それからの「関門航路」(その2・海峡の落日) | 書斎の汽車・電車

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 関門航路の話を続けます。

 昭和26(1951)年、再び関門トンネル開通直後と同じ4隻体制に戻った関門航路でしたが、実際には一番古い門司丸はすでに予備船となっていたようです。また、前回の補足となりますが、昭和22(1947)年4月、下関側の発着場が下関駅近くに移転するなど、自動車航送開始とあわせて、利便性向上のための施策がなされていたことがわかります。

 なお、昭和25(1950)年5月には、かつて関森航路で活躍していた第1関門丸と第5関門丸が、日本自動車航送㈱へ売却され、8月1日から慣れ親しんだ関門海峡で、今度は貨車ならぬ自動車航送にあたることになりました。

 

 昭和28(1953)年、関門航路は、はからずも昔日の栄光を取り戻します。6月28日、北九州は豪雨に見舞われ、関門トンネルにも濁流が流れ込み、あろうことかトンネルは上下線とも「水没」してしまったのです。(この水没については、内田百閒「雷九州阿房列車」の末尾でも触れられています)トンネルが復旧する7月19日までの間、豊山丸、長水丸、下関丸に加えて、大島航路から七浦丸の応援を仰ぎ、旅客、荷物輸送にフル回転したのでした。ここにベテラン・門司丸の名前がありませんね。すでに予備船として係船されており、復帰は叶わなかったようです。門司丸は昭和30(1955)年に売却されました。(一説にはこの昭和28年に売却されていたともいいます)

 

 関門トンネル復旧後は、関門航路は日常を取り戻します。輸送人員は微減傾向とはいえ、年間200万人台はキープしていましたが、昭和32(1957)年度は150万人台へと激減します。これに追い打ちをかけたのが昭和33(1958)年3月の関門国道トンネルの開通でした。(ちなみに民間に転じた第1・第5関門丸もこのトンネル開通時に引退しています)昭和34年度の輸送人員は109万人程にまで落ち込みますと、いよいよ国鉄としても、何らかの対策を講ずる必要が出てきます。

 その「対策」は後ろ向きのものでした。昭和36(1961)年6月15日、関門航路は従来の1日28往復、2船使用体制を改め、1日20往復、1船使用体制としたのでした。この日をもって豊山丸と下関丸は引退、翌年3月31日付で売却されてしまいました。代わって昭和36(1961)年6月10日付で関門航路に転属してきたのが、大島航路の玉川丸で、通常はこの玉川丸を使用し、長水丸は関門・大島・宮島航路共通の予備船という位置づけになりました。

 関門航路最後の主役、玉川丸は145総トン、定員372名と、従来の関門航路就役船に比べれば小型の船といえましょう。元は海軍の魚雷運搬船とも、陸軍の運搬船ともいわれますが、これを客船に改造したのですから、まあ、相当のゲテモノということになります。

 

 関門航路の凋落は止まりません。輸送人員は昭和36(1961)年度が80万人、38(1963)年度は51万人と減り続け、1日16往復(約1時間ヘッド)にまで落ち込みました。こうなると後はいつ廃止になるかということでしたが、労組との交渉がなかなかまとまらず、昭和39(1964)年10月27日に廃止が公示され、10月31日限りであわただしく廃止ということになってしまいました。実は『時刻表』昭和39年10月号(新幹線開業の号です)には、「関門航路」はすでに記載がありません。10月1日のダイヤ改正で廃止予定だったということかも知れません。

 そして、関門航路の最後を飾ったのは、生え抜きの長水丸でした。というのも、玉川丸は10月初めには仁堀航路に転出してしまったからです。長水丸は大正9(1920)年製ですから、この当時の国鉄で旅客輸送を行う車輛、船舶のなかでも最古参ではないかと思われます。最終日ばかりは、日頃1便につき10人程度の乗客を運んでいた関門航路にも、別れを惜しむ人々が殺到したといいます。なお、この廃止当日、関門航路の職員一同は国鉄総裁からの表彰を受けたそうです。開設期間中無事故が評価されてのものでした。

 

 関門航路廃止の原因は、よく言われるように関門国道トンネルの開通が第一ということになるかと思います。しかし、関門海峡には民間のフェリーもあり、現在も盛業中です。国鉄の航路もやり方によっては、何とかなったのではないか?と思います。

 国鉄の船舶は、末期の玉川丸でも定員372名でした。これに対して民間船は定員100~150名程度の小型船で、その代わり10~15分間隔で運航していました。(現在でも20分間隔のようです)フリークエント・サービスという点で、国鉄は民間には敵わなかったといえます。

 では、国鉄が関門航路に小型船を就役させ、15分ヘッドで運航する気があったかといえば、恐らくなかったでしょう。関門航路が明らかに縮小体制に入った昭和36(1961)年6月といえば、6月1日の北九州電化により、421系電車を使用したフリークエント・サービスが始まった時です。国鉄の本業はあくまでも鉄道、地域内の市内交通的存在の航路は民間に任せてしまえというのは、当然の流れでありました。むしろ関門航路は、壇ノ浦の平知盛の如く「見るべき程の事をば見つ」の心境で、姿を消したということでしょう。