旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

車扱貨物輸送はなぜ消えたのか〔4〕

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《前回のつづきから》

 

 往路に貨物を積んだコンテナを、復路にも貨物を積もうとするものです。あたりまえのようなことですが、これがなかなか難しかったようで、筆者も鉄道マン時代に駅に到着した空コンテナをコキ車から降ろしている作業を何度も見たことがあり、国鉄時代からの「悪癖」と「慣れ」は一朝一夕で解消することは至難のことだったといいます。

 JR貨物の営業マンたちの努力によって、こうした非効率的な輸送を徐々に解消していきます。特に、関西から日本海縦貫線沿線に出荷されていたビールは、従来は一社が1個のコンテナを借りて輸送していたのを、ライバルである他社の製品と一緒に積載して輸送する「混載」が実現します。こうすることで、1社ごとに1個のコンテナ枠を使っていたのを、2社で1個のコンテナ枠を使うことになるため、輸送にかかる運賃なども折半であれば半額ですみます。また、JR貨物も2個のコンテナ枠を1個に減らされたおかげで、もう1個分の枠を他の貨物に充てることができるので、人気の列車であれば顧客の要望に応える余地が増えるのです。

 

JR貨物保有するコンテナは、基本的に12フィート5トンの小型コンテナであった。20フィート10トンコンテナ以上のものは、通運事業者など私有コンテナが基本で、国鉄時代からUC5やUC7などが使われていた。しかし、その絶対数は12フィート5トンコンテナの数にはおよばず、それを1つの顧客が常時使用するとなると相当数のコンテナが必要になり、通運事業者も他の顧客もあるので対応することに難があった。そこで、ワム車による紙輸送をコンテナ化するにあたり、JR貨物が自ら製作保有する20フィート10トンコンテナとして登場したのが30Aコンテナだった。(©Gazouya-japan, CC BY-SA 4.0, 出典:Wikimedia Commons)

 

 このビール輸送は、単に2社の製品を共同輸送にしただけではありません。北陸方面から関西に輸送されたコンテナを、復路である関西から北陸方面への「空荷」を解消するため、JR貨物の営業努力によって実現したものです。運賃設定も、従来は本社が一元的に管理していたものを、割引など顧客獲得のための権限を各支社に移譲したことで、より柔軟な営業ができるようになった結果だといえます。

 こうして、より収益性の増したコンテナ輸送は、さらに発展をしていきます。

 2012年に10トントラックと同じ積載量をもつ、30フィート級の大きさでウィングルーフを備えた48A形を製作しました。それまでは、このサイズの大型コンテナは鉄道利用運送事業者や顧客自らが制作・保有する私有コンテナでしたが、JR貨物自身が大型コンテナを量産したことは特筆に値するでしょう。

 もっとも、筆者が鉄道マン時代の1992年にも、30フィート級ウィングルーフコンテナである42A形が試作されていました。大型トラックのアルミバンボディに似た形態で、これが量産されれば顧客のニーズに応えることができ、シェアを回復できるとさえ考えましたが、残念ながら実際には量産に至ることはなかったのです。

 その試作コンテナである42A形から20年が経って、ようやく30フィート級大型コンテナが量産されました。12フィート級や20フィート級では載せることができない大型の貨物や、一度に大量に輸送することを可能にしたことで、より顧客のニーズに応えることができるようになったのです。

 

鉄道貨物輸送に取って代わったトラック輸送も、2000年代に入ると人手不足が深刻なものとなっていた。特に長距離トラックのドライバー不足は深刻なもので、それまでハンドルを握ってきたドライバーの高齢化による引退、後継を担う人材がいないことなど、荷主の要望に応えることが難しくなっていた。一方で、物流は待ったなしの状態が続いていたため、鉄道輸送へ切換を希望する荷主も出始めていた。JR貨物は、2000年代の終わり頃から営業方針を転換し、新規の顧客の開拓と、その要望に沿ったコンテナを製作して輸送サービスを提供するようになる。従来は通運事業者任せであったのが、自ら営業へ出向くことは筆者の知る限り大転換といってもいいだろう。そうした中で登場したのが30フィート10トン・ウィングルーフコンテナである48A、49Aコンテナだった。もっとも、こうしたコンテナは国鉄から継承したコキ50000系の全廃によって、すべてがコキ100系に切り替わったことで実現したといってもいい。(©高頭 稔, CC BY-SA 4.0, 出典:Wikimedia Commons)

 

 こうして多様なコンテナを用意して、コンテナ化を進めていた一方で、2010年代初頭に至るまで、車扱貨物輸送も残っていました。ガソリンや石油類を輸送するタキ車や、石灰石用のホキ車などはそれまで使っていた車両から、高速貨物列車として運用が可能な新型へと置き換えられていきました。

 しかし、ロール紙輸送は変わらずワム80000が使われていました。すでに、多くは20フィート級コンテナである30A形などに置換えられていきましたが、東海道本線吉原駅から岳南鉄道線へ乗入れていた列車だけは、完全にコンテナへ移行することもなく、ワム80000のままでした。

 これはあくまでも筆者の推測ですが、コンテナ化を推し進めている中で、最後までワム80000による輸送が残った背景には、JR貨物岳南鉄道との間でコンテナ化の話が進まなかったと考えられます。コンテナ化をすれば、効率的な輸送を実現できますが、岳南鉄道にしてみれば、車扱貨物としてワム80000が入ってくれば、駅設備の改良をする必要がありません。沿線人口の減少やマイカー中心の生活が定着した今日では、旅客収入は期待できるほどではなく、営業収入が厳しい会社の台所事情から新たな設備投資が困難だったのかもしれません。

 また、車扱貨物としてワム80000が入線してくれば、着実に貨物輸送の収入を得ることができるでしょう。しかし、コンテナ化がされれば、貨物運賃の収入が途絶えるか、よくても減少することが考えられたのかもしれません。

 しかしながら、ワム80000は製造から相当の年数が経っていて、老朽化が進んでいました。加えてワム80000の最高速度は75km/hが限界で、高速で運転される旅客列車の合間を縫って走っているとはいえ、ダイヤ編成上のネックになっていたことも、ワム80000による紙輸送に終止符をうつ一因になっていったのでした。

 

いまはなきEF66 20号機が牽く貨物列車。夏の昼過ぎに、新鶴見信号場を発車していく吉原行き3461レを捉えたもの。機関車次位には青色に塗られたワム80000が、その後ろには数両のコンテナ車が連結されているのが見える。この列車の編成から、東海道本線吉原駅を経て、岳南鉄道比奈駅に向けて運転されていた紙輸送列車だということがわかる。この光景も既に過去帳入りして久しいが、以前は、新鶴見を発着する貨物列車はコンテナのほかに、こうしたワム80000のような車扱貨物列車も見られた。(EF66 20[吹]3461レ 新鶴見(信)―鶴見 2009年8月3日 筆者撮影)

 

 顧客である日本製紙は、東海道本線富士駅に隣接した場所に工場をもち、富士駅からも製品を発送していました。かつてはワム80000などによる車扱貨物として輸送していましたが、すでにコンテナによる輸送に切り替えられていました。

 その一方で、しかも車扱貨物として残った列車の授受駅である吉原駅は、富士駅の隣りにありました。国鉄時代の貨物輸送全盛期であれば、隣接する二つの駅が貨物取扱を行っていることはよくあることでしたが、今日のように効率的な経営が求められる環境では、芳しいものとはいえませんでした。

 なにより、隣接する二つの駅に、貨物列車のための入換作業に携わる駅員を配置しなければならず、人的なコストもかかってしまいます。特にJR貨物は必要最小限の人員しかいないので、すべての貨物取扱駅に職員を配置することが難しく、場合によっては旅客会社に委託することもありました。

 自社の営業列車のためならともかく、他社の列車のために人員を配置しなければならないことに、JR東海は消極的な姿勢でした。旅客列車の運転速度の向上によるダイヤ編成のこともあって、JR東海JR貨物に対して、低速で走行する専用貨物列車の廃止と貨物取扱駅を集約するよう要請していたと考えられます。

 このようなことが背景になり、2011年にJR貨物岳南鉄道に対して、翌2012年のダイヤ改正をもって車扱輸送の廃止を通告したのです。

 顧客である日本製紙から出荷されるロール紙は、ワム80000からコンテナへと移行させました。コンテナであれば、専用線を維持管理する必要がなくなり、コストの削減に繋がります。また、コンテナはトラックに載せることで、コンテナ取扱駅である富士駅まで難なく運ぶことができ、輸送量の増減にも柔軟に対応できるので、より効率的な輸送を実現できるようになりました。

 こうして、2012年3月のダイヤ改正をもって、長きに渡って運用されていたワム8000による車扱貨物としての輸送をすべて終了させました。そして、ワム80000による貨物列車の運行終了は、車扱貨物輸送の末端を担っていた岳南鉄道に大打撃を与えました。貨物輸送の運賃収入が4割以上を占めていた同社にとって、貨物輸送の全廃は存続の危機に繋がりました。

 結局、この車扱貨物輸送の廃止が引き金になって、岳南鉄道線の廃止が囁かれるようになりました。もちろん、沿線住民にとって鉄道の廃止は望ましいことではありません。特に通勤通学や買い物、病院へ行くなど鉄道を利用していた人々にとって、鉄道がなくなることは生活そのものを脅かされることにもなります。

 結局、岳南鉄道は鉄道事業を分離させ、岳南電車として再出発させることで存続を図りました。2022年現在も岳南鉄道線は、新たに設立された岳南電車によって運行されていますが、同社の財政事情は依然として厳しいものがあります。国鉄時代の末期、「ゴー・キュウ・ニ改正」では貨物輸送の大整理を実行し、貨物列車は大幅に削減され、同時に車扱貨物を中心にしたヤード継走方式を全廃し、コンテナ貨物による拠点間直行方式に切り替えました。そのため、多くの駅で貨物取扱を廃止し、操車場も機能を停止しました。また、地方私鉄へ直通していた貨物列車も廃止になり、鉄道の存続が厳しい状態に陥ったといいます。そして、中には鉄道事業そのものをやめた事業者もあったほどで、2012年のダイヤ改正は、まさにその再現だったといえます。

 いずれにしても、長い歴史を紡いできた車扱貨物は、法令やその他の制約によってコンテナへ移行できないものを除いて原則として廃止になりました。スピード感とコスト管理、そして効率性を求められる現代にあって、貨車1両単位で貨物を運び、そして人員と手間のかかるヤード継走方式は廃れ、拠点間直行方式になっても専用線など多大なコストのかかる車扱輸送もまた、今日の経済環境のもとでは生きながらえることが困難になったといえるでしょう。

 しかしながら、鉄道開通以来、日本の物流と経済を支え続けてきたことには変わりなく、時代の変化でその輸送形態が変わっていっても、その功績は不変のものといえます。

 

 今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

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