東急8500系の引退に寄せて | 書斎の汽車・電車

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 先月、東急8500系が全車引退したとのニュースがありました。

 

 何しろ、一大勢力を誇った電車でしたし、乗り入れ相手の地下鉄半蔵門線内でも一番見かける機会が多いのがこの8500系でしたから、全車引退といわれても何となくピンときません。今でもまだ走っているのではという錯覚にとらわれてしまいます。

 

 私にとっては、東急8500系といえば、新玉川線というイメージが今でも強いのです。新玉川線という呼称が田園都市線に統一され、「二子玉川園」駅が「二子玉川」に改称されたのは平成12(2000)年8月6日のことですから、もう20年以上が経っていることになりますが、未だに「新玉川線」「二子玉川園」と言ってしまうのだから困ったものです。

 しかしまあ、新玉川線の開業(昭和52年4月7日)というのは、そのくらいインパクトの強い出来事だったのですよ。公共事業的色彩の強い地下鉄の建設を、東急という民間企業がやってのけたのですから。そして、その翌年、昭和53(1978)年8月1日には、新玉川線と直通する営団地下鉄半蔵門線が、渋谷~青山一丁目で開業しますが、開業当初営団は車輛を用意せず、東急8500系のみで運転されました。この時代の半蔵門線は、何だか新玉川線の一部みたいでした。これはその翌年9月21日に、半蔵門線が永田町まで延伸されても変わりませんでした。

 

 営団の8000系がデビューしたのは昭和56(1981)年4月1日のこと。その後半蔵門線は半蔵門まで延伸(昭和57年12月9日)されますが、建設反対運動にあいしばらくここでストップ、三越前までの延伸は平成元(1989)年1月26日、その後は水天宮前(平成2年11月28日)、押上(平成15年3月19日)まで開通し、この押上開業後は東武線との相互乗り入れも始まります。こうした中でも東急8500系の存在感はきわめて大きかったと思います。営団線内は言うに及ばず、遠く久喜や南栗橋まで足を延ばし、東武線内でも「大きな顔」をしておりました。一見すると地味な食パン顔のステンレス車体の電車なのですが、シンプルなデザインゆえに印象が強かったということでしょうか、それともやはり数が多かったのが強みだったのでしょうか。

 東急8500系をどう評価するかということになりますと、まあ色々なご意見はあろうかとは思いますが、これだけ長期間にわたり主力として活躍してきたのですから、やはり高い評価をすることになります。関東私鉄1970年代通勤車の完成形であったというのが私の評価です。

 

 私のコレクションから、東急8500系関連のものをご紹介しておきましょう。まずは、「77新玉川線開通絵はがき」です。

 8500系はタトウ(カバー)に描かれています。中身の絵はがきは「玉電」の歴代車輛のイラストです。

 

 続いては、『新玉川線建設史』(昭和55年・東京急行電鉄)です。

 営団地下鉄は、線区ごとに立派な『建設史』を刊行していました。(これは東京メトロにも引き継がれています)新玉川線を建設した東急も、負けてはならじと本格的な『建設史』を出しました。その「Ⅵ車両編」は、丸ごと我らが8500系に関する詳細な解説となっています。

 私の手元にある『新玉川線建設史』、運輸関係の某研究機関の旧蔵本のようですが、奇跡的に「函」も残っていました。

 

 東急8500系とえば、最近ではその走行音が「爆音」などと称されていたようですが、私の印象をいえば、それほどうるさい電車ではないと思うのですが、こればかりは最近の新車に慣れた若いファン諸氏とは、感じ方が違うということなのでしょう。

 

 東急8500系、本当にお疲れ様でした。