1985年から2009年まで東海道・山陽本線のブルートレインけん引機として活躍した下関運転所(下関車両管理室)のEF66形電気機関車。最後まで残った10両のほとんどが総走行距離800万キロ以上を記録した中、40号機は全EF66形の中で最も早い1995年に廃車されるなど、短命の機関車でした。

 

 

寝台特急「みずほ」をけん引して東京から一晩かけて本州の西端・下関に到着したEF66 40=1991年

 

 

 

87年4月の国鉄分割民営化の際、東京ー下関間のブルトレけん引に当たるEF66形は、40〜55号機の16両がJR西日本の所属となりました。当初1日12本の列車に充当されましたが、94年12月の「みずほ」の廃止と「博多あさかぜ」の臨時列車化により運用数が減少。そうしたなか40号機は翌95年5月、早々に廃車となりました。

 

なぜ40号機が廃車第1号になってしまったのでしょうか? 定期検査周期の都合か、不調機だったのか、重大な故障か、下関の最若番機でキリがよかったためか…。

 

40号機の全般検査履歴を探ってみると、90年代に入ってからは90年6月に受けたようです。廃車となった95年は次の全検のタイミングだったのでしょうか(当時のブルトレ運用のEF66形は東京ー下関間1100㌔を連日走っていたので、検査周期はもう少し短い気もしますが…)。

 

40号機の廃車理由が突発的な故障でない場合は、走行距離の調整などが計画的に進められていたことと思います。

 

 

寝台特急「富士」をけん引して早朝の防府駅に入線するEF66 40=1990年

 

 

 

その後ブルトレ削減のたびに廃車になった下関のEF66形は55号機を除いてJR貨物に移籍し、新たな活躍の場を見出しました。また、貨物機として走り続けた27号機は皆さんご存じのとおり、22年時点でも長寿を保っています。

 

それだけにブルトレ機としてはわずか10年、製造された75年からでも20年間に終わったEF66 40の活躍シーンを見返すと、今でも寂しい思いがします。

 

 

 

【追記】

EF66 40について、94年12月に寝台特急「富士」をけん引中、京都駅で火災を起こして運用離脱したとの情報があります。書籍など他媒体では確認していませんが、この情報を基に推測した場合、40号機の廃車理由は①機器類の損傷が激しいため復旧を断念、②「みずほ」廃止による運用減もあり復旧を見送った—などが考えられます。雑誌ではよく「ブルトレ削減のあおりでEF66形に余剰が発生し40号機が廃車」と書かれていますが、実際はどうだったのでしょうか…。もし詳細についてご存じの方がいらっしゃれば、ご一報いただければ幸いです。(22.10.31)

 

EF66 40は、鷹取工場(神戸市)に入場中の95年1月17日、阪神大震災で被災したとの話もあります(別のブロガーさんの記事によると、雑誌「レイルマガジン」95年5月号に書かれているようです)。その場合、40号機はこの被災が原因で復旧を断念したか、運用復帰したが不調だった可能性があります(タクク様、コメントをお寄せいただきありがとうございました)。(2023.11.27追記)

 

 

 

※EF66 40の同僚だった53号機も以下の記事でまとめています

 

 

 

※姉妹ブログ「歴鉄2番線」では、ブルトレけん引機が交代した頃を振り返っています