10月1日、豪雨の被害から奇跡的に復旧を果たしたJR只見線。でも、画像はその時の記念列車を撮ったものではありません。れっきとした国鉄時代のもの。

今も沿線には風光明媚な、如何にも「日本の原風景」と言うべき風景が点在し、乗り鉄や撮り鉄には堪らないスポットが点在している只見線ですが、運行自体は赤字で豪雨被害に遭った際もJR東日本は当初、「復旧工事をしない」「バス転換する」方針だったそうですね。しかし、沿線住民にとっては代替となる公共交通機関が無い(少ない?)点と、並行する国道が冬季になると通行止めになる点などで、只見線が “生活” “生命線” そのもの。だから「無くされては困る」ということで、福島県や新潟県を始めとした沿線自治体は存続を希望し、その動きにJRが折れる形になりました。ただ、JRは「列車の運行と線路の保守はやるけど、駅や周辺施設の管理からは手を引く」を条件として、いわゆる「上下分離方式」で路線の存続と復旧工事の着手が決まりました。

 

さて、只見線を語る際、切っても切れない関係にあるのが当時の会津線、現在の会津鉄道と野岩鉄道になります。

最初の開通区間は昭和3年の会津若松-会津柳津間で、当初は「会津線」を名乗りました。その後、昭和16年に会津宮下まで開業し、新潟側は昭和17年に小出から大白川までがまず最初に開通してこちらは「只見線」となります。一方、後の会津線になる西若松-会津田島間は昭和9年までに開通しており、この段階では只見線の支線扱いでした(会津滝ノ原までは昭和28年までに開通)。

戦後は昭和31年に会津宮下-会津川口間が開通しますが、これは当初、国鉄線ではなくて、ダム(田子倉ダム)建設のための専用線として開業しました。ダム完成後は線路を整備して昭和38年に国鉄に編入されます。そして昭和46年に曰く付きの日本鉄道建設公団の手で只見-大白川間が開通。西若松-会津滝ノ原間が「会津線」となって、会津若松-小出間を「只見線」としました。画像はその時の模様と思われます。そう、政府自民党と鉄建公団の癒着・忖度によって沿線住民の少ないエリアにわざわざ鉄道線を敷くという国鉄ローカル線問題。只見線もその中の一つに数えられていました。今の自民党と某宗教団体との関係以上だったと私は思っていますが、あれが国鉄の寿命を縮めたと言っても過言ではありません。だって地方出身の政治家は選挙の際に「オラが街に鉄道を敷く」と訴えれば当選できた時代ですからね。

 

平成以降、新潟県中越地震や雪解けの影響による斜面崩壊、町道の橋梁建設に際して橋脚がずり落ちて列車に接触、そして新潟・福島豪雨・・・と何かと災難がついて回る只見線。また、沿線は日本有数の豪雪地帯とあって、一度大雪が降れば、列車も運休を余儀なくされるため、JRにとっては「目の上のたんこぶ」なのかもしれません。

 

これから秋の行楽シーズンで、タイミング良く復旧出来た只見線、そうだ、紅葉シーズンには必ずといって良いほど、只見線は登場しますよね。俳優の木村文乃氏もCMで「たまらん・・・」って言っているじゃないですか。

そーゆーのを最大限活用して、JRと沿線自治体・住民が手を取り合って存続させて欲しいと思います。

 

 

【画像提供】

ウ様

【参考文献・引用】

ウィキペディア(JR只見線、会津鉄道会津線)