旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

日常を忘れさせてくれる食堂車 かつて、新幹線には食堂車があった【3】

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《前回のつづきから》

 

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 ところで、筆者は一度だけ、この業務用室を利用したことがあります。

 中学生だったか小学生だったか、細かいことは忘れてしまいましたが、祖父に連れられて妹と九州旅行へ行くのに新幹線に乗っていたところ、妹が腹痛を起こしてしまいました。かなり痛みが酷く、ただの食あたりなどといった状態ではなかったのです。

 祖父が車掌にそのことを申し出ると、車掌はすぐにこの業務用室に案内してくれました。腹痛に苦しむ妹は、業務用室の座席に横になって、少しでも痛みが治まるのを待ちました。

 車掌も車内放送で、医師か看護師が乗車していないかを呼びかけてくれました。読み物やドラマなどでみる「あの光景」が繰り広げられたものの、残念ながら医療従事者の方は乗っていませんでした。しかし、なかなか治まることはなく、結局、博多から上り列車で折り返すことになり、博多発東京行き「ひかり」も業務用室を使わせてもらったのです。

 業務用室は、乗務員などが一時的な業務で使うことを考慮にしていた部屋なので、室内には椅子が設置されていました。椅子といっても、客室のものとは違い、青いモケットが張られた固定クロスシートと短いロングシートが直角に配置されていて、113系セミクロスシートを個室にしたような座席が設置されていたのです。

 新幹線にこのような設備があることは、知識の中では知っていましたが、実際に目の辺りにして使うとなると、驚きとともに他系列で使われている座席をそのままもってくるあたりは、いかにも国鉄らしい合理的な設計だったと考えられます。

 このときは26形の業務用室で、海側に設置されていたのでそれなりの広さはあったと思います。一方、27形は車椅子のままでも楽に出入りができるように、扉も大きめの1,125mmとされました。狭い通路からも車椅子を斜めにして室内に入れるように配慮した設計で、室内も固定クロスシートが2人分だけ設置されていました。

 この身障者対応の業務用室の反対側、すなわち山側にはジュースクーラーを備えた車販準備室と、座席を備えた食堂車従業員の休憩室が設けられ、他には列車公衆電話を備えた電話室も設置されました。

 そして、この特異な客室設備をもつ27形のもう一つの役割は、大量の電気を使う食堂車の36形に電源を供給し、走行に必要な補機類の装備を肩代わりするというものでした。そのため、27型には大容量の電動発電機を装備し、さらに本来であれば36形が装備するべき、空気圧縮機は平滑リアクトル回路といった電装品も装備していました。

 このような特殊な機器構成と接客設備のため、27形は編成中で1両のみの連結となり、36型とユニットを組んで運用されました。また、食堂車そのものが「ひかり」で運用する編成にのみ連結されたことから、27+36のユニットは必ず「ひかり」として運行され、「こだま」での運行はありませんでした。

 

テーブルにはカレーライスが載っている、車内で食事をする際の再現。ほかに、水の入ったコップなどがあるが、傍らには灰皿もある。現在では考えられないことだが、かつては車内は指定された禁煙車を除いて、喫煙が自由にできた。(36-84 リニア・鉄道館 2022年8月3日 筆者撮影)

 

 東海道・山陽新幹線の博多延伸による全線開業で、「ひかり」の東京−博多間の到達時間は6時間30分となり、本格的な食堂車である36形と、コンビを組む27形を連結して営業運転に充てられるようになりました。

 もちろん、このときから食堂車も営業を始めます。

 食堂車の営業は国鉄自身の手ではなく、主に国鉄線で運行される列車食堂車の営業を手掛けていた日本食堂と、日本を代表する老舗ホテルのレストラン部門が進出した帝国ホテル列車食堂、都ホテル列車食堂の3社と、鉄道弘済会が出資して設立した駅弁等車内販売を手掛ける会社の一つである東海車販が新幹線進出時に社名を改めて誕生したビュフェとうきょうの合計4社によって担われていました。

 列車によって食堂車を担当する事業者も異なり、当然、メニューも違いがあったようです。もちろん、味も異なるのは当然ですが、残念ながら筆者は食堂車華やかしき頃に利用する機会を得ることはなく、「車内探検」と称して1号車から16号車までを往復して観察する中で、食堂車特有の「香り」を楽しむことしかできませんでした。

 それでも、他の車両とは違う雰囲気と香りに、いつしか食堂車で車窓を眺めながら、旨い食事をとるという鉄道ならではの「優雅な旅」を楽しみたい、いや、いっそのこと乗務員となってまかない食でもいいから、食堂車で食事をしたいなどと考えたものでした。

 36形の印象といえば、山側に寄せられた通路とラウンジを隔てる壁はガラス張りで、そこで美味しそうに食事をする人たちの姿と、いつも混んでいて席が空くのを列をなして待っている人たちでした。

 ラウンジの照明も座席車のような白色の蛍光灯ではなく、温かみのある電球色の照明に照らされ、海側には4人席の、山側には2人席のテーブルが備えられ、いつも満席だったことを思い起こします。

 通路からわずかに見える厨房には、所狭しと厨房機器が置かれていて、その狭い中では白衣を着たコックが調理をしたり、できた料理をフロアスタッフが席まで運んだりと、多くの人が忙しなく働いている姿を目の当たりにしました。

 実際、揺れる列車内での食堂業務は想像以上に過酷だったようで、地上の厨房のように広い空間がなく、限られた空間しかない厨房での調理は相当な困難が伴ったといいます。また、事前に食材は下ごしらえをしたものを載せることはもちろん、それを効率よくラウンジで食事を摂る乗客や、空き席を待つ乗客の状況を把握し調理して提供することはもちろん、先を見通して調理をする能力も必要だったそうで、今思うと相当な「職人技」が要求されたと考えられます。

 調理を担当するコックだけでなく、フロアスタッフもまた過酷な業務でした。揺れる車内で熱い食事を運ぶのは困難を伴います。しかし、車両が揺れたからといって食事が載った食器を落とすわけにもいきません。そんなことをしたら作り直しになるだけでなく、利用客をさらに待たせることになってしまいます。ですから、地上とはちがいかなりの神経を使い、体力的にも消耗することは想像に難くないでしょう。

 加えて車内販売もこなさなければならず、揺れる車内で重いワゴンを押して何度も往復するのも過酷な作業でした。そのため、列車食堂のフロアスタッフはなかなか定着しない、という話を聞いたことがあります。コックや食堂を取り仕切るチーフは正社員でも、フロアスタッフの多くはアルバイトだったそうですが、それでも定着しにくいほど大変な仕事だったのでしょう。

 さて、このように鉄道好きな少年には「憧れ」ともいえる食堂車は、筆者が鉄道職員になってようやく利用する機会を得ることができました。

 

《次回へつづく》

 

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