みなさんこんにちは。前回からの続きです。


3年振りに、今年は現地開催となった鉄道イベント「きんてつ鉄道まつり」。

会場の「五位堂検修車庫(奈良県香芝市)」の訪問記をお送りしています。



イベントの目玉である、検修車庫内の展示。
検査中のさまざまな車両がずらり並んでいて、
わたしにとっては、夢のような時間です。



さて、床下機器がすっぱり抜かれた車両が並ぶ広い構内を、引き続き観察しているのですが…


この車両の方向幕は「準急 橿原神宮前/富田林(奈良県橿原市/大阪府富田林市)」

「南大阪線」を走り、途中の「古市駅(同羽曳野市)」で切り離しをする列車のもの。



さらにこちらは「臨時急行 あべの橋(大阪市阿倍野区)」。やはり「南大阪線」で運用されるために備え付けられたものです。


「南大阪線」は「JR天王寺駅(同天王寺区)」に隣接する「あべのハルカス」の直下、「大阪阿部野橋駅(あべの橋)」を起点に「橿原神宮前駅」へ至る路線。



さらにその先「吉野線」につながっています。


加えて「長野線」「御所線(ごせせん)」「道明寺線」という支線を有していて、これらは本線である「南大阪線系統」としてまとめられているものです。近鉄ホームページより。



そこで、検修車庫内の線路が気になります。
至るところで、レールが3本敷かれているのが
分かります。


これ、実は2つの線路幅の台車が対応出来るようになっているものでした。



最寄りの「五位堂駅」まで乗車して来た「大阪線」は「標準軌」
新幹線などで採用されているゲージです。



そして、先ほど触れた「南大阪線系統」は、JR在来線で採用されているのと同じゲージの「狭軌」と、同じ会社なのにも関わらず軌道幅が異なるという、実に興味深い差異があります。大阪阿部野橋にて。


「近鉄電車」は、さまざまな鉄道会社の合併を繰り返し、今日の姿になった歴史があります。
その母体は「大阪線」「奈良線」などを建設した「大阪電気軌道(大軌)」という会社。

この検修車庫、正面入り口で展示されていたこちらの車両が、大阪・奈良間を結ぶ「大軌」最初の車両でした。



開業時から「標準軌」を採用し、将来に向けての高速化や、大量輸送を目指していました。




一方、「南大阪線系統」の路線を保有していたのは「大阪鉄道(大鉄)」という、戦前には、関西大手7私鉄(京阪・南海・阪神・阪神急行・阪和・大軌・大鉄)のひとつとして隆盛を誇っていた会社でした。出典①。


ちなみに、先ほど登場した「あべのハルカス」がある「近鉄百貨店あべの本店」は、もともとは「大鉄百貨店」として開業したものでした。

平成初期に、大改装と改築を行った頃の姿。


大鉄は、戦前には国民へ盛んに参拝が奨励された沿線の「橿原神宮」への参拝客や、接続していた「吉野鉄道(現在の近鉄吉野線)」に乗り入れ、花の名所・吉野山への輸送で、大軌と激しいライバル関係を繰り広げます。出典②。



大鉄による、車長20m級車両の導入(昭和3年)、直流1500Vの電化方式採用(大正12年)はいずれも日本初と、先進的な試みに長けた鉄道でした。さながら装甲車を思わせるような、無骨で、堂々たる姿の車両がそうです。

ちなみに「大鉄」が保有していた路線で「狭軌」を採用した理由は、同じく狭軌の「官営鉄道(→鉄道省線→国鉄→JR)」と貨車や客車のやり取りをするという目的があったためです。


しかし、さまざまな事情で経営難に陥った「大鉄」は「大軌」によって救済を受けるため傘下に入り、やがて吸収合併されてしまいます。

戦中戦後の混乱期を経て「近鉄(近畿日本鉄道)」が設立されるに至りました。


そういったことで、出自も毛色もまったく異なっていた2つの鉄道会社が、同一の会社になった経緯として、このような違いがいまに残されることになります。なかなか、興味深いです。ここまで出典③。


本題に戻るのですが、この「五位堂検修車庫」では、その「南大阪線系統」の車両の保守・点検も担っています。


そんな中、軌道幅が異なる路線の車両を、どのようにしてここまで運んでいるのか。
それを可能にした、近鉄ならではの車両もここでは見ることが出来ました。

次回に続きます。
今日はこんなところです。

(出典①「ヤマケイ私鉄ハンドブック13 近鉄」廣田尚敬写真・吉川文夫解説・山と渓谷社発行 1984年7月)
(出典②「鉄道ピクトリアルNo.569 特集 近畿日本鉄道」鉄道図書刊行会発行 1992年12月)
(出典③「カラーブックス489 日本の私鉄1 近鉄」廣田尚敬・鹿島雅美共著 保育社発行 1980年2月)