C51-239号機 お召し指定機 / 京都鉄道博物館 | 安芸もみじ / Photos, Historys, Trains - Hiroshima JAPAN

C51-239号機 お召し指定機 / 京都鉄道博物館


新年最初の通常記事は、蒸気機関車からスタートです。

やはりお正月明けと言うことで、お召し列車の牽引機をUPします。

今回UPする元 お召し指定機は、京都鉄道博物館に静態保存されている、C51-239号機です。

まずは安芸もみじに初登場の形式なので、C51形蒸気機関車の簡単な説明から入ります。

大正時代の名機 9600形の設計を新時代に向けて見直しを行い、諸外国で高速機関車に用いられる2C1(パシフィック)形軸配置を、国産設計の蒸気機関車として初めて採用し、1927(昭和2)年に登場した新性能蒸気機関車でした。

アメリカ合衆国から輸入し運用していた 8900形に続く新形式として、誕生当初は 18900形という形式名が与えられていました。

常用最高速度を100km/hに設定して設計され、動輪の常用最大回転数から逆算して、1m75cmという設計当時の狭軌用蒸気機関車では、世界最大の動輪直径が導出されての大型機関車です。



この機関車の基本設計は後のC57形やC59形へと引き継がれ、動輪直径は戦後の蒸気機関車最終形式 C62形まで、旅客用大型機関車のスタンダードとなりました。

動輪はスポークホイールを履いていますが、初期型 C51-163号機まで17本のスポークを用いたものの、スポークの折損事故が多発したためその対策として、C51-164号機以降は18本に増強されています。

従来機と比較して超越的な性能向上が実現された機関車で、牽引力・高速性能・信頼性において高い水準を達成した故、1920年代から1930年代には東海道・山陽本線を始め、主要幹線の主力機関車として重用されました。

1930(昭和5)年の特急″燕″誕生時、専用機に指定されたC51-171・208号機及び247~249号機は、東京~名古屋間約300kmのノンストップ運転実施のためにテンダーを容量の大きいC52後期形と振り替え、水30tを積載可能な水槽車を増結して運転は有名なお話しです。

東京~神戸を特急″富士″より2時間半早い、8時間20分で走破しました。



しかし、輸送量の増加による編成の長大化や、重量の大きな鋼製客車の主流化などにより、牽引定数が超過し始めると新型のC53形やC59形などに追われて、1930年代後半以降は東海道・山陽本線の優等列車牽引から退きます。

1939(昭和14)年には、C51-8・28・30・33 - 35・88・95・96・116・130 - 132・173・175・178の16機が標準軌仕様に改造されて海を渡ります。

中国の華中鉄道に譲渡されたC51形は、華鉄パシナ形とあたらしく形式が付与されて、主に中国領内の江南を中心に南京~上海間で運転されました。

一般的にパシナ形と言えば南満州鉄道の特急あじあ号の牽引機を指しますが、華中鉄道ではC51形がパシナ形でした。

華中鉄道株式会社(華中鐵道股份有限公司)とは、日中戦争によって華中地域の運営を行う事になった日本・中華民国維新政府・南京国民政府の3者による合弁特殊法人です。



華中鉄道の運営は南満州鉄道へ委託され、満鉄は実質嫌々ながら運行や駅業務・保線など全般を請負ましたが、パシナの形式は整理されることなく満鉄と華鉄にそれぞれ存続し続けました。

中華人民共和国成立後は満鉄パシナ形はSL-7形、華鉄パシナ形はSL-9形となり、1980年代後半まで中国のC51形(SL-9)は存在確認されていましたが、1990(平成2)年には存在せず形式消滅していました。

日本国内では戦後も適度な大きさから地方幹線の旅客列車に重用されていあものの、動力近代化計画が実行に移されると早々に廃車が進められ、1965(昭和40)年に全車が定期運用を退きました。

日本国内での最終廃車は1966(昭和41)年2月の C51-251号機でしたが、余談なものの C51-61号機は流線形試験車両だったことも、一言記しておきます。

そして今日の記事の主役であるC51 239号機は、品川機関区のお召し列車専用機に指定され、1928(昭和3)年11月の昭和天皇御大礼から1953(昭和28)年5月の千葉県下植樹祭までに、通算104回という牽引回数をこなし、歴代では電気機関車のEF58-61号機に匹敵する名機でした。



また、1930(昭和5)年の特急″つばめ″の試運転ですが、ノンストップ実験を実施したのもC51-239号機でした。

では恒例の履歴書を綴りたいのですが、お召し指定機で104回総ての記録を記すのは、現実的に不可能だったりします。

なので、戦前・戦中(但し昭和19~20年の運転は行われていない)の軍事御用のお召し列車は、省略することとします。

1927(昭和2)年3月29日 火曜日、汽車製造大阪にてNo.936として新製されました。 

デビュー時の形式は 18900形 38938号機で、東京鉄道管理局へ配属され、品川機関庫(東京都)へ4月1日付けで新製配置となり、4月19日から運用へ就きました。



1928(昭和3)年10月1日、称号規程改正による形式変更及び改番が実施され、18900形 38938号機は5月17日付けで C51 239号機となります。

また同時期にお召し列車牽引指定機となりました。

1928(昭和3)年11月6日、昭和天皇即位御大礼お召し列車を、東京~沼津間にて供奉車230 + 同121 + 賢所車(神霊奉安用)+ 供奉車120 + 御料車12号(天皇陛下用)+ 御料車8号(皇后陛下用)+ 供奉車126 + 同127 + 同100 + 同125 + 同231(東京発 08:00 → 沼津着 11:03)の本務機を務め、初めての大役をこなします。

1928(昭和3)年11月27日には、昭和天皇即位御大礼お召し列車として上り列車を沼津発 12:27 → 東京着15:30で牽引。

1930(昭和5)7月3日、この年の10月ダイヤ改正で登場する特急″燕″号の試運転列車を、機関車交換作業や給水時間を省略するため、東京~名古屋間ノンストップ牽引を務めました。



1932(昭和7)年には、新 1号編成完成試運転列車を、東京~名古屋間1往復牽引しています。

この新1号編成は鉄道省大井工場で製造された初の鋼製車体のお召し編成で、1876(明治9)年に製造された初代に次ぐ2代目の1号御料車を有します。

一般の旅客用客車は1926(大正15)年の設計車から鋼製車体が採用されていましたが、新1号編成では台車も振動や揺動が少なく軽量な軸バネ方式の新型台車が搭載され、新しい鋼製の御料車と供奉車6両(300・330・340・400・460・461)が誕生しました。

新1号編成が剛体となったのは、1932(昭和7)年1月8日の代々木練兵場からの帰途にあった天皇陛下の馬車に爆弾が投げられるという事件(李奉昌事件)があった所以でした。

1936(昭和11)年9月1日より、職制変更が行われて品川機関庫は品川機関区へ呼称変更となります。



1937(昭和12)年11月、 品川機関区(東京都)から新鶴見機関区(神奈川県)へ移籍します。

1940(昭和15)年6月14日、多摩陵参拝のお召し列車を原宿~東浅川間で往路のみ牽引。

1941(昭和16)年6月10日、多摩陵参拝お召し列車を原宿~東浅川間で往路のみ牽引。

1945(昭和20)年8月の終戦は、新鶴見機関区にて迎えます。

1946(昭和21)年3月28日、埼玉県行幸お召し列車を原宿~熊谷間・鴻巣~川口間で牽引。

1946(昭和21)年6月6日、天皇陛下戦災復興視察 千葉方面行幸お召し列車牽引ですが、運転区間は東京~成田~佐原~銚子なものの、C51-239号機は成田までの任務で、陛下は大戸で下車の後に佐原から再乗車。



銚子はアメリカ軍の艦砲射撃と無差別空爆で、まともな旅館や邸宅が皆無のため、新生貨物駅構内にて御料車を回送し車中泊となったようです。

大戸下車は大利根治水事業と両総用排水改良事業視察のためで、銚子~千葉~犬吠埼~東京は公用車を使用されたようです。

1946(昭和21)年11月18日、天皇陛下戦災復興視察 茨城方面行幸お召し列車を、東京~日立~水戸間で牽引し、天皇陛下は茨城県庁にご宿泊。

翌19日は水戸~石岡間・土浦~東京間にて、戦災復興視察 茨城方面行幸お召し列車を牽引。

1947(昭和22)年を迎えると、東京周辺は電化が進捗しておりC51によるお召し列車運転は激減しました。

状態維持と慣らし運転を目的に、検査出場の客車の試運転用に東海道本線 大崎~小田原間を随時牽引走行して過ごします。



1951(昭和26)年4月4日、群馬県全国植樹祭行幸お召し列車を、原宿~前橋~原宿間で牽引しましたが、 皇太后陛下の容態が重篤であったため国旗掲揚および菊紋取付無しでの運行でした。

1951(昭和26)年5月17日、皇太后陛下(貞明皇后と追号)が崩御され、同年6月22日の斂葬の儀を中心として、一連の大喪儀の儀式が行われて事実上の国葬とされました。

武蔵稜まで霊柩をお連れするため、東浅川へ臨時仮駅を作り、 原宿 宮廷ホーム 13:50発 → 東浅川 14:50着のダイヤにて、貞明皇太后御大葬お召し列車の牽引任務に就きました。

1952(昭和27)年10月22日、東北3県(福島・宮城・山形)国体行幸啓お召し列車を、上ノ山~原宿間で牽引しましたが、米沢~福島間では EF16-6号機が前補機に付きました。

1952(昭和27)年12中旬、 新鶴見機関区(神奈川県)から大宮機関区(埼玉県)へ移籍。



1953(昭和28)年4月4日、千葉県全国植樹祭行幸お召し列車を、両国~千葉間にて牽引。

皇居~両国間は公用車にて移動された模様です。

1953(昭和28)年7月9日にEF58-61号機が落成し、東京機関区(東京都)へ7月17日付けで新製配置。

1953(昭和28)年7月27日にEF58-60 号機が落成し、浜松機関区(静岡県)へ7月30日付で新製配属。

1953(昭和28)年9月13日、大宮機関区(埼玉県)から尾久機関区(東京都)へレンタル移籍をしますが、1954(昭和29)年4月1日付けで正式に尾久期間区へ転属となります。

1954(昭和29)年9月、お召し指定機から外れ、その高貴な役目を終えました。



1955(昭和30)年4月4日、尾久機関区(東京都)から直江津機関区(新潟県)へ都落ち転属したのを転機に、未正確ではありますが、それまで未搭載だった給水温め器が煙突の後ろ側へ取り付けられたと言われます。

1958(昭和33)年10月2日、直江津機関区(新潟県)から新津機関区(新潟県)へ転属。

1959(昭和34)年7月1日、新津機関区(新潟県)から新潟機関区(新潟県)へ転属。

北陸・上越・羽越の各路線で過去の栄光を胸にローカル輸送に従事して8年を過ごした後、1962(昭和37)年6月11日付けで第一種休車指定となりました。

1962(昭和37)年10月26日付けで余剰廃車となり、国鉄長野工場へ廃車回送されて解体処分の順番待ちとして放置車両となります。



C51-239号機が解体待ちとなったことから、その経歴を知る有志が集って保存運動が行われて、新潟鉄道管理局が保存に向けて調整を始めます。

1963(昭和38)年9月23日、国鉄長野工場から万代貨物線経由で国鉄新潟教習所構内へ回送。

1963(昭和38)年10月14日、準鉄道記念物に指定され記念セレモニーの後、国鉄新潟鉄道教習所にて静態保存されました。

ところが1964(昭和39)年6月16日13時1分40.07秒、新潟沖粟島南方約40km地点の深さ34km地点を震源とした最大震度6・M7.5の地震が発生しました。

日本の歴史上、最大級の石油コンビナート災害をもたらした地震で、143基の石油タンクが延焼しその火災は12日間に及びます。



30分後には津波警報が発令されましたが、既に沿岸では第1波の最大6mの津波が襲った後であり、新潟市では高さ4m、中国地方の島根県隠岐諸島でも冠水被害が出るなどの被害に襲われました。

C51-239号機も転覆して土石流に飲み込まれ、被災地の復興が急がれる中で約2ヶ月間放置されました。

鉄道教習所での展示物だったことが幸いし、8月には脱線復旧訓練を名目に復旧作業が行われます。

まもなく復元されて再び静態保存機として展示されましたが、1966(昭和41)年末7月に新潟鉄道教習所が鉄道学園として新津に移転してしまい、 C51-239号機は側線留置のまま取り残され、子どもの遊び場と化していきます。

そして管理者が無くなったことから荒廃し、もはや朽ち果てるのを待つだけの状態に、再び解体処分の危機に見舞われます。



1968(昭和43)年3月26日の日本国有鉄道常務会で、明治維新以降日本の近代化と輸送を支え続けた蒸気機関車が、間もなく姿を消してしまうことに対し、貴重な産業文化財と位置づけを明確し、動態保存を目的とした日本初の施設を設置することが決定されました。

既に全機廃車となっており現役機が存在しないC51形は、首都圏を中心に最多のお召し列車を牽引した239号機に、梅小路機関車館への収蔵候補として白羽の矢を立てられます。

1972(昭和47)年10月10日、国鉄により日本の鉄道開業100周年を記念して、京都市下京区にある梅小路機関区の扇形庫を活用してオープンしました。

1972(昭和47)年9月27日、屋外放置されていた機関車は荒廃が著しかったため、2ヶ月ほどの整備を国鉄長野工場で念入りに施して、梅小路蒸気機関車館に1ヶ月半遅れで移送し保存されました。

2004(平成16)年に梅小路機関区90周年を記念して、かつてのお召し装備を復元した際、お召し指定機時代の姿へ近づけるため、給水温め器が取り外されをます。



ところでお召し列車(御召列車)とは、天皇・皇后・上皇・上皇后・太皇太后・皇太后がご乗車されるために、特別運行される列車です。

ちなみに上記以外の皇族のために運行するご公務列車は、お召し列車とは呼ばず御乗用列車と呼びます。

1972(明治5)年10月14日の鉄道開業時に、お召し列車は明治天皇がご乗車して以来、第二次世界大戦を挟んで長きにわたり運行されています。

旧 皇室典範では、即位の礼と大嘗祭は京都で行うと定められていたため、お召し列車は東京~京都を運転され、その際には三種の神器のうち八咫鏡を旅させる「賢所乗御車」が連結されました。

昭和の時代は長ったこともありますが、戦前と戦後で日本の国内体制や国際的立場も変わったため、特にお召し列車の運転は数多く行われていました。



戦前では軍事関係の行事で全国の師団駐屯地や鎮守府などへご行幸される際にも運転された他、ご休暇を過ごされる行楽地や別邸への最寄駅までの運転もありました。

戦後においては戦没者や被災地への想いから、昭和天皇は全国をご行幸されたので、数多くのお召し列車が運転されました。

しかし国の機関だった国鉄が分割民営化されると、天皇陛下や皇族の方々は民間企業となったJRに対してご遠慮をされるようになります。

お召し列車の運転機会は特殊な公務に限られ、JR東日本ではE655系電車なごみ、JR西日本には14系客車サロンカーなにわが、お召し機能を備えた車両として存在しています。

さて、今日の記事の写真ですが、転車台を中心に八方から撮影しています。



似たような写真が多いと言うことなかれで、京都鉄道博物館へ収蔵されている、いろんな車両と合わせて撮りたかった故の写真です。

他の蒸気機関車はもとより、展望車マイテ49や50系客車 オハフ50はもちろんのこと、実は隠れ車両とも苦労して見える場所を探しての撮影です。

EF58-150号機は分かりやすいと思いますが、20系客車 ナシ20と旧客食堂車 スシ28も、こっそりと存在を主張しています。

もし良ければ探してみてくださいね。

そしてラストには本文と関連がある写真も、満鉄パシナや戦前のお召し装飾など、いろいろ貼ってみました。




京都鉄道博物館収蔵資料の装飾用備品は、梅小路機関区のオリジナル意匠なので、その他の全国版とはややデザインが異なっているところが面白いです。

京鉄博 保存展示中の菊花紋の下には、戦艦大和艦首・靖国神社・1号御料車・E655系・EF58-60号機の、十六弁八重表菊花紋をアソートしました。

サロンカーなにわのテールマークにはJR西日本と入るだけで、菊花紋のデザインは入りません。

十六弁八重表菊花紋は鎌倉時代の後鳥羽天皇から始まる天皇家の紋章で、他の菊花紋とは区別されています。

最後の4枚も参考写真として貼りましたが、お召し装飾のまま一般運用へ戻ったC59-83号機で、特急かもめ担当中の貴重な写真です。

続いてはEF59-16号機でJR貨物 広島車両所で屋外展示されていました。



EF59-16号機は EF53-17号機から峠攻めのシェルパへと改造された機関車でしたが、EF53だった頃にはお召し指定機でした。

ラストの写真はお召し指定機EF58-60号機(奥隣)とEF58-61号機(手前)の並びで、こちらも貴重な写真です。

EF58 61号機は昨2022(令和4)年鉄道博物館へ収蔵され、10月30日から常設展示機として一般公開されています。

EF58 60号機は国鉄終焉直前の1983(昭和58)年5月17日に廃車となり、保存されることはなく大宮工場で解体されました。

EF59 16号機も1984(昭和59)年7月30日付けで廃車となって以来、広島車両所で保存展示されていたものの、昨2022(令和4)年2月に突然解体処分されてしまいました。

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