旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

この1枚から 随一の「強運」持ち主 半世紀近くを走り続ける東急8000系〔2〕

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《前回のつづきから》

 

 8039Fは大規模な更新工事を施されることはありませんでしたが、前面に赤帯が入ったことの他に、細かいながらも時代に合わせた改造が施されました。中でも最も大きかったといえるのが、1997年までに施工された運転台機器の取り替えです。これは、この年から東横線の保安装置が従来のATSからATC-Pへ移行するため、それに対応するための機器の増設と交換でした。

 このATC-P対応工事で、車上子の搭載はもちろんですが、運転台機器もATC-P対応のものへと変わります。ATC-Pは田園都市線で使われている新CS-ATCの発展形ともいえるもので、車上信号機式の保安装置です。そのため、製造時から搭載していた運転台機器では、この車上信号機を設置することが難しかったため、8500系に類似した車上信号機対応のものに替えられました。これと同時に、運転台高さも8500系並に高い位置へと変更したので、運転士が座る座席も交換されています。

 次いで、行先表示器が幕式からLED式に交換されました。これは、他の車両にも順次施された改造工事で、2000年代に入る頃までには多くの車両がLED式に交換されました。

 8039Fに表示器は、当初は3色式で明朝体のフォントを使って表示していました。しかし、2003年にはより視認性に優れたゴシック体へ変更しています。

 

妙蓮寺-白楽間の下り勾配カーブを通過する8039F。この時は特急での運用に入っていて、写真では見づらいが、行先表示器には赤文字四角枠で囲った「特急」の文字がある。8000系の前面に赤帯が入ったのは1990年代終わり頃で、それに併せてクハ8000の台車もP-Ⅲ708からTS-815に替えられた。これによって、乗り心地の面で大幅に改善されたといえる。この写真を撮影した2004年には、既に後継となる5050系の増備が始まっており、一時は東横線の主ともいえた8000系も次第にその数を減らしつつあった。8039Fはその中でももっとも幸運な編成で、晩年は赤帯を撤去し、登場時に近い姿で最後の力走をしていた。(8039F×8連 妙蓮寺-白楽 2004年11月22日 筆者撮影)

 

 このように運行路線の環境や時代の流れに合わせた工事は施されましたが、全面的な更新改造の対象とはされず、行先表示器をLED式に替えたこと以外は特に大きな変化はなかったのです。

 それでも、5050系の増備によって僚機たちが順次廃車となり、伊豆急行など他の鉄道事業者へ譲渡されたり、あるいは廃車解体されたりして40年以上に渡って走り慣れた東急線を後にしていく中、3039Fは未更新ながらも比較的最後まで運用された車両の一つとなりました。

 未更新で前面に赤帯のみが入れられたこと以外、ほぼ製造時に近い外観を保ち続けてきた8039Fは、2005年にその赤帯が外されて、登場時と同じ姿に復元されました。この復元では、LED式に交換されていた行先表示器を再び幕式に戻されました。この幕式の表示器は、先に廃車となっていった8021Fが使っていたものを活用したもので、以後、廃車になるまでこのまま幕式の表示器を使い続けました。加えて、既に使用停止になっていた通過標識灯も、急行や特急での運行時には点灯させて走行するなど、往年の8000系の姿に戻って運用されるようになり、3039Fにとって最後の花道となったのです。

 それから2年後の2007年、増備が続いていた5050系がやってくると、ついにその歴史に幕を閉じる時がやってきてしまいました。

 赤帯がなく優等列車での運行時には通過標識灯を点灯させ、さらに幕式の表示機という出で立ちは、まさしく登場時の姿に近づいたことで、多くのファンから注目を集めていましたが、2007年7月1日に運用を離脱しました。

 東急8000系はその時々に合わせて組み替えたり、運用される路線を変更したりしてきたので、3039Fとして組成されていた8両すべてが同じ時期に製造されたものではありません。

 

3039-8248-8158-8218-8168-8249-8159-8040

 

 8039Fを組成していた車両たちで、クハ8039とクハ8040は1973年製の第5次車、デハ8248とデハ8249は1980年製の第12-1次車、デハ8159は1981年製の第12-3次車、そして最若番であるデハ8218は1970年製の第2次車、逆に最も新しいデハ8268は1981年製の第13次車と8000系が長期に渡って増備され続けてきたことを表していました。それだけに、同じ編成を組みながらも細部では形状が異なり、特に目立つものとしては増備の途中から軽量設計に改められて屋根肩部に違いがあるなど、「不揃い」になっていました。

 最も古いデハ8218が製造から38年、最も新しいデハ8268で26年と12年もの差がありましたが、いずれも同じ日に運命の日を迎えました。これは、1962年に登場した7000系が、電装品などを最新のVVVFインバータ制御に換装された上で、7700系として更新改造された後、2018年まで56年もの長きに渡って運用されたのとは対象的で、一時は東急の主力として位置づけられたものの、その差は対照的だったといえるでしょう。

 それだけ、8000系が活躍した40年弱の間に、パワーエレクトロニクスの技術進歩は目覚ましく、東急線を取り巻く環境が大きく変化したことの現れでした。

 運用を離脱した8039Fは、通常であれば廃車・解体されるのですが、そうはなりませんでした。廃車後、8039Fは海を渡ってインドネシアのPT. Kereta Apiに譲渡され、インドネシア近郊の通勤電車として運用されました。一部は子会社である伊豆急に、そして後輩である8090系秩父鉄道へ譲渡されていく中、多くの仲間たちが廃車の後、解体されていく運命の中で、8039Fは海外とはいえ第二の活躍の場を得たのでした。

 しかし、それとて永遠とはいきません。JR東日本から大量の205系がPT. Kereta Apiへ譲渡されると、8039Fの命運もついに尽きてしまいついに廃車解体の運命となってしまったのでした。

 ところが、8039Fのうちクハ8039だけは再度解体を免れ、譲渡された8000系と8500系で12両編成を組成するときに、中間に組み込まれました。現地での8604Fとしてクハ8007に改番されたものの、2022年の現在でも運用され続けていることは、製造から20年余りで廃車の運命を辿った仲間がいる中で、既に50年近くが経とうとしているクハ8039は、言葉通り「強運の持ち主」といっても過言ではないといえます。

 かつて東横線大井町線で当たり前のように見ることができた8000系も、2008年にその姿を消してから既に15年が経ちました。広義の8000系である田園都市線で運用され続けてきた8500系も、今では8037Fが1編成のみとなり、それも2023年には完全に運用を終えてしまいます。

 T字型ワンハンドルマスコンの採用、界磁チョッパ制御と複巻電機子電動機を装備したことで省エネ性を高めるなど、当時としては最新の技術をふんだんに使い、東急線の歴史で一時代を築き上げたのは、「傑作車」ともいえる存在でした。

 いつも見慣れたものが、次々に姿を変え、あるいは姿を消していく中で、8000系も過去のものとなってしまいました。筆者にとって8000系は、幼少の頃から見慣れた存在であったが故に、あまり見向きもしない普遍的な車両としてしか捉えていませんでした。高校時代はそれこそ毎日のように乗り、社会人になっても勤務先が横浜方面であった時代には、やはり8000系に乗る機会は数え切れないほどでした。ある時には、横浜で先輩や友人と酒を飲んでは、終電車として運行される列車に乗り、あるいは友人と買い物に出かけるときにも乗り、そしてその時々で深い関係になった彼女と乗るなど、多くのことが思い出されます。

 筆者の齢も大台に載ったからかもしれませんが、こうして振り返ると、8000系という車両は懐かく思えます。沿線の人々にとって、当たり前の光景であったと同時に、人々の貴重な足として活躍を続けたのでした。

 そして、何より重要なことは、東急線で運用され続けている間に、事故による廃車が生じなかったことです。このことは、鉄道車両としては類稀なことであり、比較的走行距離の短く踏切が少ない東急線という路線環境もありますが、特筆に値するでしょう。安全運行は鉄道輸送にとって、けして欠くことのできない「生命」なのですから。

 

 今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

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