C62 3の迫力に圧倒された僕はできることなら少なくとも年に1回は撮影に訪れたかった。しかし、職場環境がそれを許さなかった。20歳代後半から30歳代前半にかけての働き盛りの頃は薄給のうえに「超」が三つぐらいつくほどの多忙を極めていた。どのくらい多忙かというと、以前もこのブログに書いたが、残業時間が月に200時間を超えるのが常態化していた。繰り返すが、勤務時間でなく残業時間である。200時間を土日を除いた20日で割ると1日平均10時間の残業で、毎日翌朝5時近くまで働いているという計算になる。これを当時の職場では(今もそうだと思うが)29時といっていた。実際は毎日29時までというより、土休日出勤も含めての数字であるが、限界をはるかに超えた非人間的な勤務実態であったことは間違いない。
そんな状況であるから、休みの日など鉄チャンに出かけようなどという発想はこれっぽちもなく、鬼のように寝ているかゴロンとしながらTVを見ているかであった。しかし、頭の片隅には常にC62 3のことがあって、気力体力と暇・隙さえあれば会いに行きたいと思っていた。そして、その機会は1993年のゴールデンウィークにやってきた。最初の逢瀬から早5年が過ぎていた。
当時僕は新法立案作業に携わっていて、法案を国会に提出中で審議を待っているところだった。大型連休中に国会審議はないことが確定したのを受けて、急遽無理をして旅行日程を確保した。財政的な理由からC62 3の運行に暗雲が立ち込めているとの噂が流れ始めていて、いつ運転打ち切りになるとも限らず、いま再訪しなければ悔いが残ると思って渡道の決断を下したのであった。
↓小樽に向けてC62 3が最後の坂道を登ってきた。(函館本線塩谷ー小樽)
↓倶知安峠のC62 3は期待を裏切ることなく爆煙でやってきた。(函館本線小沢ー倶知安)
↓塩谷を発車したC62 3がオタモイの坂を駆け上ってきた。(函館本線塩谷ー小樽)
さずがにこのときは東京からマイカーを転がしてというわけにはいかず、千歳空港からレンタカーを利用した。北海道に行くと聞いて連れも一緒に行きたいとなって二人でやってきた。今回は観光などせずに五日間の日程は全てC62 3の撮影に当てたが、せめてもの罪滅ぼしとして宿泊は観光地っぽいところにした。初日と二日目に連泊した古平町の漁港近くの旅館では、板前さんをはじめ従業員が慰安旅行で不在とかで(大型連休中の慰安旅行というのがスゴい!)、留守番のご隠居夫妻が作って運んだきてくれた料理はコストを度外視した豪華なものだった。僕らは「こりゃあ、板前がいない方がよっぽどいいや」と思いつつ海の幸を堪能した。(余談になるが、北海道をはじめ地方に行くと海の幸に手を加えた料理が出されることが多く、それはそれでお客に手間ひまをかけて調理したものを出したいという気持ちの表れなのだろうが、手を加えない料理の方がよほど良いということがままある。)
↓仁木を発車するC62 3が吐き出すスチームは煙幕のようだった。(函館本線仁木)
↓上の写真を撮った後に追いかけて200キロポスト付近の国道オーバークロスで再度C62 3を捉えた。(函館本線小沢ー倶知安)
↓雨降る中を金五郎山付近の果樹園を力走するC62 3(函館本線蘭島ー塩谷)
↓C62 3が通り過ぎるとき吐き出す煙が天地を焦がした。(函館本線小沢ー倶知安)
この頃C62 3の牽く“C62ニセコ号”は倶知安からニセコまで延長して運転されるようになっていた。ニセコより先まで運転されていたら、例の羊蹄山バックの素晴らしいロケーションの中で撮影できるのにと思ったが、ターンテーブルの関係もあるのでそうはならなかった。
それでも久しぶりの北海道、新緑にはまだ早かったが、線路脇には蕗の薹が至る所で芽を出していた。沿線の人出も昨今の状況に比べれば極めて少ないといってよく、待ち時間も和気藹々とした雰囲気だった。さらに嬉しいことにシロクニは常に爆煙でやってきてくれた。そんなこともあって今回は意図的に煙が強調されるような撮り方を心がけた。これには3年前に導入したミノルタαのAF機能と連写機能に大いに助けられた。そして、小沢駅を発車する上り列車(ニセコ行き)が煙を天高くまさに龍の如く噴き上げて発進していくさまをフィルムと網膜に焼き付けて北海道を後にした。
↑↓ニセコから比羅夫にかけての勾配はシロクニにとってさしたる難所ではないが、爆煙のサービスで通り過ぎていった。(函館本線ニセコー比羅夫)
↓天高く煙を噴き上げ小沢駅を発車するC62 3。C62は速度が高いので走行中はあまり煙が高く上がらないが、ここは発車直後なので上がった。おかげでホームにいたギャラリーが隠れた。(函館本線小沢)
C62 3を追い求めて数十回にもわたって渡道した鉄チャンは多かったし、千歳空港のレンタカーオフィスに三脚を預けっぱなしにしていた猛者もいたと聞く。なんとも羨ましい話だが、結局僕がシロクニに会いに出かけたのはたった2回だった。
その後のC62 3だが、2年後の1995年11月限りで運転が打ち切られてしまった。やはり財政的な理由からのようだった。今ではJR北海道苗穂工場の一隅に静態保存されている。
それでもこのC62 3は過去に3度も復活している。1971年9月15日で急行ニセコの任を解かれた同機は他の僚機と共に休車指定されたが、鉄道友の会北海道支部の働きかけで同年10月に山線の普通列車運用に復活した。これが1度目の復活。1年後にその運用もなくなったが、再度の請願運動により1973年2月のさっぽろ雪まつりの期間に臨時列車として2度目の復活、その後も同年9月まで不定期運用として小樽・長万部間を走った。そして1988年からの3度目の復活運転だった。そんな不死鳥のようなC62 3であるから、4度目の復活を期待する人がいるかもしれない。しかし、小樽築港や長万部にターンテーブルは既になく、ターンテーブルの残る倶知安やニセコでの機回し(転回)ももはやできない。しかも函館山線自体の廃止が決まってしまった今、仮に万が一にも奇跡の復活を遂げたとしても走らせるところがない。(終わり)