省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

クハ55最後の平妻グループをセミクロス化した 信越線のクハ68075 (蔵出し画像)

 本車は信越線で70系に交じって活躍していたクハ68ですが変わり種です。というのは、東京向けのクハ55の最後の平妻グループから改造されたクハ68だからです。40系の最初のグループは城東線・片町線用に大阪に配備されましたが、1934~35年の平妻車は関東向きに増備されました。大阪と引き通し線の仕様が異なっていたため当初100台を名乗っていましたが、後に大阪組の続き番号に改番されました。

 この関東向けの最後の平妻グループの特徴は、半室運転台だったものの、大阪向け初期車とは異なり、半室運転台の大きさがやや拡大されました。そのため運転室扉後の小窓が2つ連なっているのと、夏の暑さ対策で、運転台に正面と側面の2カ所に通風器が設置されていたのが特徴です。ただし、側面の通風器は、やはり冬は寒すぎたのか、1934-1936年製造の (おそらく1934-5年度債務で製造された) 車輛に設置されたのみで、後に廃止されました。

 しかし戦後大阪地区に京阪神緩行線用に転出して、そのままクハ68に改造されるという経歴をたどりました。東京地区の方が混雑が激しかったので主として東京地区に新製4扉の63系を投入し、乗降に時間がかかりかねない20m 3扉車は大阪地区や首都圏でもやや閑散な常磐・横浜・総武線*1に捻出する、という方針だったと推定されます。実際、1954年の配置表を見ると、京浜東北、山手、中央線などの最混雑路線を担当する電車区は、17m車が残っているところはありますが、20m車はほぼ4扉車に統一されています。残っていたとしても、下河原線などの単行用や牽引車代用、あるいは増結用としてモハ40が配置されているかどうか、となっています。首都圏では、1950年前後には、20m 4扉車 > 17m 3扉車 > 20m 3扉車 という優先度がつけられてたように考えられます。

 1950年に実施された旧モハ51だったモハ41と関西の43系の交換も、東京側から見ると、20m 3扉車追放の一環と言えるでしょう。今日でも、首都圏では4扉車統一の方向に向かっていますが、京阪神圏では、むしろ4扉車を3扉車に置き換える動きに向かっているのを考えますと、復古調というか、東京・大阪の旧国鉄鉄道の基本コンセプトはこのころ決まっていて、それが今日でも影響を与えていると言えるかもしれません。

クハ68075 (長モト) 1977.7 長野駅

 前面のジャンパケーブルが3栓に改造されています。おそらく中央西線に移ったときに改造されたものと思われます。また関西型通風器を備えています。

クハ68075 (長モト) 1977.7 長野駅

 正面には幌がしっかり備えられていますが、長野地区では奇数がクハ68、偶数がクハ76にほぼ統一されており*2、また長岡区の70系と併結されることもなかったはずなので、使われなかったはずです。幌は横須賀線と同じく両支持タイプとなっています。

クハ68075 (長モト) 1977.7 長野駅

本車の車歴です。

汽車会社東京支店製造 (クハ55104) → 1935.6.20 使用開始 東カノ → 1936.4.1 改番 (55024) → 1949.8.24 大ミハ → 1950.12.29 大アカ → 1953.6.1 改番 (クハ68075) → 1958.3.18 更新修繕I 吹田工 → 1966.4.23 名カキ → 1968.8.23 名シン → 1972.3.22 長ナノ → 1974.12.17 長モト → 1978.1.27 廃車 (長モト)

 本車は東京の中央線で使われていましたが、先ほど述べたように1949年に大阪に移ります。これにより1950年前後には中野区は、増結用あるいは下河原線用の40を除くと、20m 4扉車と 17m 3扉車でほぼ統一されます。大阪では京阪神緩行線に配備され、セミクロス化も行われて、1953年の改番でクハ68に編入されます(奇数)。

 しかし、中央西線瑞浪電化に転用されることとなり、大垣で横須賀線から移ってきた70系の制御車不足を補う役割を果たすことになります。この後はずっと70系と歩みを共にすることとなり、1968年には神領電車区の開設で神領区に移りますが、1972年には信越線の電化で長野地区に移ります。しかし信越線は5年余りで115系の投入によって引退となりました。結局、東京14年、大阪17年、名古屋、長野6年ずつ、という経歴でした。

------------

 なお、本車の京阪神緩行線時代の写真は以下のサイトにありました。

旧形国電編 51形 クハ68−2

 また中央西線時代の写真は以下にありました。

http://mokugoho.web.fc2.com/2sub39.html

 以上の写真を見ると、運転台の通風器が潰されたのは、中央西線転出後と思われます。またデフロスター、スノープロウの設置は長野転出後と分かります。

 各写真を掲載された筆者の方に感謝申し上げます。

*1:なお、中央・総武線の直通運転は、1933年に始まりますが、平日朝のみに限定されており、総武線の電車は基本的に御茶ノ水発着でした。中央総武線の直通運転が拡大するのは、1959年以降です。

*2:例外はクハ68090 のち68200。