながら、風呂上りのビールをみやげ物店で購入して、いよ

いよSL人吉号へと乗り込む。

 

名物駅弁立ち売り、菖蒲さんの掛け声も名調子、14時12分、推進運転で

50系客車3両が人吉駅1番ホームへ入って来た。発車30分も前からホームに

入ってくるとはなんというサービスか。

しかも対向の2番ホームには列車は停車しておらず、機関車側は順光にもなる

ので、SL撮るにも記念撮影するにも良い環境が与えられる。

  

この「SL人吉」は、小柄な8620型蒸気機関車に50系客車3両を連ねるのん

びりした雰囲気だが、その半生は壮絶だった。

牽引機の8620型は以前は「あそBOY」として豊肥本線で運転され、好調期

には24系寝台車や気動車急行「くまがわ」編成まで連結した珍ドコ編成で走っ

たりもしたが、2005年運転中に瀕死の重傷を負い、同年8月までギリギリの

状態で走り続ける。

 

ここで一旦死んだも同然だったのだが、JR九州の執念とも言える再生策で

2009年に奇跡の復活を遂げ、運転区間を熊本~人吉へ改めて現在に至る。

元々「あそBOY」時代から出張運転として年間数本この区間を走っており、

更に機関車自体は肥薩線に縁がある。

 

ホームでは記念撮影が盛んだ。ご年配の人も家族連れも、思いと喜びを

一枚の写真に残していた。

この日、これまで乗車して来たどの列車よりも人気があり、「やはりSLは

格が違う!」と実感させてくれる。

発車準備の中で時折蒸気と煙を上げるのはサービスか。

私も、SLの体温、独特の匂い、そして他の鉄道車両にはない独特の存在感

を間近に感じながら、撮影していた。

 

車内に入ってみると、JR九州ではお馴染みの「水戸岡ブランド」そのもの、

遊び心満載で、大胆で、それでいて落ち着きまとまった客室が待っている。

木を基調としているのは新幹線「つばめ」、「はやとの風」などと同様、座席は

ハイカラなデザインのボックスシートで、テーブルがボックス内にあり、食事

にも便利だ。

 

また、読書スペースあり、ミニ模型の展示あり、鉄道列車としては貴重な

ビュフェがあり、そしてなんと言っても最前部と最後部にある広い展望室。

インドア式だが、全面ガラス張りの眺望の良い共有スペースで、流れ行く

景色や機関車の勇士を優雅な気持ちで存分に眺める事が出来る。

この設備は嬉しい。

SLばかりに視線は行くが、実は改造されているとは言えこの50系客車に

乗車出来る事も良い機会だ。

 

さて、車掌氏により乗車を促す鐘が鳴らされる。

続いて車掌氏の発車の掛け声勇ましく14時39分、おもちゃの機関車の様な

コミカルなキーの高い汽笛を上げて、8620形機関車率いる「SL人吉」はゆっ

くりと動輪を回し始めた。

まさに鉄道ファンならずとも感激の瞬間。客室乗務員の案内にも乗せて、今から

球磨川沿いを下って、熊本を目指す。

駅構内や沿線住民のみなさんの注目度もひと際高く、手を振って歓迎、そして

見送っていた。駅弁売りの菖蒲氏の姿も見える。

この「SL人吉」では、この「お互いに手を振り合う」というコミュニケーションに

対して特に力を入れており、時折客室乗務員がその旨を放送で伝えている。

 

それにしても、沿線のご年配の人、撮影カメラマン、子供など、この列車の

汽笛が鳴れば沿線に集まり手を振り、そして乗客も手を振る。

SLを楽しむ以上の、じんわりと旅の思い出として無形の何かが心に残る

ものだ。

それにしても、このコミュニケーション。球磨川でカヌーやボートを漕いでいる

皆さんにも浸透していて、なんとオールを高く掲げて振ってくれるのだ!

乗客もアチラに見えるように、ひと際テンションを上げて手を振り替えしていた。

 

列車は、第二球磨川鉄橋を渡り、球磨川を進行方向右手に従えながら、

ゆるやかな勾配をひたすら下っていく。

天候は引き続き快晴で、青空が球磨川の流れに映りこんで、そして時折キラ

キラと光を放ち、何とも美しい川の風景になった。

元々球磨川は深い山間部や森の中を流れるのでひと際日本らしい風景を作り

げているが、この上快晴とあっては景色を見るだけでも酔いしれてしまいそうだ。

 

さて、列車はまず渡駅に停車し、そして15時ちょうどに一勝地駅に停車した。

ここも温泉場として有名な場所。ホームで地元の物産が販売されていた。

ここでは列車交換も兼ねて8分間の停車。狭いホームではあるが、大勢

の乗客が一旦降りて買い物を楽しんでいる。

対向のキハ31形気動車が単行でやって来た後、15時8分に再びコマを

進める。

このSL人吉は乗り心地としては良好だが、時には客車独特の無骨さも若干

残してある。

 

車窓を流れ続ける球磨川は、長閑な沿岸とは裏腹に、急峻な流れであり、

特に一勝地からは流れが速くなる。

流石に日本最大級の急流と詠われる部分を時折見せてくれるが、特に

巨大な岩が転がっていたり、複雑な形をした岩塊を流れの中に見つけた時、

この岩たちは急流に運ばれ削られたのかという、大自然のチカラというものを

実感する。

 

そしてここで、「風呂上がりのビール」である。

人吉名物駅弁「鮎寿司」でやりたい。素でシメた鮎が大変美味で、酔い

心地を上げてくれる。

 

夏の球磨川ではカヌーやボートが盛んに行われている。こんな急流も、

球泉洞を境にずっしりとした重みを帯びて来る。

この先にある瀬戸石ダムの堰がこの流れを一旦塞き止めているのだ。

白石には15時23分に停車。ここでミニ撮影会が行なわれる。自分は

果敢に対岸ホームに行って、客車からのアングルで列車を撮影してみた。

  

この列車はSL列車ではあるが、車内に煤がほとんど入って来ない。

一応窓は開くが極力開けないという放送もあり、また展望デッキもインドア

スペースなので、顔が汚れたりする事はないのだ。

 

と言っても、「SL人吉」の場合でも、トンネルに入れば煙は多少入って来る。

まぁほどほどにSLの片鱗は味わえる訳だ。

また、後方を見ればSLの残した煙は火事のようにもくもくと立ち込めている。

車内ではご老人も楽しそうである。彼らは沿線の景色を楽しみながら、客車

列車の雰囲気をじっくりと味わっている。

ノスタルジックであり、そして明るい車内の雰囲気にも釣られて楽しそうなのだ。

 

折角ビールも頂いたので、今度は焼酎と行きたい。

とは言っても、くま焼酎ベースで作られたスイーツ、焼酎アイス。これは良い

デザートになる。焼酎のまろやかな風味が良い。

 

ダムを過ぎた後に現れる瀬戸石駅では運転停車。ここで「九州横断特急」に

道を譲る。真っ赤な気動車特急は存在感抜群で、注目を浴びながら去って

行った。

橋梁を大きく跨ぎ、球磨川を左手に移すと、やがて撤去が決定した荒瀬ダムを

わずかに眺め、続いて坂本駅に停車。

この駅の歴史も古く、嘉例川や大隅横川ほどではないが、木造の歴史ある駅舎

を持つ。

 

ここでは石炭補給の為に10分停車する。機関助士がスコップで石炭を

放り込む。

この肥薩線には登り勾配はもう無いが、新八代~熊本をノンストップで

全力疾走する場面があり、その為の仕込みだろう。

この駅では屋根が短い為、人吉駅よりも記念撮影がしやすい。

より機関車の肢体を明確にしながらの撮影が可能。さて、機関車からひと際

強く蒸気が上がる。発車準備が整ったようだ。

 

16時11分に坂本駅を出ると、球磨川に沿って右に左に大きくカーブを切り

ながら進んで行く。

その間球磨川は見る見るうちに川幅を広げ、まさに一級河川として堂々とした

姿へ変化を遂げた。

段駅を過ぎ、頭上に九州新幹線の高架線が姿を表す。タイミングが良いと

「つばめ」がSLにあわせて通過して行くのだが、この日は残念ながらタイミング

合わず。

実現していれば最新鋭新幹線電車と蒸気機関車が上下クロッシングしての競演

となるだけに惜しかった。

 

日本製紙の煙突を横目に八代を出ると、直ぐに新八代。

この新八代からも乗車がある。新幹線でここまで来た後、「折角だから」と熊本

までの道のりに「リレーつばめ」では無くこの「SL人吉」を選択する家族連れだ。

その心遣いはさぞ嬉く、生涯残るものだろう。

 

16時40分、甲高い汽笛を上げて「SL人吉」は全力疾走に入る。

特急「リレーつばめ」では20分あまりの新八代~熊本を、運転停車無しで40分

あまりかけて走る。

ゆっくりモコッとした起動から速度に乗ったが最後、緩める気配はまったく無い。

新幹線アプローチ線、工事中の九州新幹線高架を横目に、西日を浴びながら

熊本平野を走る走る!

蒸気音をテンポアップし、裏返った汽笛を連発し、そして豹変した走りにはさすが

に黒煙を上げて、更にその黒煙は背景の高架線を隠してしまった。

悲しいかな速度はざっと時速80キロ程度だろうが、展望室から観る景色では

もっと速く感じる。こんな賢命の力走なのだ。最後のハイライトが高速運転とは、

なんと壮絶な演出。

 

そんな「SL人吉」も、川尻あたりから速度を緩める。九州新幹線基地を横目に、

終着駅熊本への到着準備だ。

そこに車窓右手に黒い車体が現れた!

豊肥本線観光列車である「あそ1962」の姿だ!

なんとここに、キハ58系という、日本の高度成長期を支えて来た名車と、先代の

豊肥本線観光列車であるこの8620型が併走、ここに両千両役者が競演すると

いう、ファンでなくても鳥肌が立つ瞬間が生まれ、車内が湧く。

 

熊本駅が近付くにつれて接近する「あそ1962」からはプラカードによるメッセージ

が掲げられ、しかもあちらの乗客が手を振っている。

勿論、こちらからも手を振り返す。

並んで走る2つの列車、時刻表の上でも両列車は17時21分同時到着となって

おり、この両雄の同時到着と同時開催のイベントまでが演出として組み込まれて

いるあたりにJR九州の「遊びごころ」というか心ニクさを感じるんだなぁ。

なんというか、停車するその瞬間まで楽しめるじゃないですか。

 

この約3時間の楽しい旅の締めくくりには機関車の古さを感じない、丁寧な

ブレーキさばきでほとんど衝動無く熊本駅へ到着するという匠の技術が披露

され、時刻は17時21分にわずかに早着。

 

しかしそんな事を気にする者など自分ひとりであり、車内から熊本駅に、たくさん

の笑顔が降りて行った。

ホームでは記念撮影が繰り返され、多くの人がイベントアフターも楽しさを逃すまい

と、「保温」につとめるのだ。