大学入学後の生活環境の変化で、色々大変だった1982年。
でもプロ野球においては、一ついいことがありました。
え?どこのファンかって?・・・最近はとても恥ずかしくてカミングアウトできません。
ヒントは、先日の投稿で「1970~75年まで名古屋に住んでいた」と書きましたが・・・カミングアウトしている様なものか!
10月17日の横浜スタジアムチケットが入手できたので、「これは優勝シーンが見られるかも!」と勇んで出かけたのですが・・・見事に廃線敗戦。
(1982-10-17)
※優勝を賭けた横浜大洋戦で先発する三沢投手。この日は敗戦したがチームは翌日のリーグ最終戦で勝利し8年ぶりのリーグ優勝を飾った。
※この試合の冒頭を何枚か撮ったが、フィルム現像に失敗し、まともに残っているのはこの1枚。
で、本題に入ると、
第一次会津遠征で堀を固めたERW軍は11月19日、遂に会津、のみならず福島県を制覇すべく第二次乗り鉄を敢行。
この旅行の行程表は残っているが、写真との突き合わせで明らかに違うスジの列車に乗車しているので、時刻表復刻版に基づき乗車列車を推定。
「Challenge 20,000km」証明写真 (1982-11-19 小出)
※どうやって小出まで辿り着いたかは不明。上越新幹線開業直後だが、乗車の記憶は無い。
(乗ったのだったら、記念写真の1枚でも撮っている筈。)
旅行記録では「1982-11-18~19」となっており、前日深夜上野発の「長岡夜行」を使ったと思われる。でも、そうであれば只見線の早暁1番列車に悠々間に合った筈だが、辺りはすっかり明るくなっている。
背後に写っている列車のサボは・・・
(1982-11-19)
※これは浦佐発8:17、小出から急行「奥只見」となって会津若松へ向かう列車。
※前述の「フィルム現像失敗」の影響が写真上部に・・・。
この「奥只見」号に乗車し、8:44小出を出発。
(1982-11-19)
※乗り合わせた車両は、キハ58の800番台・・・ということは、元修学旅行用車両で、デッキ扉上部にある速度計がその名残り。
そして「景勝路線」の只見線を踏破した訳であるが、途中の写真は一切無く、
「Challenge 20,000km」証明写真 (1982-11-19 会津若松)
※またまた会津若松駅に12:17着。「地域集中乗り鉄」を行うと短期間に同じところに何度も来てしまう。
(その後ERWはこの地を訪れていませんが。)
これで「会津平定」。その余勢を買って浜通りを目指します。
会津若松12:33発郡山行1226レに乗車。
(1982-11-19)
※途中の駅でED77重連の貨物列車を追い抜く。
※ED77ともこれで本当にお別れ。
(1982-11-19)
※追っかけて来た会津若松発12:59の「ばんだい6号」に抜かれる。
・・・って、ここは何処?
(1982-11-19)
※同列車の後打ちを撮っていた・・・そして中央の古びた木製電柱に柱標が・・・上戸駅だ!
※また自分の乗車していた列車がEL(ED77)重連牽引の客車列車であることも確証。
いろいろ撮っておけば、何かと後々役に立つ。
と言っても、まあ面白い写真はここまでで、
「Challenge 20,000km」証明写真 (1982-11-19 郡山)
※14:21郡山着。
その後磐越東線の列車に乗車したのだが、
14:25発に間に合ったのか不明・・・恐らく間に合わなかったものと見られる。
その場合後続の平行は16:34発で、到着は日も暮れた18:51となるが。
「Challenge 20,000km」証明写真 (1982-11-19 平)
※確かにとっぷり暮れています。
一応これで福島県の国鉄完乗を達成しましたが、
いくら「乗り鉄目的」とは言え、今回メインの只見線・磐越東線で起終点の駅名標以外何も記録を残していないのは寂しすぎる!もちろん記憶も殆ど残っていません。
乗り鉄の想い出をいかにポイントを突いて且つ綺麗に残すか・・・これは今日に至る課題となっています。
お粗末様でした。
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