蒼き山なみを越えて 第44章 平成11年 いいなかライナー号 | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

昭和50年代まで、中央本線の下り列車に乗って岡谷駅を発車すると、北西方向の塩尻・松本方面に向かうはずなのに、線路は、諏訪湖から流れ出る天竜川に沿って、ぐいぐいと左方向、つまり南方の山間に分け入っていた時代があった。

伊那谷の入口である辰野駅を過ぎると、今度は右側へ鼻先を転じて北上を始め、ようやく安曇野に出る。

「大八廻り」と呼ばれるルートである。

 

 

諏訪湖沿岸の岡谷と、安曇野の南端の塩尻との間には、塩尻峠の険しい山塊が立ちはだかっている。

それを避けるように、U字型に峠の南側を回る形で、岡谷駅と塩尻駅間の線路が敷設されたのは、明治39年のことだった。
距離にして27.2km。

我が国で、特に信州で鉄道や道路が山を迂回することなど珍しくも何ともなく、そういうものなのだ、と気にも止めずに列車に揺られていたものだったが、昭和58年7月に塩尻峠を貫く塩嶺トンネルが完成し、岡谷駅と塩尻駅を一直線に短絡した新線が11.7kmであることを知り、15km以上も遠回りしていたのか、と驚いた。

 

 

明治期に中央本線の計画が持ち上がった時に、諏訪湖の沿岸から名古屋まで、木曾谷を通すのか、伊那谷経由にするのかが論争となり、結果として木曾谷に線路が敷かれた。

 

ところが、伊那谷出身の代議士で、当時の鉄道局長だった伊藤大八は、諏訪地方から塩尻峠をトンネルで抜けて塩尻へ向かう案を撤回させ、辰野を経由させるようにしたと云う。

彼の出身地や線形を見れば、東京と中信地方の所要時間を少しばかり犠牲にして、伊那谷の便を図ったように見える。

いわゆる我田引鉄と受け止められ、辰野経由の迂回部分が「大八廻り」と呼ばれる所以である。

 

 

塩嶺トンネルの開通後、辰野経由の区間は支線になってしまい、大半の列車は塩嶺トンネルで直行するようになった。

岡谷駅から辰野駅にかけての東半分は、飯田線へ乗り入れる列車が行き交う。

かつて、飯田線の列車は辰野駅を起終点にしていたが、塩嶺トンネルの開通後に、中央東線と飯田線の接続駅は岡谷駅に移ったのである。

 

西半分の辰野駅と塩尻駅の間は、1両の電車が寂しく行き来するだけとなった。

当時、国鉄の長野鉄道監理局は、長野や松本周辺で「エコー電車」と銘打った頻回運転のシティ電車を走らせ始めており、中央東線の旧線の西側区間を走る電車にも「ミニエコー」という愛称がつけられたが、使われているのが荷物車を改造した質素な車両であるから、取り繕っているようにしか思えなかった。

 

 

辰野経由が我田引鉄ではなく、明治時代の技術力では塩尻峠を貫く長いトンネルを掘るのが難しかったのだ、という説もある。

塩嶺トンネルの長さは5994mで、明治期に日本一の長さを誇っていた中央東線笹子トンネルの4656mを上回り、フォッサマグナの影響で地盤も悪く、実現には相当の困難を伴ったはずである。

いずれにしろ、東西を結ぶ幹線鉄道から外れて、伊那谷から東京・名古屋への行き来が不便になったのは否めない。

 

古来から、伊那谷は名古屋文化圏との結びつきが強く、方言も名古屋弁によく似ている。

飯田にある父の実家で話されていた言葉は、長野市とは大分違うんだなあ、と子供心に感じていたが、後にテレビなどで名古屋弁を耳にすると、そっくりじゃないかと驚嘆した覚えがある。

 

中央西線が木曽谷を経由したので、伊那谷から名古屋に行くためには、辰野駅まで戻るか、飯田線を延々3~4時間かけて豊橋駅まで南下し、東海道線に乗り換える必要があった。

平成8年から運転されている飯田と豊橋を結ぶ特急列車「伊那路」でも、129.4kmを2時間半も費やす区間なのである。

 

特急「伊那路」の前身は、昭和36年から名古屋と辰野の間を飯田線経由で運転していた急行「伊那」であるが、「中央道特急バス」に利用客を奪われて昭和58年に廃止されている。

特急「伊那路」が登場した時は、どうして名古屋に足を伸ばず豊橋止まりなのか不思議だったのだが、線形が悪くて高速運転が出来ない飯田線では、たとえ特急列車でも高速バスには勝てない、と諦めて、中央道と離れている豊橋-飯田間の地域輸送に徹したのだろう。

 

 

伊那谷と中京圏の行き来の不便さを解消するために計画されたのが、中央西線と飯田を直結する国鉄中津川線だった。

 

最初に構想が浮上したのは大正時代と言われている。

当初は飯田と木曽を結ぶ計画だったが、昭和40年代に、岐阜県中津川市に向かうルートに変更された。

計画された経路は、飯田駅-伊那中村駅-伊那山本駅-阿智駅-昼神駅-神坂トンネル-神坂駅-美濃落合駅-中津川駅。

中津川駅で中央西線に乗り入れる直通列車により、中京圏と伊那地方を直結する線区として、地元の期待は大きかったようである。

 

 

昭和40年代は、国鉄新線が建設ラッシュの時代だった。

同時期に着工していた路線として、久慈線、盛線、野岩線、北越北線、智頭線などが挙げられる。

結果として、中津川線の予算配分が少なくなってしまい、最大の難所である木曽山脈を貫く神坂トンネルには殆んど着手できなかったと聞く。

 

やがて中央新幹線の計画が持ち上がると、伊那谷では中津川線より新幹線の誘致を重視するようになり、熱意が薄れたと云われている。

昭和50年に、長野と岐阜県境を貫く恵那山トンネルが完成して中央自動車道が開通すると、中津川線の存在価値は更に少なくなった。

 

 

中津川線の建設工事は、伊那山本駅から二ッ山トンネルにかけての路盤とトンネルが完工していたものの、全長10kmに及ぶ神坂トンネルの調査坑がわずかに掘られたのみだった。

 

昭和51年に、中津川線の建設のために計上された22億5000万円の予算が、他線の建設に流用された。

昭和55年、国鉄再建法によって建設予算計上が見送られ、工事は凍結。
平成元年に、建設用地が国鉄清算事業団に譲渡され、計画は事実上頓挫した。

 


中京圏と伊那地方を直結する役割は、中央自動車道を運行する「中央道特急バス」が担っている。

 

前述したように直通する鉄道がなかったことから、飯田と名古屋を結ぶ長距離バスの歴史は古く、昭和13年まで遡る。

ただし、戦時中の燃料統制で運休に追い込まれ、昭和27年に、国道153号線で足助と根羽を経由する「名飯急行バス」として再登場していた。

昭和50年の中央道開通に伴って高速道路に乗せ替え、「中央道特急バス」名古屋-飯田線として生まれ変わった。

60年以上も走り続ける老舗路線の、現在の所要時間は2時間程度である。


「便利になったもんだよ」

と、父の実家でもよく話題になっていた。

僕も利用したことがあるが、乗り足りないと思うくらいに呆気ない名古屋への旅だった。


 

幻で終わった中津川線の置き土産として知られるのは、神坂トンネルの水抜きボーリング中に湧き出た昼神温泉である。

今や名古屋の奥座敷と呼ばれ、保養センターやクアリゾートがあるのは、かつての昼神駅や神坂駅の予定地である。

年間60万人近くが訪れる昼神温泉は、中津川線によってもたらされた地域の財産と言える。

同線に投じられた予算が一概に無駄にならず、結果として地域振興に繋がったのが、せめてもの救いであろうか。

 

「もともと田畑だったこのあたり一帯が温泉地として開発されていって、伊那谷最大の観光地になったのは隔世の感がある。たまたま中津川線の掘削最中に温泉が出たということで、そういう点では天からの恵み」

 

と、当時の阿智村の村長が語っている。



平成10年4月に、驚くべき高速バスが誕生した。

飯田と中津川の2都市間を結ぶ路線として、中央道を経由する高速バス「いいなかライナー」号が運行を開始したのである。

運行区間は、まさしく中津川線の再来であった。

 

中津川駅で中央西線の特急「しなの」や快速「セントラルライナー」と連絡し、名古屋への新たな移動手段として登場した。

特急「しなの」と乗り継げば、名古屋と飯田を最速1時間40分程度で結ぶ速達性が売りだった。
1枚あたりの価格が「中央道特急バス」の運賃より安くなる回数券も発売されたようである。

 

ところが、「中央道特急バス」の1便あたりの平均乗車人員が20人であったのに対し、「いいなかライナー」号は僅か6人程度と振るわず、平成16年10月に廃止されてしまった。

中津川駅での乗り換えが嫌われたのであろうか。

「中央道特急バス」の所要時間が特急便で2時間08分、20分程度の短縮に飛びつくようなせわしない人間が、飯田には少なかったのだろう。

 

 

平成11年の正月が明けたばかりの日、長野市の実家に帰省していた僕は、長野県庁停留所で、12時40分に発車する飯田行き「みすずハイウェイバス」を待っていた。

比較的暖冬の冬であったが、この日は容赦のない寒風が吹きつけて来て、風邪をひくのではないかと真剣に心配した記憶がある。

実家に近くて便利であったが、何処にも身を隠すような場所のない簡素な停留所だった。

 

東京に戻るつもりなのに、わざわざ飯田行きの高速バスに乗ったのは、前年に開業したばかりの「いいなかライナー」号に乗りたかったからであるが、前座とも言うべき「みすずハイウェイバス」も楽しみであった。

 

 

「みすずハイウェイバス」が昭和63年に開業した時は、長野自動車道が未完成だったので、国道19号線で筑摩山地を越えて安曇野に出るという、まだるっこしい経路であった。

それでも、故郷の長野市に初めて登場した高速バスという理由もあって、何度も利用したものだった。

 

平成5年に長野道が全通し、「みすずハイウェイバス」も長野ICから飯田ICまで高速道路に乗せ換えて、大幅な時間短縮が果たされると、逆に縁遠くなってしまったのは皮肉な話である。

母と一緒に父の実家に向かうなど、飯田との行き来は増えたのだが、自家用車やレンタカーを使うことが多くなった。

信州は、すっかり車社会になっていた。

比例して、地域の路線バスの廃止や運行本数の削減が相次ぎ、高速バスを降りてから目的地での足に困る羽目になるので、自分1人ならともかく、高齢の母を伴う場合は車を使うしかなかった。

高速道路が出来れば、高速バスも便利になるが、同時にライバルの自家用車も便利になる、という悪循環の一例である。

 

それでも、長野と飯田の間が3時間を切ると言う、信州の公共交通史上で空前の速達性を、いつかは味わってみたいと思っていたので、良い機会だった。

 

 

前年の冬季五輪が終わり、反動で意気消沈しているように見える長野市の街並みを走り抜け、姨捨付近で善光寺平の眺望を堪能し、幾つもの長大トンネルで筑摩山地を貫いていく長野道のスピード感は、実に爽快だった。

贅沢な道路を造ったものだ、と感心する。

 

飛騨山脈の暗い山々を見遣りながら安曇野を通り過ぎ、塩尻峠に差し掛かれば、ここでも長いトンネルが次々と姿を現わす。

全線開通に先んじて昭和63年に開通した長野道の塩尻-岡谷間は、最初から、塩嶺トンネルを通る中央東線の新線に沿っていて、塩尻峠を越える鉄道を造れなかった明治期の建設技術と比べれば、その進歩に圧倒される。

ただし、カーブは多いし、車の量が増えてくるので、何となく息が詰まるような区間である。

峠を抜けて、諏訪湖を見下ろしながら岡谷高架橋を渡り始めた時には、肩の力が抜けたような気分だった。

 

 

木曽山脈の山裾を南下しながら、左手に広がる伊那谷と、その向こうの赤石山脈を眺めているだけで、故郷の豊かな景観に心が和む。

信州はいいな、と思う。

長野新幹線であっという間に東京へ着いてしまうよりも、遥かに気の利いた経路ではないか、と自画自賛したくなる。

 

河岸段丘に設けられた飯田ICを出て、定刻通りに飯田駅へ到着した時は、長野-飯田間2時間57分の俊足に、すっかり魅了されていた。

 

 

僕は、飯田駅を16時45分に発車する「いいなかライナー」20号に乗り込んだ。

 

開業当初の「いいなかライナー」号は1日12往復で、当時13往復が運行されていた「中央道特急バス」名古屋-飯田線に匹敵する本数だった。

駅の「みどりの窓口」で乗車券を購入することも出来るので、JR東海バスが積極的に開設した路線だったのだろう。

後発路線でありながら、先輩の「中央道特急バス」に負けるものか、という意気込みを窺わせる。


だが、黄昏の飯田駅を発車した「いいなかライナー」20号の車内は、閑散としていた。

数人しか乗っていなかったのではないか。
「中央道特急バス」ではなく、特急「しなの」を使いたい急ぎの客は、中津川駅に自家用車で向かってしまうのかもしれない、と思ったりする。

中津川駅に駐車場があれば、の話であるけれど。


冬の日暮れは駆け足で、西陽は木曾山脈の陰にすっかり隠れ、飯田市街は仄かな残照に照らされていた。

人通りは少なく、並木も葉を落としている木ばかりで、暖房の効いた車内にいても身が震えてしまいそうな、寒々とした車窓だった。

もう少し早い時間帯のバスにすれば良かったかな、と思う。

 

飯田ICから中央道に乗れば、バスの速度が小気味よく上っていく。
飯田ICから先は木曽山脈の南端に踏み込んでいくので、地形は険しく、曲線もきつい山岳ハイウェイである。

寂しい車内と対照的に中央道の交通量は多く、団子状態で密集する車の群れからなかなか抜け出せず、「いいなかライナー」号も走りにくそうに見える。

高速バスで何度も通ったことはあるけれど、いつも、ハンドルを握る運転手の緊張が伝わってくるような区間である。

 

「いいなかライナー」号の旅路は50分にも満たないが、圧巻だったのは、何と言っても恵那山トンネルだった。

 

中央道が初めて産声を上げたのは、調布と八王子の間が開通した昭和42年であるが、愛知県側でも、昭和48年に多治見-瑞浪間が、昭和50年に瑞浪-中津川間と中津川-駒ケ根間が相次いで完成し、初めて信州に高速道路が伸びたのである。

岐阜と長野の県境に掘削された恵那山トンネルの長さは8489m、道路トンネルとして当時日本一であり、世界でも、フランスとイタリアの国境にある長さ1万1611mのモンブラントンネルに次ぐ第2位であったことから、故郷では大きな話題になった。

 

 

昭和51年に伊北-駒ケ根間が延伸され、僕が高速道路を初体験したのも、この年であった。

小学生だった僕は、父が運転する車で、伊北ICから伊那谷を南へ縦走したのである。

 

本来は飯田ICで降りて父の実家に向かうはずであったが、高速道路の快適な走行に気を良くしたのか、

 

「このまま恵那山をくぐってみるか」

 

と、父が言い出した。

 

 

恵那山トンネルは片側1車線ずつの対面通行であるため、制限速度は時速40kmに抑えられ、お盆の真っ最中であったことも手伝って、トンネルの前後は大変な渋滞を呈していた。

 

正面に立ちはだかる山々がのし掛かってくるようなトンネルの入口が近づくと、

 

「恵那山トンネル Enasan TUNNEL 長さ 8490m 標高 720m トンネル内 点灯せよ ラジオを聞け」

 

と、各放送局の周波数とともに大書された標識が目に入った。

トンネルの中でラジオが受信できるのか、と驚嘆し、これからくぐるのは特別なトンネルなのだ、と幼心にも気分が引き締まった。

 

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父は、ラジオよりも、車に備え付けられた8トラックカーステレオを聞きながら運転するのが常だった。

カートリッジのパッケージは「不滅の古賀メロディ」「石原裕次郎全集」「懐かしの軍歌」等々、如何にも戦中派らしい古いアルバムばかりが揃っていた。

 

8トラックカートリッジは、オープンリール式のテープレコーダーをコンパクトに包み込んだような形態で、再生に特化し、巻き戻し不要という特質がある。

8トラックカートリッジが開発されたのは昭和40年で、僕と同い年であるのだが、その3年前に開発されていたカセットテープでは実現していなかったステレオ再生が可能であったため、車載音響機器の他に、宴会場のカラオケ装置などに広く普及したという。

僕らの世代で最も馴染みであるのは、ワンマンバスの停留所案内放送ではないだろうか。

路線バスの運転席の横に置かれ、運転手さんがボタンを押すと回り出す放送機器には、必ず8トラックカートリッジが差し込まれていた。

 

やがて、カセットテープの音質や耐久性が向上し、更にCDやLD、MDなどが登場、合成音声による自動放送装置が開発されると、8トラックカートリッジは瞬く間に廃れてしまい、平成の初頭には姿を消したと聞いている。

そう言えば、いつの間にか見掛けなくなったな、という印象である。

 

 

子供の頃に刷り込まれた記憶とは恐ろしいもので、今でも僕は石原裕次郎や鶴田浩二の歌、そして軍歌なんぞをそらで歌えてしまう。

 

「古賀政男の曲に比べれば、今どきの歌手の曲なんか薄っぺらで、なんだあれは」

 

などと言う父の口癖に、心中で猛烈に反発していたものだったが、僕が気に入っていた8トラックカートリッジがなかった訳ではない。

その1つが西部劇の映画音楽集で、「駅馬車」「大いなる西部」「黄色いリボン」などとともに、心に強く刻まれたのが「ボタンとリボン」である。

 

A western ranch is just a branch of nowhere junction to me

Give me the city where living's pretty and gals wear finery

Oh, east is east and west is west

And the wrong one I have chose

Let's go where you'll keep on wearing

Those frills and flowers and buttons and bows

Rings and things and buttons and bows

 

昭和23年に制作された「底抜け二丁拳銃」の挿入歌であるから、父が好んだ歌謡曲より古いではないかと笑われそうであるが、当時は、軽妙なメロディとともに「バッテンボー」と広く口ずさまれたらしい。

映画は未見なので、今でも「ボタンとリボン」を聞くと、幼い頃の家族揃ってのドライブを懐かしく思い出す。

 

 

ラジオを聞け、と命令されれば従うしかない。

恵那山トンネルの入口で、8トラックカートリッジを止めてラジオをつけると、夏の甲子園の高校野球中継が流れ始めた。

 

『ピッチャー、第3球を投げた!打った!ボールは二遊間を破って点々と外野を転がっている!2塁ランナーは、今、3塁を蹴ってホームへ向かう!レフトからバックホームが返ってくる!いい送球だ!クロスプレー!セーフ!セーフ!3対2!○○学園、逆転!』

 

白熱する中継を聞き流しながら、ラジオに何が起こるのか、と固唾を吞んでいると、

 

『こちらは日本道路公団です』

 

と、いきなりラジオの音声を遮断して、朴訥な肉声の放送が割り込んできた。

 

『現在、渋滞しています。バッテリー切れを防ぐために、車のエアコンはお切り下さい』

 

遅々として進まない車の流れに、高速道路でも渋滞するのか、とうんざりしながら、トンネルを抜けるのに30分くらいを要したものの、幸いにも、トンネルの内部はそれほど暑くなかったように記憶している。

恵那山トンネルは、通風孔を上半分に設けているために天井が低く、平成25年に天井板の崩落事故を起こした笹子トンネルと同じ構造であったから、かなりの圧迫感を感じた。

 

一家でドライブに出掛ける際には、ハンドルを握る父の隣りに座り、窓に映る景色を眺めることが無上の楽しみだった。

弟と助手席の取り合いになったこともあったけれど、いつしか、助手席に座るのは往路が弟、復路は僕、という不文律が出来た。

弟はどちらでも良かったのだろうが、復路は、進めば進むほど旅の終わりが近づくので、気が重くなるものである。

せめて助手席で景色を楽しんで過ごそうという、幼い僕なりの深謀遠慮だった。

 

恵那山トンネルで、僕は後部座席にいたはずだが、それでも高速道路の初体験は楽しいひとときだった。



昭和60年に8649mの2本目のトンネルが開通し、「いいなかライナー」号で恵那山トンネルをくぐった平成11年には、上り・下りとも片側2車線ずつ別々のトンネルになっていた。
それでも、トンネルに入れば車線変更禁止のイエローラインが引かれ、速度も時速70kmに制限されていて、難所を越える迫力に変わりはない。

さすがに、高速バスでラジオは流れなかった。

 

関越自動車道の関越トンネルや、上信越自動車道の五里ヶ嶺トンネルなど、殊更に長いトンネルを経験しても、なお恵那山が僕にとって特別な存在だったのは、幼い頃の強烈な思い出があるからであろう。 

「いいなかライナー」号の初乗りは、乗車時間は物足りないほど短いし、経路は何度も通ったことがあるし、しかも日暮れ時に掛かってしまったのだが、それでも恵那山トンネルを再体験できるのは、僕にとって大きな魅力だった。



後の話になるが、「いいなかライナー」号から連想されるのは、伊那市駅と木曽福島駅を結んだ特急バス「ごんべえ」号である。

伊那谷と木曽谷を隔てて、それまでは冬季に閉鎖されるような貧弱な山道だった権兵衛峠に、平成15年11月に4467mのトンネルが貫通し、平成18年2月に権兵衛峠道路が開通した。
それまで1時間半を費やしていた峠が、30分で越えられるようになったと聞いている。
同時に、伊那市駅と木曽福島駅の間の約40㎞を、所要1時間15分で結ぶ特急バス「ごんべえ」号が運行を開始した。

 

伊那谷と木曽谷の行き来ばかりでなく、「中央道特急バス」で3時間を要している名古屋と伊那市の間が、木曽福島駅で「ごんべえ」号から特急「しなの」に乗り換えると、2時間半程度に短縮されるという連絡運輸も期待されていた。
ところが利用客が振るわず、僅か1年で運行を終了したのである。
「いいなかライナー」号と全く同じ軌跡を歩んだバス路線だった。


「大八廻り」に始まり、急行「伊那」、中津川線、恵那山トンネルと「中央道特急バス」、特急「伊那路」、権兵衛峠と「ごんべえ」号、そして「いいなかライナー」号……。

伊那谷の交通史を振り返れば、郷土の発展を祈り、東京や名古屋との行き来が少しでも便利になるよう願い続けた先人たちの心中を思って、胸が熱くなる。
貧しい歴史を歩んできた信州の人間にとって、峻険を越えた先の外界の豊かさに対する憧憬は、他の地方の人々の想像を絶するものなのかもしれない。

過ちや見込み違いも少なくない、試行錯誤の歴史でもあった。
恵那山トンネルは、日本人が世界に誇れる見事な建築物だと思う。
しかし、その陰で未成に終わった中津川線に投じられた何十億円もの金額と、同時に建設が進められていた中央道のことを思うと、なんという無駄遣いをしたものか、と忸怩たる思いに駆られてしまう。

 

 
それでも、一概に批判するのが忍びないのは、中津川線の起工式の写真を目にしたことがあるからだろうか。

ヘッドマークに「飯田」と掲げた国鉄の特急電車が走る、大きなイラストが貼られた会場に詰めかけた人々の笑顔が印象的だった。
そこに行先は掲げないって!──と鉄道ファンとしてツッコミながらも、僕の叔父に似た相貌の男性が写っていたり、忘れられない1枚である。
 

伊那谷の人々は、中津川線の建設が幸せに繋がると、無邪気に信じていたに違いない。
結果を知っている者が振り返れば、あまりに素朴で単純に過ぎた発想であるが、誰が、彼らを責められるだろう。

時代は、速さだけが至上命題ではなく、余裕や安楽に人々が惹かれるようになっていた。
その結末が、僕が乗っている閑散とした「いいなかライナー」号であり、昼神温泉と考えるならば、どこか可笑しみが感じられる。

 


中津川駅で48分の短い旅を終えた「いいなかライナー」号は、すっかり暗くなった駅前ロータリーの隅っこに、人目を避けるようにひっそりと停車した。

バスを降りた僕を包み込んだ生ぬるく澱んだ空気は、明らかに伊那谷とは別のものだった。
僕は間違いなく、歴史的な難所を越えて、信州の外に出てきたのだと感じた。

所要時間の短さは物足りないけれども、それは進歩と考えるべきであろう。

 

 

次に中津川駅を発車する名古屋行きの特急「しなの」26号は17時48分発で、接続も良く、名古屋に18時37分に着く。

僅か十数分の接続とは、「いいなかライナー」号の運転手にとって、少なからず重圧だったのではないだろうか。

僕が乗って来た「いいなかライナー」20号の20分後、17時04分に飯田駅を発った「中央道特急バス」が名鉄バスセンターに19時02分に到着するので、なかなか微妙な差である。

 

加えて、中津川駅から名古屋駅までの特急料金は1160円で、決して安くない。

僕は名古屋から東海道新幹線で東京に向かうつもりだから、特急料金は乗り継ぎ割引で半額になるけれども、所要1時間10分あまりの普通列車を利用しようか、とも思う。

事実、晩年の「いいなかライナー」号は、特急「しなの」よりも、平成11年に中津川と名古屋の間で運転を開始した快速「セントラルライナー」との接続に重きを置いたダイヤになったという。

 

それでも、僕が乗った時代の「いいなかライナー」号は「しなの」との接続を謳っていたのだから、ここは特急列車を選ぶべきであろうと考え直した。

 


現在、伊那谷には壮大な計画がある。

東京と名古屋を結んで建設中のリニア中央新幹線において、飯田に仮称「長野県駅」が設けられる予定である。

地図を見れば、飯田線の座光寺駅の近くが予定地になっており、父方の叔母の家の近くだった。

実現すれば、飯田から東京まで40分、名古屋まで20分という、夢のような速達性であり、飯田は長野県で最も首都圏や中京圏に近い都市になる。

 

令和になってから、静岡県大井川の水源問題や高騰する建設費のために、リニア中央新幹線は実現すら危ぶまれる事態に陥っており、伊那谷の人々は大いに気を揉んでいることだろう。
膨大な建設費を別に使うべきではないか、とか、運行に要する多大な電気量は、原発問題に揺れる日本にそぐわないのではないか、などと言う議論もある。

少子高齢化やウィズコロナで生活様式の変化を余儀なくされている我が国で、交通網への投資が見合う時勢なのか、という疑問は、誰もが抱くだろう。

しかし、伊那谷の人々には、これまでになく大きな夢であるのは間違いない。
願わくば、リニア建設が、今度こそ挫折することなく伊那谷の人々の幸せに繋がるよう、祈ってやまない。


 

 

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