10月1日、石北本線全線開通90周年という節目を迎えたのに加え、翌10月2日は同線を走行する特急『オホーツク』が運転を開始してからちょうど50周年の記念日でもありました。

そういった節目が重なる事もあり、今回は沿線出身者としてそれらにまつわる記事を紹介させて頂きます。

 

 

 

まず石北本線の話ですが、元々は池田からの『網走線』(後の網走本線~池北線を経てふるさと銀河線、2006年廃線)として野付牛(※1942年に野付牛町から市政施行の際、自治体名変更に合わせて駅名も北見に改称)に到達後、1912年10月5日に野付牛~網走(後の浜網走)の区間が開業し、現在の石北本線としては最初のルートが開通。

その後、野付牛から遠軽を経由する『湧別軽便線』(後の湧別線。遠軽~湧別は後の名寄本線の一部となり1989年廃線)が開通、この区間を語る上で欠く事ができないのは常紋トンネル(507m)の難工事です。いわゆる『タコ部屋』労働者を過酷なまでに使役し、その上で死んでいった労働者は原野にそのまま埋められたり、酷い例ではトンネル内に『人柱』としてコンクリートに埋設されるという、人間の尊厳を全く顧みない行為が平然と行われたのでした。その問題は後年になって浮き彫りとなり、常紋信号場(2016年廃止)の下り方には犠牲者の霊を弔うための歓和地蔵尊が建立されています。

 

 

 

その後、新旭川と遠軽からそれぞれ建設が進められていた石北東・西線がそれぞれドッキング、新旭川~野付牛を『石北線』と改称、道央から野付牛・網走へ至る最短ルートが完成したのがちょうど90年前の1932年10月1日なのでした。ただ、人口希薄地帯の山間部を貫く区間のため、この時開業した上越・奥白滝・上白滝の3駅はいずれも廃駅となっており、このうち上白滝を除く2駅は交換設備が残されたため信号場として機能しています。

 

 

 

それまで道央から野付牛と網走へは、最初に開通した池田からの網走線ルート、後に開通した名寄・紋別を経由する名寄本線(1989年廃線)ルートが存在し、函館・札幌からの長距離列車が双方で並立していた時期もありましたが、当時道内最長だった石北トンネル(4356m)が難工事の末に完成、それに伴い現在のルートを確立、道央方面からの所要時間短縮に大きく貢献しました。

 

 

 

その石北線は当時本線の名が付かず、あくまでも『宗谷線』グループ(※ここでいう『宗谷線』は宗谷本線とその支線を含めた総称)の子分扱いでしたが、1961年4月1日に輸送実態に合わせた線路名称の整理が行われた際、それまで池田~網走を結んでいた網走本線(※『本線』の名は美幌で分岐する支線の相生線が存在したため)は既に北見を境に運転系統が完全に分離されていた事もあり、池田~北見は池北線として『根室線』グループの子分である支線に転落する一方、残る北見~網走を石北線と併合し、新旭川~網走が石北本線の名称となり現在に至っています。ちなみに同日には音威子府~浜頓別~南稚内の『北見線』が天北線の路線名に変更された日でもあり、本来『北見』の名称は宗谷・網走支庁管内の大半区域に相当する旧国名『北見国』を表すものだったのが、既に北見市(野付牛町の市政施行にあたり、北見国の中心都市という事で改名)にその名を奪われたのを如実に表す出来事でもありました。

(石北線・網走本線時代の旭川~網走間時刻表。当時の優等列車は『石北』『はまなす』の準急2往復のみだが、函館~旭川が1・2レ急行『大雪』として運転される普通511・512レに食堂車が連結されているのが興味深い。※日本交通公社『北海道各線時刻表』1958年12~1月号より転載)

 

 

名実共に旭川~北見・網走を結ぶ幹線ルートとなった石北本線は、その前後から気動車による優等列車を徐々に増やし、東海道新幹線が開業した1964年10月1日のダイヤ改正からは、前日まで東京~名古屋の151系電車特急としてその愛称が使われていた『おおとり』の名を頂戴し、キハ80系による函館~釧路・網走(網走編成は滝川で分割の付属編成で食堂車なし)の北海道特急第2弾として華々しくデビュー、石北本線にも特急列車が走る事となります。後に釧路編成は『おおぞら』に分離、単独運転となった『おおとり』は後に食堂車を連結して道内最長距離を走行する特急列車に相応しい体裁となり、他の特急列車が増発や整理統合による系統見直しで複数運転となっていく中、キハ183系に置き換え後の1988年3月13日ダイヤ改正で廃止されるまで終始1往復運転に徹したまさに孤高の存在でありました。

(キハ80系おおとりのイメージ。ヘッドマークは合成)

 

 

さて…ここから特急『オホーツク』の話となるのですが、ちょうど50年前の1972(昭和47)年10月2日のダイヤ改正でキハ56系気動車で運転の急行『大雪』の1往復を格上げする形で札幌~網走のキハ80系による特急列車としてデビュー、愛称はそれまで石北・名寄本線経由で旭川~興部を結んでいた急行列車から頂戴したモノで(※愛称名そのものは石北線の準急列車として1959年に使用されたのが始まり)、それまでの北海道特急列車とは異なり、函館駅を発着しない特急列車のはしりであり、あくまでも道内の都市間輸送に徹した『ビジネス特急』としての位置づけでありました。

(運転開始初日である昭和47年10月2日付の特急オホーツク運転記念入場券3枚セット。裏面には運転時分が記載されており、下りが札幌7:00→網走12:43、上りが網走16:10→札幌21:54と、概ね現在のオホーツク1・4号のスジと同様である)
 
 
 
当初1往復でスタートした『オホーツク』も、後に急行『大雪』を格上げする形で勢力を拡大、特急オホーツク誕生10周年を迎えた1982年10月6・7両日で2往復とも新型キハ183系に置き換えられ、一旦キハ80系の使用列車は消滅します。しかし1985年3月14日ダイヤ改正で、それまでの気動車急行『大雪2・3号』(現在のオホーツク3・4号のスジに相当)を格上げして増発した列車にキハ80系が復活、車両は『おおとり』との共通運用だったため食堂車も連結されており、1986年11月1日ダイヤ改正で『おおとり』と共にキハ183系に置き換えられるまでの間、定期昼行特急列車最後の食堂車営業列車として、25年に渡る北海道のキハ80系定期運用のラストを飾りました。
(写真素材がないため、三笠鉄道村に食堂として利用されているキシ80 31の画像で勘弁してください…)
 
 
 
国鉄分割民営化前の1986年11月ダイヤ改正からは新型N183系も仲間に加わり、ハイデッカーグリーン車のキロ182-500が3往復中2往復に連結される事となり、まさに特急オホーツクの『白眉』でありました。しかし普通車に関しては従来の183系中心の編成だったため、N183系の塗装に合わせた特急色への塗り替えが完了するまでは国鉄特急色との混色編成がしばらくの間見られました。
(ハイデッカーグリーン車のキロ182-504は復刻塗装後の撮影)
 
 
 
その後、函館~網走を結んでいた『おおとり』が青函トンネル開業に伴う1988年3月13日ダイヤ改正を機に札幌駅で『北斗』『オホーツク』に分離され、札幌~網走の昼行特急は4往復体制となり、その後キハ183-500・キハ184のペアという形で網走・札幌方の先頭車がN183系という編成も登場しましたが、ハイデッカーグリーン車は『北斗』に優先投入される事になったため、稀に編成に入る程度に後退しています(その代わり中間車にNN183系のキハ182-550が入るパターンも時折あった)。
 
 
 
1992年3月ダイヤ改正で14系客車の夜行列車として1往復だけが残っていた『大雪』も前年の『利尻』と同様の気動車に寝台車を挟む形でオホーツク9・10号に衣替えし、これを機に使用車両のキハ183系の内外装リフレッシュが行われましたが、基本的には0・900番台のみの運用となり、時々オホーツク運用に入るのみとなっていたハイデッカーグリーン車は消滅(但し、キロ182-508が極ごく稀に運用に入る事があった)、車内アコモも前年の『スーパーとかち』が785系電車に準じた座席と荷棚交換が行われたのに対し、オホーツク用は室内化粧板の交換と座席モケット交換(※個人的な感想だが、キハ183系0・900番台普通車のR51C簡易リクライニングシートの座り心地はあまり良くない)のみという小手先の変更に留まり、グリーン車はオリジナルの4列席のままでアコモ改良すらされなかったのは残念でした。
また、1990年9月の785系電車投入に伴う札幌~旭川のL特急増発で、特急オホーツクの同区間だけの利用をL特急に誘導するためこの時に基本編成が4連(夜行は寝台車を挿入の5連)に短縮され、適宜増結される事もありましたが、増発を行わない形での編成短縮は石北特急の凋落を象徴するかのようで、一抹の寂しさを感じずにはいられなかったのでした。

 

 

 

その夜行オホーツク登場の前年の1991年、特急オホーツクの脅威ともいうべき都市間高速バス『ドリーミントオホーツク号』が北海道中央バス・北見バス・網走バスの3社共同運行で運転を開始し、特急オホーツクと所要時間に大差ない事から利用客が転移し、徐々に勢力を強めていったのに対し、JR北海道は採算性の低い石北本線特急より他線区の高速化を優先、特急オホーツクは凋落の一途を辿っていったのでした。


 

 

その間、普通席の定員を増やすためキロ182-0のキロハ化の際にグリーン席3列改良といった事も行われましたが、特にスピードアップや車両置き換えといった施策は行われる事なく、夜行便のオホーツク9・10号が利用低迷のため流氷観光シーズンのみ運転の臨時列車に格下げされた後廃止、路線草創期から運転されていた夜行列車の系譜はついに消滅したのでした。

 

 

 

尚、流氷観光シーズンには1998年から『オホーツク流氷号』『流氷特急オホーツクの風』ノースレインボーエクスプレス(NRE)編成で運転されましたが、2015年シーズンを最後に運転されなくなり、NRE編成の引退が決定した事から2022年11月19・20日に『流氷特急オホーツクの風』としてリバイバル運転される予定ですが、結局流氷観光シーズンに再び運転される事は叶う事はありませんでした。但し、リゾート編成の後継にあたるキハ261系5000番台の多目的特急車両はまなすラベンダー編成によるオホーツク・大雪の車両変更は時折行われており、来る10月13日~31日にラベンダー編成による運転が予定されています。

 

 

 

さて…一般のキハ183系による特急オホーツクは、普通車の座席交換(キハ283系のグレードアップ指定席化による発生品)やトイレの洋式化改良を行いながらキハ183系初期車が長い間使用され、『とかち』のキハ261系置き換えによるN・NN183系の余剰車が遠軽方の先頭車に入るようになった事などの変化もありましたが、「キハ183系車両の老朽化による使用車両の削減」の名目で、2017年3月ダイヤ改正では特急オホーツクの4往復中2往復をそれぞれ『ライラック』『大雪』として旭川で系統分割し、札幌~石北本線沿線への直通客は乗換を強いられるという、石北特急史上最も大きな変化ともいうべき出来事が起こります。

 

 

 

利用実態の変化に伴う特急列車の運転区間短縮は既に他のJR各社でも行われていましたが、それは概ね県庁所在地を境に分割しており、利用客の入れ替わりが大きい事からあまり問題にはならなかったと思いますが、石北特急(同時に系統分割された宗谷特急も同様)の場合は事情が異なり、道都・札幌への指向が強い北海道では旭川での乗換が一般の利用客にしてみれば不便以外の何者でもなく、さらなる利用客の逸走を招く結果になったのは否めません。

特に大雪~ライラックの乗換となると、北見・網走方面の利用客は乗換に加えて遠軽でのスイッチバックによる座席の方向転換もあり、ノンビリ寝ながら移動しよう…という客にとっては「あずましくない」と敬遠されるのも無理はないでしょう。

 

 

 

結局、利用客減少に伴い季節や曜日による変動の大きい大雪1~4号はコロナ禍の影響も相俟って2021年3月ダイヤ改正から不定期列車化され、多客期を除く通常期は火曜日~木曜日を運休、その日の定期特急列車は朝夕のオホーツク2往復のみという、かつての5往復運転時代から見ればあまりにも寂しい運転形態となっています。まぁ…特急列車が削減されて結局1本も走らなくなった路線から見れば、まだマシなほうといえるのでしょうか…?

コレをチャンスとばかりに、2021年からは大阪バスグループの北海道バスが都市間高速バス『北見特急ニュースター号』の運転を開始し、石北特急はまさに四面楚歌の状態といえましょう。

(北海道バスの便は駅前のバスターミナルに入るのを許されていないため、駅裏側に発着している)

 

 

話が前後して恐縮ですが、2018年3月ダイヤ改正で『北斗』のキハ261系への置き換えに伴い捻出されたN・NN183系が石北特急として使用される事になり、同年6月からハイデッカーグリーン車が復活する一方、キハ183系の基本番台車は完全に引退し、道内特急列車の歴史の転換点でもありました。現在使用中のN・NN183系も来年2023年3月ダイヤ改正を以ていよいよ引退する事となり、代わりに今年3月ダイヤ改正まで『おおぞら』で使用されていたキハ283系が登板される事になりました。同系の石北特急転用はハッキリ言って驚きを隠せませんでしたが、キハ283系ファンにしてみれば新たな活躍が約束される事となったのは喜ばしい事でしょう。ただ…転用にあたってどのようなダイヤになるのか、またグリーン車キロ282形が全廃されたため半室グリーン車の改造を行わないモノクラス編成になってしまうのか(フルムーンパスの廃止も相俟って、その可能性も考えられる)、詳細はJR北からのダイヤ改正の概要の発表を待つ事にしましょう。

(2枚目写真は石北本線で試運転中のキハ283系。上越信号場で大雪1号車内から撮影)

 

 

 

ここから再び石北本線の話となりますが、ご承知の通りJR北海道『単独では維持困難な路線』として存廃の俎上に上がっており、同社では上下分離を前提に存続を目指す方針ではあるものの、沿線人口の減少、少子化に伴う通学生の急減、また特急列車の利便性低下による他の交通機関への逸走に加え、旭川紋別自動車道や十勝オホーツク自動車道といった高規格道路の延長と、石北本線を取り巻く環境は一層厳しいモノとなっており、また道や沿線市町も財政難である事から上下分離に消極的なため、路線の将来については悲観的な見方をせざるを得ません。

しかし…石北本線(他の『単独では維持困難路線』も含む)がこのまま廃線の道を辿るような事を許して良いのでしょうか?同線は旅客だけではなく、いわゆる『タマネギ列車』として沿線産の野菜を道外へ向けて運ぶ季節運転の貨物列車も走行する路線でもあるのです。JR九州の初代社長を務め、国鉄時代には北海道勤務経験もある石井幸孝氏は著書『国鉄 - 「日本最大の企業」の栄光と崩壊』で石北本線の他に宗谷本線・釧網本線・根室本線を『北方4線』として国費を投入してでも残すべき路線だと述べており、しかも新幹線と同じ1435mmに改軌までして新幹線との直通貨物列車を走らせようという大胆な発想まで掲げています。流石に実現は困難でしょうが、トラックドライバー不足が叫ばれる現代、鉄道貨物輸送がもっと見直されても良い時期に来ているのは明らかでしょう。

 

 

 

また、石北本線は道央から網走国定公園や知床国立公園を結ぶ重要な観光ルートでもあり、釧網本線と共に『THE ROYAL EXPRESS北海道』の走行ルートにもなっている位です。いくら赤字だからという理由でアッサリと廃線にしてしまえば観光振興の面でも北海道にとって大きな損失になるのは明らかで、路線廃止をするという事は日本国民が「北海道は要らない」というメッセージを送るのと同然な事だと私は考えます。

 

まぁ…アレコレと語るとキリがありませんが、石北本線の将来をこれ以上暗いモノにしないためにも、ダイヤや車両を魅力的にすべきなのは言うまでもなく、JR北海道も自ら利用促進のための創意工夫を重ねて欲しいという願いを込めて、本稿の結びとさせて頂きます。

今回は脈絡のない記事ですみません。

(本記事の画像は全てイメージです)