C57-68号機 / 津山まなびの鉄道館 | 安芸もみじ / Historys, Trains, Townbikes - Hiroshima JAPAN

C57-68号機 / 津山まなびの鉄道館


岡山県津山市にある津山まなびの鉄道館。

入場すると現存する国内2番目の規模を誇る、扇形庫と転車台が広がり、そこにポツンと置かれている1つの動輪が迎えてくれます。

この動輪は直径1m75cm・重量3480kgあり、C59形やC62形など多くの旅客列車用蒸気機関車に装備された国内最大の標準動輪です。

展示されている物はやまぐち号の牽引機と同じC57形のもので、68号機が履いていました。

C57形が最高速度の100km/hに達すると、この巨大な動輪は1秒間に5回転します。



C57-68号機の履歴書ですが、久しぶりの蒸気機関車の履歴書となります。

1938(昭和13)年8月25日 木曜日、C5768号機は川崎車輌兵庫工場でNO.1969として誕生しました。

新製配置は広島鉄道管理局で、配属は岡山機関区でした。

1938(昭和13)年というと、日本が対中国への和平交渉打ち切りを通告し、ドイツ ヒトラー総統がオーストリアのドイツへの併合を宣言した年です。


またパリ美術学校で第1回シュルレアリズム国際展覧会が開幕し日本から岡本太郎氏が出展があったり、京都の市内タクシーがメーター制を導入、東京駅構内の人力車が廃業になったりなど。

7月15日にはアジア初開催が決定していた、第12回オリンピック 東京大会の中止が閣議決定され、翌16日には世界初の核実験(プルトニウム型)がアメリカ ニューメキシコで行われたことも特筆されます。

C57-68号機は、2年ほど岡山機関区(岡山県)で過ごした後、1940(昭和15)年12月1日付けで下関機関区(山口県)へ転属となりました。

しかし1943(昭和18)年2月10日には遠く離れた仙台機関区(宮城県)へと転属となり、温暖な瀬戸内海気候から厳寒の東北での任務に就きます。


アメリカ軍のB29が日本本土初空襲を敢行し北九州市八幡が爆撃を受け、マリアナ諸島に侵攻するアメリカ軍を日本軍が迎撃したマリアナ沖海戦が発生した1944(昭和19)年、C57-68号機は10月に原ノ町機関区(福島県)へ転属となります。

1945(昭和20)年の終戦は原ノ町機関区で迎え、1950(昭和25)年1月には再び仙台機関区へと戻ります。

1953(昭和28)年に不法漁業していた韓国漁船に退去するよう要求した海上保安庁巡視船が、韓国官憲による銃撃事件で民間人を含む死傷者が発生し、翌1954(昭和29)年には竹島周辺を巡回中の海上保安庁巡視船が竹島から銃撃され、韓国警備隊が竹島を占領していることが確認されました。

そんな1954(昭和29)年の4月17日付けでC57-68号機は、今度は盛岡機関区(岩手県)へと転属となり、1960(昭和35)年10月1日付けでは遂に本州最北端の青森機関区(青森県)へと転属しました。


本州最南端から最北端まで任務をこなしたC57-68号機は、1963(昭和38)年6月1日付けで、米沢機関区(山形県)へと転属。

1968(昭和43)年9月、新庄機関区(山形県)へ転属となり、2年半を最後の活躍を過ごした後に、1971(昭和46)年3月31日付けで、第一種休車に指定されました。

ところが新庄機関区で廃車とはならず、1週間後の4月6日に紀伊田辺機関区(和歌山県)へ、予備車として転属します。

28年間を東北地方の厳しい雪との戦いに費やして、その生涯を終える1年間は温暖な紀伊半島で過ごしました。



電化進展によって無煙化政策が完了目前となり、予備機とは名ばかりな稼働機のドナーカーとしてその余生を過ごし、1972(昭和47)年3月31日付けで第二種休車に指定されます。

そして5月11日 木曜日に廃車となり、33年6ヶ月と6日の生涯を終えました。

C57-68号機が解体されたのが1972(昭和47)年、津山まなびの鉄道館が開業したのが2016(平成28)年、その44年の間はこの動輪がどこにあったのかは不明です。

ということで久しぶりの年表でしたが、鉄道ファン以外の方々には機関区名だけでは場所が判らないとのことから、今回から県名を付けることにしました。

にほんブログ村 歴史ブログへ広島ブログ
Please follow the blogx