社会人1年目の夏休みに青森県へ車で遠征した。目的はもちろん鉄チャン。学生時代に北海道へは何回も行っているのに、青森県は素通りするばかりで鉄チャンしたことがなかったので、行ってみようと思った。早朝というか未明に東京を出て、ひたすら国道を北上し、その日の夜遅くに七戸までなんとかたどり着いた。

町内の然るべきところに車を停めて仮眠し、次の日は朝から南部縦貫鉄道のレールバスを撮影することにした。手始めに七戸駅に行ってみるとレールバスがポツンと佇んでいた。そのレールバスの車両写真を撮ったり、車庫の中の車両や廃車体を撮ったりして七戸を後にした。そして、盛田牧場前駅付近の勾配区間や坪川駅付近の鉄橋でレールバスの走行写真を撮影した。

お昼頃に撮影を切り上げ、どうしても行きたかった大湊線の打越•有戸間にやってきた。ここが戊辰戦争後に会津藩士たちが流された斗南藩の地かと思うと感慨深いものがあった。そこに吹く風は夏でも冷たかった。

上りと下りの列車を1本ずつ撮って、翌日の津軽鉄道訪問のため金木へ移動した。母からは時間があれば本家のある弘前の親戚に顔を出すように言われていたが、日程優先の鉄チャン旅につきそれは叶わなかった。

↓仮眠から目覚め、取り敢えずは南部縦貫鉄道の本社のある七戸駅に行ってみると、レールバスがポツンと停まっていた。

↓車体を左右に大きく揺らしながら盛田牧場前駅への坂道を登ってきた。

↓大湊線のこのあたりは斗南藩があったところ。岩波新書の『ある明治人の記録』は涙と怒りなくして読めない。(モノクロをカラー化)

金木は太宰治の生まれ故郷の街だ。それは知っていたが、斜陽館などを観光するつもりはなかった。今の僕ならしっかり観光するだろうが、若かった当時は鉄道以外は眼中になかった。その夜はたまたま見つけた街中の結構大きな病院の駐車場に車を停めて、朝まで仮眠することにした。いま振り返っても東京から一般道を青森までやって来て、二晩連続の車中泊など若かったとしか言いようがない。

その日は蒸す夜で、車のエアコンこそつけなかったが送風にしたままエンジンを切って眠りについた。おかげでグッスリと寝ることができたが、翌朝目が覚めると送風が止まっている。なんか嫌な予感がしてイグニッションキーを回すと、エンジンはうんともすんともいわない。バッテリー上がりだ。

さぁ、困った。今日の津軽鉄道での撮影は無理かと諦めかけたとき、駐車場の向こう側に自動車修理工場の看板が見えた。開店までまだ間があったが、玄関の戸をたたき、出てきたおじさんに事情を話したところ快くバッテリー充電を引き受けてくれた。地獄に仏とはこのことだ。あっという間にバッテリーは回復した。しかし、お金を払おうとしてもおじさんに受け取ってもらえず、仕方なく丁重にお礼を申し上げ撮影地に向かった。

↓津軽鉄道金木ー嘉瀬にて。左の車両の床下がスカスカということは客車(ナハフ1200形)か?

↓雨のそぼ降る芦野公園にて

向かったはいいが、この朝は雨こそ降ってはいないものの、どうしようもないドン曇り。しかも湿度があって靄っている。今日も一日やったるで〜という気分ではなかったが、早朝叩き起こされてバッテリーを直してくれた修理工場のご主人のご好意に報いるべく撮影を続けた。金木での撮影の後、深郷田(ふこうだ)、芦野公園にも立ち寄ったが、そのうち雨が降り出してきたこともあり、そこそこ撮影して津軽鉄道を後にした。

その後は日本海に沿って南下。秋田県を素通りし、銭湯に立ち寄った新潟県の村上で車中泊。結局三日連続の車中泊となった。翌日は蒲原鉄道や上越国境の越後中里あたりに寄り道しながら東京に帰った。とても安上がりの撮影行であった。

↑青森からの帰路は日本海に沿って南下し、途中蒲原鉄道に立ち寄った。