旅客にしろ、貨物にしろ、鉄道輸送の原点は機関車牽引の列車です。機関車の動力源が蒸気から電気、あるいはディーゼルに変わっても不変で、電車や内燃動車が登場しても、時代の変遷とともに機関車の性能が上がれば上がるほど、その立ち位置は確固たるものになり、電車や内燃動車の追随を許しませんでした。でもそれは戦前までの話で、戦後になって電車や内燃動車の技術革新が進むと、その立場は逆転し、高度経済成長期になると、電車や気動車が鉄道輸送の主役に躍り出ることになります。貨物は自力で動く貨車が開発されないのを良い事に、21世紀の今でも機関車牽引に委ねられることになりますが、旅客輸送については機関車が牽引する列車は事実上、皆無になりました。

 

それでも、地方に目を向けると、開発途上のせいか、まだ機関車牽引の客車列車は残存していました。国鉄も本音は「地方でも電車あるいは気動車化を進めたい」なんだと思いますが、何せ、国鉄の台所事情は火の車です。地方線区に適した電車や気動車を開発・投入するだけのお金はありません。そういった背景もあって、付け刃的に登場したのが50系客車でした。でも、今になって思えば、50系は電車化・気動車化に繋ぐためのワンポイントリリーフだったのかもしれませんね。急行列車の削減で余剰になった専用電車あるいは専用気動車を普通運用に転用することで、客車列車を置き換えていきました。

 

一方、大都市部は、いち早く旅客輸送近代化の推進は完了しており、特に首都圏では東海道本線が43.10改正で、中央本線(中央東線)では50.3改正を機に、客車普通列車は電車化されました。この段階で残っていたのは上野駅発着の列車でしたが、東北本線の客車普通列車は53.10改正で廃止されてしまい、残ったのは高崎線と常磐線、そして水戸線でした。特に高崎線と常磐線は23区内に乗り入れる数少ない鈍行列車として注目を集めるようになりました。

 

 

画像は常磐線の列車ですが、昭和55年12月現在、上野駅発着の客車列車は上下合わせて8本ありました。

 

【高崎線】

2321レ 上野  6:14発 高崎  8:53着

2326レ 高崎 19:16発 上野 21:55着

【常磐線】

 221レ 上野  5:55発 仙台 14:02着

 223レ 上野 12:36発 仙台 21:32着

 425レ 上野 15:13発  平 19:52着

 422レ 浪江  6:00発 上野 11:36着

 424レ  平 11:10発 上野 16:00着

 426レ  平 16:55発 上野 21:45着

 

高崎線はもっと長距離を走るのかと思いきや、意外と短距離で、高崎第二機関区のEF58、EF62が牽引していたと思われます。

常磐線は変則運用で、下りのメインは仙台行きなんですけど、上りは平(現、いわき)からやって来るケース。仙台に行ったら仙台から戻ってくるというダイヤではなかったようです。基本的に上野-水戸間がEF80、水戸以北がED75になります。EF80は田端機関区の、ED75は内郷機関区配置機が受け持っていたかな?

EF81が投入されても意に介さず、むしろ排除する形で “常磐線のヌシ” を守り通したEF80ですが、この頃になると、「寄る年波には勝てない」とばかりに、戦線離脱する車が続出し、ようやくEF81にオハチが回ってきた時期とリンクします。

 

首都圏最後の客車普通列車は57.11改正で電車に置き換わってしまい、惜しまれつつ消えていきましたが、その頃の客車普通列車といえば、12系とか50系とかではなくて、重厚感溢れる旧形客車。まぁ、スハ43とかオハ47といった辺りがメインだったのでしょうけど、自動ドアではない乗降用扉、人の出入りが自由だった編成最前部や最後部、冬場は凍えますが、夏場は天然クーラーと化して、窓という窓は全開にすれば心地良い風が車内に吹き込んできました。また、トイレは基本的に「垂れ流し」ですので、線路に汚物が蔓延るのは自然の理。

鈍行列車の醍醐味ですよね。

 

今もなお、旧形客車を使った列車はイベント列車を中心に残っていますけど、防犯上あるいはコンプライアンス上の観点から「乗降用ドアは閉めたままにしろ」「トイレは使うな」など、様々な制約が足枷になっています。

「自己責任でええやん」と思うのは私だけでしょうか・・・。

 

 

【画像提供】

ウ様

【参考文献・引用】

時刻表 1980年12月号 (日本国有鉄道 刊)