みなさんこんにちは。前回からの続きです。
引き続き、工場敷地内をうろうろしているのですが…
正面出入口を入ってほどないところ、2階が職員食堂になっているこの建物の1階部分に、かつて活躍していた車両のカットモデルがあります。

「1800系(2代目)」という、昭和の終わりから平成初期に至るまでの、わずか車齢10年にも満たなかったという、数奇な運命を辿った車両のトップナンバーです。

解説では、改造や改番を重ねた車歴が窺い知れるのですが、ここからは、この「1800系(2代目)」の波瀾の経歴について、手元の資料から少し掘り下げてみることにいたします。
こちらは、1960(昭和35)年当時の京阪電車の車両紹介。ここからまず「1650型1655号車(昭和32年6月26日竣工)」。
戦前に製造された旧型車両が主力だった中、その近代化を図った新型車両でした。
乗客の増加を見越して、乗降時間の短縮を目的にした両開の3枚扉と、長年、京阪電車の通勤型車両で親しまれた「緑濃淡」塗装は、この形式ではじめて採用されたものでした。出典①。

そして、製造から9年後の昭和39年9月23日に「600系(2代目)635号車」へ形式を改番。

「中書島駅(京都市伏見区)」で発車待ち。
宇治へ遠足に行こうというところでしょうか。
この「600系(2代目)」という車両は、戦前に登場した旧型車両の下回り機具を流用して、車体を拡大させた3枚扉の車体をあらたに製造、それらを組み合わせたものでした。

高度経済成長に差し掛かる頃、乗客の増加に伴って新型車両が次々登場する中、車両形式をある程度統一させる必要が当時の京阪にはありました。その一つとして「1650型」も改番がなされた、という経緯でした。
窓配置はそのままですが、見た目の違いから分類されて「630型」と称されました。四条(地上駅時代)にて。

そして「1800系(2代目)1801号車」へ改造(昭和57年6月3日竣工)。
ところで、その「1982(昭和57)年」というタイミングで「1800系(2代目)」という、新形式に改造された理由というのは、翌1983(昭和58)年12月に予定されていた架線電圧の1500V昇圧が、その大きな要因でした。出典②。
先日の記事でも触れたこの「6000系」が、昇圧を機に廃車となる旧型車両を置き換えることになっていました。
ただ、すべて一気にとは行かないことから、旧型車両の廃車で不足する車両数を一時的に補うために「630型」の車体と「1800系(初代、上の写真)」の台車や電装品を流用して製造されたのが、この「1800系(2代目)」でした。
言い方はなんなのですが、この「1800系(2代目)」は「車両数の不足をカバーするため応急的に」改造され、登場した車両です。

すべての車両が、先ほどの「630型」の車体を補修して流用されたゆえに、運転台まわりや、側面の補強材(ウインドウシル)がそのまま残されています。車体製造技術が、まだ発達途上だった頃に見られた、特徴的な設えです。
そんな事情ではありましたが、当時ようやく京阪で普及しはじめた「行先表示器」が設置された、ということは特筆すべきことでしょうか。
また、尾灯(テールライト)も、最新型車両と同様のものに取り換えられ、客用扉横の細長い窓(戸袋窓)も埋められています。
しかし、旧型車両の車体を流用していること、非冷房だったこと、さらに製造された最大の理由である「6000系」の増備が進められ、車両数も充足出来たことから、1989(平成元)年3月31日付けで、ついに全車が廃車されました。

改造からわずか7年弱の、特異な短命を辿った車両なのでした。
前置きが長くなりましたが、それでは、待望の運転台に入ってみることにしましょう。
実は、じっくり拝見するのははじめてです。


左側には、アクセルに当たるマスコン(主幹制御器)。右側にはブレーキハンドル。
ただ、ビニールで覆われているのでどのようなものか確認出来ないのですが、種車になったものから流用された、マスコンは背の高い旧型のものです。

ところで、この運転台カットモデル。
こちらに置かれているのは、モニュメントとしてだけではなく、公衆電話ボックスとしての役割もありました(現在は撤去済み)。

車掌台側には、デビュー当時には普及段階だった種別、行先表示器の指令機が。

よくよく眺めていますと、そこには「守口」の表記があったりします。
「守口市駅(大阪府守口市)」のことですが、駅名が「守口→守口市」になったのは、1971(昭和46)年のこと。あれ、時代が合わない…
昭和30年代初旬、京阪の通勤型車両ではじめての高性能車両として登場→形式統一のために改造改番→架線電圧昇圧に伴う車両不足を補うための「ショートリリーフ」に徹した、という、趣味的には実に興味深い経歴を持つ、この車両でした。
ところで、このような類の車両は、実は京阪電車では現役車両でも複数例、存在します。
この「1000系(3代目)」では、さらにそれを上回るような経歴があります。
車両基地に保存されている「60形びわこ号」。
「日本初の連接車」として知られている車両ですが、くだんの「1000系(3代目)」の経歴を辿ると、実はこれにも浅からぬ関係があるものでした。
切りがないので、そちらはまたの機会にでも。
香里園、枚方市にて。2010(平成22)年6月・ 2014(平成26)年11月、ブログ主撮影。
次回に続きます。
今日はこんなところです。
(出典①「京阪電気鉄道開業五十周年記念誌 鉄路五十年」京阪電気鉄道株式会社編・刊・発行 昭和35年12月)
(出典②「ヤマケイ私鉄ハンドブック11 京阪」廣田尚敬写真・吉川文夫解説 山と渓谷社発行 昭和58年9月)