湯田中駅 | 国立公園鉄道の探索 ~記憶に残る景勝区間~

国立公園鉄道の探索 ~記憶に残る景勝区間~

国立公園内を走る鉄道の紹介と風景の発見
車窓から眺めて「これはいい」と感じた風景の散策記

[ 国立公園鉄道の探索 ]

湯田中駅

 

 

長野電鉄線終点の湯田中駅(長野起点 33.2km)は、湯田中渋温泉郷の玄関口であるとともに、

志賀高原など「上信越高原国立公園」の入口駅の一つです。

 

「上信越高原国立公園」は、戦後の1949(昭和24)年に成立しています。

 

上州、信州、越後国境山岳地帯を国立公園にしようという試みは戦前からありました。

 

そして、戦後具体的な取り組みがなされました。

 

1947年、日本国憲法下で最初に開かれた第一回国会の折、

群馬県、長野県、新潟県の3知事から連名で

「三国山脈国立公園設立の陳情書」(請願書)が提出され、

「上信越高原国立公園」設立に向けた活動が本格的に開始されたことが知られています。

 

請願書の中では、

「我が国を代表する風景地にして国際観光地としても好適・・・・・」という条件とともに

「交通便利のため、四季を通じて、多数観光客に利用されつつある」との記述もみられます。

 

この時代は、まだ車社会が到来していませんでしたから、国立公園入口まで鉄道が通っていることが

その成立の大きな条件の一つとなっていました。

 

「上信越高原国立公園」成立に、長野電鉄が果たした役割は少なからぬものがありました。

 

当初「三国山脈国立公園」というネーミングで国会に請願書が送られ、結果的に「上信越高原国立公園」という名で

誕生することになったこの国立公園、

やはり湯田中に近い「志賀高原」のブランドイメージが意識されたようです。

三国山脈の地形を概観すれば「上信越山岳国立公園」という名称が用いられてもよかったはずですから。

 

「長野電鉄の75年」(郷土出版社 1979年)の92ページには、

「1949(昭和24)年上信越高原国立公園指定を契機に山ノ内温泉 郷と志賀高原を訪れる客が急増したこと。

 野沢温泉の観光開発も進んで輸送力増強が図られたこと。

 満を持して計画された特急電車が1957(昭和32)年から運用開始 されたこと。」

などが記されています。

 

この特急電車こそ、1957年から2006年まで約半世紀に渡り走り続けた「長野電鉄2000系電車」です。

 

そして「長野電鉄1000系電車」はその後継車両、ということになります。

小田急時代は「富士箱根伊豆国立公園」へ向かうロマンスカーとして活躍した電車ですが、

退役後長野電鉄に譲渡され、

向かう先を「上信越高原国立公園」へ変更して今も頑張って走り続けています。

 

 

 

 

長野駅を11時33分に発った「長野電鉄1000系電車」ゆけむり号は、

長野電鉄長野線の終点・湯田中駅へ12時18分に到着します。

標高約600mの地点にあります。

 

 

 

 

かつては、この先にも線路がありました。

「長野電鉄2000系」3両編成の特急電車は、

一旦この向こうの踏切りのある道路まで出てミニスイッチバックして

2番線に入っていました。

2006年、この「長野電車1000系」導入時に湯田中駅は大改修され、「ミニスイッチバック」は解消されました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

志賀高原方面の山々にも雪雲が迫りつつありました。

 

 

 

 

 

 

2006年の大改修工事以前は、2面2線を有する駅でしたが、

今は1面1線の駅になりました。

「1番」と表示されている側のホームは使われていません。

 

 

 

 

12時17分に湯田中へ到着した「ゆけむり号」は

12時31分、長野に向けて湯田中駅を発ちます。